2016年5月22日 主日礼拝

「悲しみへの招き」 川﨑 公平 牧師

マタイによる福音書第5章4節

「悲しむ人々は、幸いである」。そう主イエスは言われました。とんでもない言葉だと思います。こういう言葉を私が今語り得ているのは、少し高いところから、遠いところからだから何とかなっているのであって、本当に悲しんでいる人と一対一になったら、とてもこんなことは言えないかもしれません。 私が神学校を卒業したのは14年前、27歳のときでした。そんな私が長野県にある小さな教会で毎週説教するようになり、まずこのマタイによる福音書第5章から読み始めました。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」。率直に言って、説教しにくかったです。そのとき私は思いました。まだ自分は若いから。人生経験が乏しいから。そんな若いやつから、こんな聖書の言葉を説教されたくないだろうな。しかし、今はこう思います。そんな私も、14年前に比べれば大人になりました。多くの出会いがあり、多くの悲しみに出会い……そこで今は、少しはこの聖書の言葉を説教しやすくなったのだろうか。そんなことはありません。歳を重ねれば重ねるほど、この言葉を語ることの難しさを知ります。もともと、人間に語ることの許されない言葉であったのです。
先週一週間、こういうことを言うのはおこがましいことかもしれませんけれども、私なりに、皆さんのことを考えながら説教の準備をしたつもりです。聖書の言葉を読みながら、いろんな方の、いろんな悲しみを思わないわけにいかない。今、この場所にも、さまざまな悲しみが満ちていることを忘れるわけにはいかないのです。私が牧師として知り得ている皆さんの悲しみも多いけれども、私の知らない悲しみの方がずっと多いと思います。けれども私は信じる。「悲しむ人々は、幸いである」。これは、主イエス・キリストの言葉です。このお方が、皆さんひとりひとりの悲しみを見つめていてくださる。このお方を紹介するために、私はここに立っているのです。
今日の礼拝は、「伝道礼拝」と称して行っています。伝道というのは、私どもの教会のいわば業界用語のようなものですが、まだ信仰を得ていない方たちに、主イエス・キリストというお方を紹介したい、どうかこのお方に出会っていただきたい、ということです。ただもうひとつ、「伝道礼拝」という言い方だけではどうもいまひとつなので、「ウェルカム礼拝」という呼び方をするようになりました。まだ洗礼を受けておられない方を歓迎する礼拝であります。しかし実を言えば、洗礼を受けているかいないかはこの際関係ない。すべての人を、主イエスが招いてくださる。もちろんこれは、今日だけのことではありません。毎週日曜日に私どもがここでしていることは、主イエスの招きを受けるということです。
「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」。言い換えれば、悲しむ人よ、わたしイエスはどうしてもあなたを慰めたいのだ。だから、わたしのところにおいで。主イエス・キリストが、そのようなご意志を持っておられるということです。
ところで、この「慰められる」と訳された言葉は、新約聖書において大切な意味を持つようになりました。しかも、たいへん広い意味を持つ言葉です。「慰める」という以外に、「励ます」、「勧める」、あるいは逆に「戒める」という意味になることもあります。「そばに呼ぶ」というのが原意です。「わたしのそばに来なさい」と言って呼びかけるのです。
マタイによる福音書第八章五節にこういう用例があります。「さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て〈懇願し〉、『主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます』と言った」。この「懇願する」というのが、今申しました「そばに呼ぶ」という言葉です。百人隊長という身分の人が主イエスをそばに呼んで、しっかりとその腕をつかんで、そして、懇願するのです。「どうか助けてください。わたしの大事な人が苦しんでいるのです」。しかしここでは話が逆で、主イエスが私どもに懇願しておられます。「悲しむ人たちよ、どうかお願いです、わたしのそばに来てほしい」。ひとりで泣かないで、泣くのなら、わたしのそばで泣いてほしい。
私が神学校卒業後に赴任した教会に、少し変わった説教の聴き方をするご婦人がいました。礼拝中に説教を聴きながら、その内容をノートするのではなく、絵を描いておられるのです。牧師の話を聴きながら、自分がそこで聴き取ったこと、そこで生まれた思いを、デッサンするのです。へえ、そういう説教の聴き方もあるものかと思ったものです。率直に言えば、あまり私の話と直接は関係のないことも多かったと思います。礼拝堂に飾られている花を描いていたり、このようにたくさんの人が礼拝堂に集まっている姿をスケッチしたり……。
この聖書の言葉を説いたとき、その方が、「先生、わたし、礼拝中にこんな絵を描いているんですよ」と見せてくださいました。大きな人の胸に小さな人が顔をうずめている。ついでに言えば、別に私は礼拝でそんな話をしたわけではないのです。「悲しむ者は幸いだ、その人は慰められる」という聖書の言葉の説き明かしを聴きながら、その人はそういう絵を描いてくれた。明らかに、イエスさまの胸の中で泣いている人の姿を描いているのです。自分の姿というよりは、他の誰かの後ろ姿をスケッチしたのかなと思いました。こういう聴き方をしてくれる人がいたということは、私にとっても幸せなことでした。その人自身、誰にも言えない悲しみを背負っておられたことを、何年もたってから知りました。
こういう主イエス・キリストの言葉があります。「疲れた者、重荷を負う者は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたを休ませる」。主イエスのそばに呼ばれること、それが慰めそのものなのです。そして、そこで初めて流れる涙があると思うのです。 ルードルフ・ボーレンという神学者の、『祝福を告げる言葉』という説教集があります。「悲しむ人々は、幸いである」という言葉を説きながら、ある小説の主人公の姿を紹介しています。深い悲しみの中で、この主人公は大声で泣くのです。けれどもやがて、その涙が凍りついてしまう。遂には笑い始める。そしてこう言うのです。「その笑いとともに、神を信じ得ぬ思いが彼の心に深く入り込み、まったくしっかりと捕え込んでしまった。そして安息が、確かな心がやってきてしまった。彼はもはや、ついさっきまで、あれほどひどく彼の心を動かしていたものが何であったかをも知ることがなかった。彼の心はこごえてしまったのである」。
悲しみの感情というのは、信仰があってもなくても、誰もが知っているものかもしれません。けれども、改めて問います。私どもは、逃げもせず、隠れもせず、悲しみを悲しみとして本当に涙を流すということをしているでしょうか。
神を信じていなければ流れない涙というものがあると思うのです。虚無的な、人生などむなしいと思っている人間は、悲しむことなんかしない。おかしな言い方かもしれませんが、その涙は、長続きしないと思います。しかし私どもの信じる神は、私どもの涙を受け止めてくださるお方です。そういう神を信じるとき、初めて流れてくる涙というものがあると思うのです。旧約聖書の詩編に、このような祈りの言葉があります。
「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。 あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」
このような神を信じるとき、私どもは、おかしな言い方かもしれませんが、安心して泣くことができます。「悲しむことができる人は幸いだ」と言い換えてもよいのです。「あなたの涙を受け入れてくださる方を知っている人は、幸いだ」。「主イエスのもとで泣くことができる人は幸いだ」。わたしの涙を受け入れてくださるお方を知らなければ、本当に孤独だったら、何年泣いても無駄です。そのことに気づくとき、その涙は凍るのです。だからこそ、「わたしのところに来なさい」と呼んでくださるお方の存在が、何にも代えがたく尊いのです。
主イエスご自身が、悲しむことを知っておられた方でした。主イエスの愛しておられたラザロという人が、思いがけず病を得て死んでしまうということが起こりました。このラザロを、主イエスは最後に生き返らせてくださいました(ヨハネ福音書第11章)。けれどもそこで主イエスは、だいじょうぶ、俺が何とかしてやるから心配するな、と余裕綽々でラザロの墓に行かれたわけではなかったのです。「イエスは涙を流された」と聖書は伝えます。私どもの信仰に従えば、神そのものであられるお方の目から、涙がぼろぼろ流れたというのです。なぜ主イエスは泣かれたのか。何も難しく考える必要はない。主は本当に、自分の愛する友人が死んでしまったことを嘆き悲しんでおられたのです。
親しい者を失い、涙が止まらないとき……自分がそういう経験をするだけでなく、そういう悲しみに耐えなければならない人のそばに立たなければならないことがあると思います。そういうとき、しかし私どもは、悲しみの涙を流してくださった主のお姿を思い起こすことができます。このお方に、私どもは呼ばれているのです。「泣いている者よ、ひとりで泣くな。わたしと一緒に泣こう」。「涙が凍り付いてしまっている者よ、悲しみを隠し続けている者よ、わたしと一緒に泣こう」。
しかも主イエスご自身、死の悲しみを経験してくださいました。主イエス・キリストというお方は、十字架につけられて殺されました。自分は神の子だからと言って、死ぬことなんか怖くないと言われたのだろうか。とんでもない、主は誰よりも怖がっておられました。十字架につけられる前の晩、悲しみのあまり悶えるほどであったと言います。殺されたってどうせ甦るんだからだいじょうぶ、などという態度で十字架に向かわれたわけではなかったのです。そして遂に息を引き取られたとき、「わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれました。それこそ父なる神の胸に顔をうずめ、泣きながら、その胸を激しく打ち叩くような祈りをなさったのです。
このお方を、神は3日目に死者の中から甦らせてくださいました。それは、主イエスご自身が慰められた者として生かされたということを意味すると同時に、私どもの悲しみが必ず慰められる、その確かなしるしとなったのであります。
10年ほど前に、私の親しくしていた人が自殺してしまうということがありました。夜遅くに電話で知らせを受けて、現場に駆けつけて……そういうときに生まれるひとつの思いは、「申し訳なかった」というものであるということを、改めて痛いほどに知りました。本当に申し訳なかった。遂に私は、あなたの慰め手となることはできませんでしたね。
その方のご遺体を囲みながら、この聖書の言葉を読みました。家族から電話で連絡を受けた時にたまたま読んでいた聖書の言葉を、そのまま朗読したのです。
心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである、 その人たちは慰められる。
とんでもない言葉です。このような言葉を語り得た方が、地上に人として生きておられたということ自体が、とんでもない奇跡なのです。
既に冷たくなったその方の体に触れながら、ある教会員が言いました。「イエスさまにそっくり」。本当にそうだと思いました。この言葉を聴かなかったら、私は遂に救われなかったかもしれません。正確に言えば、主イエスがこのひとに似てくださったのだと気づきました。この人の悲しみを私はきちんと理解してあげることはできなかったかもしれないけれども、主イエスは、この人の悲しみをよく知っていてくださったのだ。そのお方が、ご自身のいのちを叩き込むようにして語られた言葉です。「悲しむ人よ、わたしのそばに来なさい。わたしは、どうしてもあなたを慰めたいのだ」。
十字架の上で、「神よ、わたしを見捨てないでください」と叫ばれたお方であります。死者の中から、甦らされたお方であります。このお方にしか告げることのできない幸いが、ここにあるのです。
このような主の思いを知るとき、私どもはもう、他の人の悲しみに無関心でいるわけにはいかなくなります。今、もし悲しんでいない方がおられるならば、どうぞ、悲しんでいる人のところに行ってください。「泣く者と共に泣きなさい」とパウロは言いました。共に泣くことしかできないかもしれない。気の利いた励ましの言葉なんか、出てこないかもしれない。けれども私どもはそのようにして、主イエスが共に泣いていてくださることを、いささかなりとも証しすることができると信じます。
「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは、主のそばに呼ばれる」。呼ばれたならば、答えるほかないのです。
       
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