2015年8月9日 主日礼拝

「あなたにも聞こえる神の声」 川﨑 恵 牧師

ヨハネによる福音書第10章7―18節

 
 求道者の方からよくこういう質問を受けることがあります。「神は信じられるのです。けれども、イエス・キリストのことがよくわからないのです。神は神の姿で私達のところにいらっしゃればいいのに、なぜイエス・キリストという人間の姿で来られたのかがわからない。そして、この方が十字架にかかって死ぬということが自分の救いにどんな関係があるのかわからない。」
 今日の箇所では、そのイエス・キリストがみことばを語っておられます。みことばを語っている相手はファリサイ派というユダヤ教徒の中でも律法、神の掟を聖書に書いてある以上に解釈し、厳密に守っている人々でした。
 このイエス様とのやり取りの前に事件が起きていました。イエス様が通りすがりに出会った生まれつき目の見えない人を見えるようにしてくださったのです。 その日は安息日でした。神を礼拝するための聖なる日。神を礼拝する以外に何の仕事もしてはならないと決められていた日でした。
 近所の人々はこの見えるようになった人をファリサイ派の人のところに連れていきました。この出来事を聖書的にどのように解釈したらいいのか、専門家に聞いてみたいと思ったのです。
ファリサイ派の人々は見えるようになった人を尋問しました。
「どうして見えるようになったのか。」
「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」
それをきいてファリサイ派の人達の中に議論が起こりました。
 あのイエスは何者なのか。こんな奇跡を起こすということはやはり神のもとから来た方なのではないか。いや、安息日に人をいやしたのだ。大切な神の律法をやぶるイエスはけっして神のもとから来た方などではない。むしろ重大な罪を犯している罪人だ。
 ファリサイ派の人々は目をあけてもらった人に問いました。「お前はあの男をどう思うのか。」その人は答えました。「預言者だと思います。」さらにきかれました。「お前はあの男を罪人だと思わないのか。」「わたしはあの人が罪人かどうかはわかりません。けれども神様は罪人の言うことはお聞きになりません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、こんなことはお出来になりません。」
 いつのまにか、この人ははっきりと口にしていました。あの方は罪人ではありません、神のもとから来られた方です。そうはっきりと口にしたために、ファリサイ派の人々はこの人を礼拝堂から追い出してしまいました。神に背く罪人を信じるお前は地獄に堕ちろと言われたのも同然のことが起きたのです。
 この人が追い出されたときいて、イエス様はこの人に会いに来てくださいました。「あなたは人の子、神が遣わされた救い主を信じるか?」そうきかれました。その人はイエス様に答えました。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
 その人はイエス様を見ることができました。この方はわたしを救いに来てくださった方だ。そのことが良く分かりました。「主よ、信じます。」そう言ってイエス様の前にひざまずきました。
 この出来事に続いて、イエス様は今日の箇所の言葉を語っておられます。
 7節「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。」「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。」
 イエス様はイエス様を信じないファリサイ派の人々を盗人、強盗と呼ばれました。
彼らは人々を神のもとに導く役目を与えられている人々なのです。けれども、彼らは神の掟を厳しく解釈し、立派に守ることで自分たちを誇っていました。そして、律法を守ることができない人々を裁いていました。
律法の解釈にとらわれて、安息日に人を癒されたイエス様を罪人だと決めつけました。私たちに遣わされた救い主だと見ることができませんでした。彼らは目がみえなかったその人に心を配ることをせず、放っておきました。仕事につけず、物乞いをしなければいけなかったのに助けませんでした。主はその人の目を開けてくださったのに、喜ぶどころか会堂から追い出したのです。
あなた方は自分の名誉のために私の羊を盗んだ罪人だ。そうイエス様はおっしゃいました。
「私が羊の門である。私を通して、人は命に至る。救いにいたる。」そうおっしゃいました。
このみ言葉は旧約聖書で預言者エゼキエルを通して、神様が語られた言葉を意識してイエス様が語られた言葉でした。
 エゼキエル書34章で神はこのように語られました。
「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。」「お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。」
「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。」
 このみ言葉を実現するために、神はみ子イエス・キリストを私達のもとに遣わされたのです。
この箇所に至るまで、ヨハネによる福音書ではイエス様は何者であるかということが問題になってきました。
 イエス様は2章でエルサレムの神殿に入られ、商売人と商品を追い出し、「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」とおっしゃいました。神を拝む場所をめちゃくちゃにしたイエス様にユダヤ人たちは言いました。「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか。」
 さらに、イエス様はベトザタの池で38年も動けないでいる病気の人を癒してくださいました。これも安息日の出来事でした。ユダヤ人たちは安息日の掟をやぶったとイエス様を迫害し始めます。
 けれども、イエス様はこのように人々に答えられました。
 「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」
 イエス様を信じられない人々はイエス様を殺そうと考えるようになっていきました。安息日を破るだけでなく、神様を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とイエスさまがおっしゃったからです。
 イエス様はご自身が父なる神様のもとから遣わされた方であること、神の子であられること、神に等しい方であることを繰り返し語られました。
 ヨハネによる福音書には「わたしは~である」という表現がたくさん使われています。「わたしは世の光である。」「わたしは復活であり、命である。」「わたしは道であり、真理であり、命である。」この表現は主イエス・キリストが ご自身が神であることを宣言しておられる言葉なのです。
出エジプト記に、モーセの前に神様があらわれたときのことが記されています。どこにも火の気がないのに、突然柴が燃えて、神様がお現われになった。そのとき、神様はモーセに「わたしはある。わたしはあるという者だ」とご自分の名を教えられました。
 今日の箇所に至るまで、イエス様はこの表現を何度も使ってこられました。「わたしは命のパンである。」「わたしは世の光である。」「わたしは復活であり、命である。」
 8章24節でははっきりとおっしゃっています。「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
 そして、今ファリサイ派の人々に前に、主イエス・キリストがお立ちになり、「わたしは羊の門である」「わたしは良い羊飼いである」と語られました。お前たちの前に立っている私は神だ。わたしが羊の門。わたしが良い羊飼い。わたしがわたしの羊を探しに来たのだ。そう宣言されたのです。
 けれども、ここで主イエス・キリストはエゼキエル書で語っていないことを語っておられます。
 わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
 
 わたしは十字架にかかり、この命をささげる。愛する羊のために。
 十字架にかかって死なれることを予告されたのです。
 いったい主イエス・キリストが命を捨てることが、私達の救いにどんな意味があるのでしょう。
 この福音書の最初に、洗礼者ヨハネが自分の弟子達にイエス様を紹介して、このように語っています。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」
 この方は、世の罪、私達人間の罪を取り除く、神が与えられた小羊だ。
 随分前になりますが、「マリア」という映画をみたことがあります。主イエス・キリストのご降誕、つまりクリスマスの出来事を描いた映画です。この映画では当時の人々の生活をとても良く研究されていて、服装、食べもの、ナザレの村の風景、人々の働く様子、それらがとても丁寧に描かれています。
 その映画の中で、忘れられないシーンがあります。
 映画の最初のほうにヘロデ王が出てきます。自分の王の座を奪われたくないために、生まれたばかりのイエス様を探して殺そうと企てています。
 そのヘロデ王が神に礼拝をささげるシーンが出てくる。ヘロデの前に黒い立派な牛が連れてこられる。ヘロデはその牛の角をぐいっと無理やりひっぱって、牛のおでこに自分のおでこをつけるのです。そうして、自分の罪を牛に移す。
 そして、その牛は生け贄にされて、神にささげられるのです。ヘロデの犯した罪を神が赦してくださるようにと。牛におでこをつけているヘロデの表情は悪意に満ちていました。何もわからずに、生け贄にされて殺される牛は本当にかわいそうでした。
 旧約聖書の時代にはそのようにして、たくさんの牛や羊が生け贄としてささげられました。それは私達人間の罪を神が赦してくださるよう、神に祈る行為でした。
 イエス様が来られた時にも、神殿ではそのような礼拝がささげられていたのです。罪をゆるしてもらおうと 人々は鳩や牛や、羊を買って神にささげていた。けれども、そこに心からの悔い改めの心はありませんでした。人間の心は神様から遠く離れていました。
 旧約聖書を通して、神様は人間に対して激しい怒りの言葉を語られます。
 イザヤ書24章にこのように語られています。
 「地に住む者よ、恐怖と穴と罠がお前に臨む。」
 けれども、旧約聖書の最後、マラキ書の最後で神はこう語られたのです。
彼は父の心を子に 子の心を父に向けさせる。
 わたしが来て、破滅をもって この地を撃つことがないように。
 そう語られた神は
 主イエス・キリスト 神のみ子を私達のもとにお遣わしになりました。
 私達の罪をかわりに負う小羊として。
 わたしは良い羊飼いである。わたしは羊のために命を捨てる。
 私達すべての人間の罪をかわりに負わせるために 神は独り子イエスを遣わされたのです。その方は「わたしはある」という方 神ご自身だったのです。
私達すべての人間を作ってくださった、天地万物を作ってくださった神が、私達を愛し、救うために、神のもとに戻ることができるように、人間の姿で来られ、人間の罪を背負って、私達の罪を赦そうと、私達人間の新しい歴史を作りはじめようと、神はみ子の姿で来られたのです。
私はヘロデが牛のおでこに自分のおでこにつけるように、イエス様のおでこに自分のおでこをつけている自分の姿を想像してみました。あの人に対して私は怒りを燃やした。あの人のことを裁いた。顔は笑っていても、心の中は冷たいまま行った偽善の罪、数え切れない私の罪を私はイエス様に背負っていただいたのだと気がつきました。そして、イエス様のおでこに自分のおでこをくっつけている自分を想像しながら、私は悲しくなってきました。むしろ、イエス様のおでこの温かさがわたしを温めてくれているような気がしてきたのです。この方はただただ私達を愛してくださる方なのです。私達がどんなに悪態をついても、無視しても私達を愛してくださる方なのです。私のために命を捨ててくださる方なのです。
 そしてその愛によってわたしたちの前に堅く閉じていた門のかんぬきが外されて、門が開かれました。
 神のもとに帰る道、神の愛のもとに帰る道が私達の前に開かれたのです。
 イエス様は14節でこのように語られました。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」
 わたしはあなたを知っているよ。あなたもわたしを知っている。この「知っている」という言葉はただ知っているというのではなくて、深く愛しているという意味の言葉なのだそうです。わたしはあなたを知っている。愛している。だから、私はあなたのために命を捨てる。そして、あなたもわたしを知っているね。わたしを愛してくれるね。そう語りかけられる。
 でも、私達は思います。私達はイエス様を知っているでしょうか。むしろ、私達はイエス様がとても遠くに感じられて、そのために自分の罪を感じて苦しんでいる。
 16節で、イエス様はこのように語られます。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」
 羊はわたしの声を聞き分けるとあります。囲いの外にいる羊もわたしの声を聞き分ける。けれども思います。私達はイエス様の声を聞きとることができない。それで罪を感じて苦しんでいる。
 しかし、イエス様は「あなたはわたしの声を聞くことができるよ。わたしが十字架に掛かったから。あなたはもうその声が聞けるように神様にしていただいている。こっちにおいで。わたしについてきなさい。」そうおっしゃってくださるのです。
 9章にでてきた、あの目のみえなかった人はイエス様の声を聞くことができました。この人の何がすばらしかったのか。どうしてそうなったのか。聖書を読み返してみると、何もないのです。この人のそばをただイエス様が通りかかった。そして憐れんでくださった。この人の苦しみを見てくださった。そして、泥を目に塗って目をあけてくださった。それはイエス様がこの人を愛しておられたからなのです。この人を心から愛し、よく知っていてくださるから、憐れみを注いでくださったのです。そしてこの人の心を開いてくださいました。心のかんぬきを開けてくださり、イエス様のことが分かるようにしてくださった。この方がこの人を導かれることを分かるようにしてくださった。
そして同じことが私達にも起こるのです。私達は一人の羊飼いに導かれて、一つの群れとなって神様のもとに帰るのです。お祈りします。
主イエス・キリストの父なる御神様
ただいまのみ言葉を心から感謝いたします。私達の見えない目を開いてください。私達の聞こえない耳を開いてください。私達の心を開いてください。あなたに愛されていることが分からない私達をどうか憐れみ、赦し、助けてください。あなたは御子イエス・キリストの十字架によって私達の罪を赦し、あなたのもとに帰る道を開いてくださいました。このことを心から感謝いたします。すべての罪を悔い改めてあなたに感謝し、私達を呼ぶあなたの声を素直に聞くことができますように。みんなであなたの後に従うことができますように。あなたは今日も休むことなく、あなたの愛するすべてのものに呼びかけておられます。わたしはあなたがたの良い羊飼いである。どうかすべての者があなたのもとに帰ることができますように。あなたのみ業が成し遂げられますように。み国が来ますように。
このお祈りを尊き主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン
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