2015年 6月7日 主日礼拝

「祝福を聴き続けて歩む教会」  川﨑 公平 牧師

ルカによる福音書 24章50-53節

 
5年間、ルカによる福音書を礼拝において読み続けてきました。それを今日読み終えます。ルカというひとりの人が書いた福音書です。〈福音書〉という日本語からもその意味を読み取ることができますが、「喜びの知らせ」というのが原意です。 この福音書の最初のところに、テオフィロという名前が出てきました。どういう人であったかは分かりません。キリスト教会に関心を持ちながら、まだ洗礼を受けてはいない、いわゆる求道者ではなかったかとも言われます。「テオフィロさま、あなたにこの福音書を献呈いたします。ぜひ読んでいただきたいのです。この喜びの知らせを」。そこでルカがここまで記してきたことは、ひたすらにイエスというひとりの人のことでありました。「テオフィロさま、あなたにイエスというお方を紹介したいのです」。 そのような言葉で始まっていたルカによる福音書の結びの言葉は、このようなものでありました。   彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。   ここで少しひねくれた学者は、首をひねり、批判的なことを言ってみせます。イエス物語の結びならば、イエス自身のことを書いて終わればよいのに、弟子たちの話をもって結びとするというのは、文章の書き方としてうまくない。しかし私は、むしろこのようなところにルカの感謝の思いが込められているように思います。「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」。喜びの群れ、賛美の集団。すなわち教会であります。このような群れを造るための、主のみわざであったのです。 今、ルカによる福音書の結びの言葉と申しましたけれども、本当は不正確な言い方です。ルカはこの続編として使徒言行録を書きました。この喜びと賛美の群れが、なおどのような歴史を造り始めたかを丁寧に書きます。その使徒言行録の最初にも、テオフィロの名前が出てきます。ルカがテオフィロに伝えたかったことが、もうひとつあったということでしょう。「テオフィロさま、わたしはあなたに、キリストの教会を紹介したいのです。ここに喜びの集団があります。賛美の群れが生きております」。ここに、教会の使命というか、教会の基本的なアイデンティティが明らかにされていると思います。 再来週は、伝道のための礼拝、つまり、まだ洗礼を受けていない人たちのための礼拝をしたいと計画しています。と言っても、特別なことをするわけではありません。いつも通りの礼拝をします。ただ、私の説教があまり難しくならないように、気をつけるくらいのことです。 初めて教会に来られる方もあるかもしれません。しかし、考えてみると、礼拝では説教を聴くだけではありません。もし私の話を聞くだけなら、最近はインターネットでも毎週の説教を音声で聴くことができるようになりました。聴こうと思えば街を歩きながらでも私の説教を聞くことはできます。もしそういう人がひとりでもいれば、とてもありがたいことです。しかし他方から言えば、それだけでは礼拝をしたことにはなりません。 私どもが願うのは、何と言っても、ここに来て、一緒に礼拝をしてほしいということです。ここに来ると、何があるのか。神が目に見えるわけではありません。キリストの像を礼拝堂に飾るようなことも、私どもは厳しく退けております。そんなことをする必要はない。なぜなら、ここには皆さんがいるからです。キリストを伏し拝み、喜びに満たされて、神をほめたたえている集団です。 それを見て、まだ洗礼を受けていない人は、いぶかるかもしれない。いったい、何をしているんだろう。なぜこの人たちはうれしそうに讃美歌を歌っているんだろう。……こんなことを言ったからって、再来週の礼拝では作り笑いをしていないとだめかなあとか、余計なことを考える必要はありません。無理しなくても、一般の人びとにとっては、十分、不思議な集団だと思います。日曜日の午前中という貴重な時間を毎週この礼拝のために費やすということが、既に不思議でならないはずです。「いったいこの人たちは何だろう。何がうれしくて、毎週ここに集まっているんだろう……」。 まさに、このような喜びの集団、賛美の集団を造るために、主イエス・キリストのすべてのみわざがあったのです。ルカによる福音書が最後の最後で、心を込めて伝えるのは、そのことだと思うのです。 ルカによる福音書が、最後に伝えていることは、お甦りになった主イエスが天に上げられたということです。この福音書の続きの使徒言行録によれば、主イエスは復活ののち40日間を弟子たちと一緒に過ごされ、そののち天に上げられたと言われます。それを既に福音書の最後でも、簡潔に記しているのです。 40日間、復活の主が弟子たちと共にいてくださいました。それは、あとにも先にもない、特別な時間であったと思います。弟子たちは、主イエスと共に過ごしながら、さまざまなことを語り合ったと思います。けれども遂に、主イエスは天に上げられた。これも使徒言行録の記述によれば、そのことが起こったのは山の上であったと言います。おそらく主イエスが弟子たちに呼びかけて、「一緒にあの山に登ろう」と言われたのでしょう。けれども、彼らが山を下りるときには、もう主のお姿はなかったのです。 考えてみればさびしいことです。それだけに興味深いのは52節です。「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り」と言います。普通に考えれば、別れは悲しみをもたらすものです。もう地上では二度と会うことができないとなれば、なおさらです。けれどもこの弟子たちは、主イエスと遂に別れなければならなかったとき、喜びに溢れたというのです。もし何も知らない人が山の下で待っていたとしたら、「あれ、山の上で何かあったんですか」ということになったと思います。いったい何があったのでしょうか。 ルカはここで、「祝福」という言葉を繰り返します。50節、そして51節です。   イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。   弟子たちは、山の上で、主イエスの祝福を受けたのです。「手を上げて祝福された」。毎週礼拝の最後に、牧師が手を上げて祝福を告げるのは、この主イエスのしぐさに由来します。私に皆さんを祝福する力があるわけではない。祝福してくださるのは主イエスです。私は、その事実を告げるだけです。 「手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ……」という書き方にも、ルカの深い思いが込められているようです。主は祝福の手を下ろすことなく、祝福の姿のままで天に上げられたのです。ここまでひたすらに主イエスのことを紹介するために、ルカは福音書を書いてきました。そのルカが最後に紹介する主イエスのお姿とは、今も祝福の手を下ろすことのない主イエスのお姿であったのです。「テオフィロさま、あなたにこのお方を紹介したいのです」。 「祝福する」と訳されている言葉は、元の言葉の成り立ちをそのまま生かして訳し直すと、「よい言葉を語る」という意味の言葉です。主イエスが、つまり神が、私どもによい言葉を語ってくださる。神が私どもを肯定してくださると言い換えてもよいと思います。「あなたはよい」。その言葉が、弟子たちの顔を喜びで輝かせました。 神の祝福ということを考えるときに、何と言ってもまず思い起こさなければならないのは、創世記の第1章であると思います。神が世界とそこにあるすべてのものをお造りになったことを記しながら、印象深く繰り返されることは、「神はそれを良しとされた」と言われることです。「神は光を見て、良しとされた」。草を造り、木を造り、「神はこれを見て、良しとされた」。その最後には、改めてお造りになったすべてのものをご覧になって、「見よ、それは極めて良かった」と記されます。祝福とは、そういうことです。「ああ、実にすばらしい。これを造ってよかった。この人を造ってよかった」。この神の祝福のまなざしのなかで、私どもはこの世界を見、自分自身を肯定することができるのです。この神の祝福を知ってさえいれば、もう自分を否定する必要はない。自ら死を願う必要もない。いや、もしも自ら命を絶つようなことが起こったとしても、それでもなお揺らぐことのない神の祝福を、私どもは知っているのです。 私どもが日曜日に教会に集まる意味は、まずここにあると私は思うのです。創世記の第2章の最初のところでは、神が7日目に仕事をお休みになり、その安息の日を祝福なさったと記されます。ご自分のお造りになった世界を、こころから愛でられたと思うのです。それが安息日です。キリスト教会はこの7日目の安息日を、主の復活の日である日曜日に移しましたけれども、基本的な意味において変わりはありません。私どもが日曜日にここに集まるのは、神の祝福を知るためです。「この人を作ってよかった」。神がそう断言してくださっていることを知るのです。その確信のないところに、本当の安息もありません。 53節の最後に、「神をほめたたえていた」とあります。興味深いことに、この「ほめたたえる」という言葉も、原文では50節、51節の「祝福する」と同じ言葉です。つまり、「よい言葉を語る」ということです。主が私どもによい言葉を語ってくださるなら、それは私どもを祝福してくださるということになるでしょう。逆に私どもが神に向かってよい言葉を語れば、それは神を「ほめたたえる」ということになります。神さま、わたしの存在を肯定してくださってありがとうございます。わたしも、わたし自身の存在を喜んで受け入れます。それが、そのまま神に対する賛美の言葉になります。 私どもがここから出て、帰って行く生活には、さまざまなことがあると思います。悲しみも不安もある。腹を立てたくなることもある。神に文句を言いたくなるようなことだってあるかもしれない。けれども私どもは、根本的なところで、神の祝福を知っているのです。そして、神が主イエスを死者の中から復活させてくださったとき、創世記第1章の神の祝福に、最終的な確証が与えられました。死を越える祝福です。その主の御手を今も確かに感じながら、私どもも、神に向かってよい言葉を語り続ける。このような集団を造るための、主イエスのみわざであったのです。 エルンスト・バルラハという彫刻家の、「再会」という作品があります。甦られた主と、弟子トマスとの再会です。トマスという弟子が、他の弟子たちが復活の主イエスに会ったと言っても、「いや、俺は信じない。あの方の手の釘の跡を見なければ、その釘跡に自分の指を入れてみなければ、決して信じない」と言い張って聞かない。ところがそのトマスの前に、他の弟子たちもいるところで、主イエスが現れてくださった。 バルラハは、そのトマスの像を、自画像として刻んだのではないかと言われます。明らかに老人の像です。主イエスはしっかりと立っておられます。その主イエスにすがりつくようにして、腰も膝も弱りきったような老人トマスが、そのお顔を見上げています。そのトマスの脇の下を、主の両腕がしっかりと支えています。もし主イエスがその両手を離したら、たちまちトマスは崩れ落ちてしまうのではないかと思います。主イエスに支えられているトマスの顔は、単純な再会の喜びに満たされてはおりません。まだ不安と疑いが残っているようです。けれどもそのトマスを、主が支えておられる。私は写真でしか見たことはないのですが、何度見ても、なんだか、泣きたくなってくるような作品です。「祝福」とはこういうことなのかと思わされます。これが、私なのだ。いや、もっと言えば、これが教会なのだ。 この作品について、ある説教者の言葉によって改めて知ったことは、このトマスを両腕で支えておられる主イエスの足には、なお太い釘が刺さったままであるということです。このトマスを祝福するために。このトマスが、不安と疑いに崩れてしまわないために。そのために主イエスはしかし、その手足に釘を打たれなければなりませんでした。私どもに代わって、神の呪いを受けてくださった主イエス。そのお方を通して、私どもにも神の祝福が及びました。主が両手を上げて弟子たちを祝福してくださったとルカが記す、その祝福のみ手もまた、十字架の傷が残る手でしかなかったのです。 このお方に、私どもは祝福されている。支えられている。今ここにも、主の祝福を聴き続けて歩む群れが造られています。そのような教会の存在そのものが、何にもまさる、主の祝福の証しとなるのです。
(六月七日 礼拝説教より)
 
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