2015年4月19日 主日礼拝

「死と滅びからの救済 川﨑 恵 牧師

エゼキエル書第371114

 

 今日の箇所では、エゼキエルという人が神さまに導かれて幻を見ています。彼は預言者でした。神さまの言葉を人々に伝える者として神さまに選ばれた人でした。神さまは彼を導かれ、ある谷の真ん中に連れていかれました。そこはたくさんの死んだ人の骨でいっぱいでした。神さまはさらにその谷のまわりに彼を連れていかれました。するとその谷の上にもたくさんの人の死んだ骨がつもっていました、そして、それらの骨はみんなカラカラに乾いていました。
 
 昨日は私たちの教会の墓前礼拝 -お墓の前でささげる礼拝- がありました。横浜の日野公園墓地の中に私たちの教会のお墓があり、お墓には大きな納骨堂があり、中にはたくさんの教会の方々や家族の方々の骨がおさめられています。そのお墓の前でたくさんの人が集まって、神さまに礼拝がささげられたのです。そこを昨日おとずれて、改めて自分の家族の姿がみえないこと、その骨がカラカラに乾いて、お墓におさめられていることを思いだし、胸が苦しくなるような思いになられた方がこの中にいらっしゃるかもしれません。
 
 
カラカラに枯れてしまったたくさんの人々の骨の前で、神さまはエゼキエルに聞かれました。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」
エゼキエルは「無理だと思います」とも、「神さま、この人たちを生き返らせてください」とも言いませんでした。
 
 「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」そう、申し上げました。
 
 神さまはエゼキエルに言われました。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。『枯れた骨よ、主の言葉を聞け。』『見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。』」
 
 エゼキエルが神の言葉を告げると、骨たちはカタカタと音をたてて、近づき、筋肉があらわれ、肉があらわれ、人間の姿を取り戻しました。
 
 聖書の記述は無味乾燥な表現に感じます。けれども、私はこのみ言葉を読んで、骨に語りかけてくださった神さまに感動しました。神さまは枯れた骨に命を与えたい、一緒に生きたい、そう思ってくださいました。神さまは骨たちに語りかけてくださいました。「見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。」
 
私は谷いっぱいに落ちていた骨が体をとりもどし、たくさんの男の人、女の人、おじいさん、おばあさん、夫たち、妻たち、子供たち、赤ちゃんの姿があらわれた風景を想像してみました。土埃のたつ、谷いっぱいにたくさんの元気な人々の体があらわれた。けれども、8節によると、その中に霊はなかった。命がまだなかったとあります。
 
さらに神さまはエゼキエルをとおして、今度は「霊」にむかって語りかけられました。この霊とは神さまの霊のことです。神さまは神の霊に命じられました。「霊よ、四方から吹き来れ。これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」
 
 エゼキエルが命じられたように神の言葉を語ると、四方から、神の霊が吹き込み、彼らの中に入り、人々は立ちあがり、生き返りました。たくさんの大人たち、たくさんの子供たち、お年を召した方も、若い方も、みんな元気に自分の足で立ったのです。たくさんの人々が神さまの命をいただいて、新しく立ちあがった。
 
 これはこれから起こることを教えるために、神さまがエゼキエルにみせた幻でした。これから神さまがなさることを教えるために、この幻をみせたのです。神さまはこの幻の意味を教えられました。それが先程ご一緒にお読みした11節以下です。
 
 「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。」
これらの骨は、ただ地上の命を終えて、死んだ人たちの骨をあらわしているのではありませんでした。イスラエルの全ての人の姿だというのです。
 
イスラエルは、神さまが特別に選んだ人たちでした。神さまは御自分の自由なお考えで、アブラハムの子孫であるイスラエルを全世界に神さまの救いを示す、特別な民として選んでおられたのです。
神さまはイスラエルと特別な契約を結ばれました。
わたしはあなたがたの神、あなたがたはわたしの民。そうおっしゃってくださり、神の民が守るべき掟を与えてくださいました。その掟に生きるということは神さまを愛し、人を愛して生きるということでした。神さまの御手に守られて、神さまの愛をたくさん注がれて、神さまを愛し、尊び、喜び、たくさんの仲間たちと愛し合って生きることでした。
 
けれども、先ほど私たちが見た、あの谷じゅうに落ちていた枯れた骨はイスラエルの人々の姿だと神さまは言われるのです。
 
 いったいどういうことなのでしょう。
 
 
イスラエルの人々はその頃、ふるさとから何百キロも離れたバビロニアの国にいました。国ごとバビロニアに滅ぼされて、政治家たちももろごと、根こそぎ全員この土地に連れてこられたのです。この幻をみているエゼキエルも、その一人でした。バビロニアは近隣の国に強さをあらわすために、イスラエルの国を滅ぼして、人々を無理矢理何百キロも離れた土地に全員連れてきたのです。そして、何十年も彼らの自由を奪ったのです。
 
イスラエルの人たちは、その地でずっと牢屋に入っていたり、鎖につながれていたわけではなかったようです。多くの人が農業をしていた。結婚し、子供を生み、家族をつくることもゆるされていた。けれども、子孫ができても、孫ができても、彼らはふるさとに帰れなかった。自由を失っていた。敵の支配下に結局はある。本当の自由を失っていた彼らは、次第に希望を失っていきました。自分たちは生きていても死んでいても同じだと思っていました。
 
関連がある聖書の箇所をみてみると、こういう言葉に出会います。イザヤ書第4914節に、「主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、……」
 
神さまはもう私たちを見捨てたのだ。神さまはもう私たちを忘れたのだ。私たちはここで滅びるのだ。死んだような心に彼らは捉えられていました。それが、この枯れた骨なのだ。
 
けれども、わたしはその骨に語る。そう神さまはおっしゃいました。
「枯れた骨よ、主の言葉を聞け。」「見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。」「わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れていく。」「わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」
 
神さまはエゼキエルを通して、語りかけてくださいました。お前たちを私は見捨ててはいない。わたしはあなたがたに命を吹き込む。わたしの霊を吹き込む。死んだも同然になっているあなたがたをわたしがこの墓から引き上げる、そうしてあのふるさとに連れていく。わたしがあなたがたに与えたあの豊かな土地に。わたしとあなたがたが愛し、共に生きていたあのふるさとイスラエルにわたしがあなたがたを連れていく。わたしの霊が吹きこんで、あなたがたはわかるようになる。わたしがあなたがたを造り、愛し、守っている神なのだと。わたしがあなたがたをとてつもなく愛し、大事にしていることがわかるようになる。
 
 エゼキエルが神の言葉をとりつぐと、骨が近づいて、肉がついて、人々の体がよみがえりました。そして、神さまの霊が吹き込んで、新しいイスラエルの人々が立ち上がりました。神さまが共におられ、愛してくださっている。導いてくださっている。だから大丈夫。そのことがよくわかるようになり、元気になったたくさんの人々があらわれました。神さまの愛をうけて喜びに満ち溢れているたくさんの人々です。神さまをあおぎ、神さまのことが大好きで、神さまの言葉をきいて生きるのが大好きなたくさんの人々。みんな神さまの命を注がれて立ちあがった。
 
 神さまはそのようにして、イスラエルをよみがえらせ、ふるさとに連れていく。わたしが連れていく。そうエゼキエルをとおして、語りかけてくださいました。そして、そのみ言葉のとおり、やがて彼らは神さまに導かれて、ふるさとに帰ったのです。
 
 
 谷に散らばっているたくさんの骨。
 それは、神の愛を見失った人間の姿でした。私たちの命をつくり、私たちを大事にして、愛してくださっている神さまが、見えなくなった人間の姿でした。
 
私たちにもそういう時があるのではないでしょうか。たくさんの仕事や勉強が襲いかかって来て、忙しくしている間に神さまの愛がわからなくなってしまう。思いがけず病気になり、家族やまわりの人に迷惑がかからないように、早め早めに治療を受けたのに、どんどん悪くなっていく。病気や体の弱った家族を助けようと、できる限りのことをしているのに、状況が悪くなっていく。聖書を読むことができなくなり、神さまに祈ることもできなくなってきて、いつの間にか神さまを仰ぐことができず、うつむいてつぶやくだけになってしまう。愛する家族が死んで、その人を支えることが、その人が笑顔になってくれることが生きる喜びだったのに、その人はいなくなってしまった。わたしは何のために生きていったらいいのか。私はひとりだ。私は神に見捨てられた。私は生きていても死んでいても同じだ。
 
 谷じゅうにうずたかく積もった枯れた骨は、イスラエルの民だけではなく、神さまを見失ってしまう全ての人間の姿でした。私たちを造ってくださった方、この全世界を造ってくださり、すべてを愛してくださり、導いておられる神を見失い、どこにいけばいいのか、なにをしたらいいのか、どこに確かなものがあるのか、将来はどこにむかっているのか、すべてがわからなくなった人間の姿でした。神の愛を見失い、愛することもできなくなり、人の言葉に傷つき、自分も人を傷つけ、人間のもつ残虐さにおびえ、自分も同じような心をもつことにおそれ、その心にふたをしながら、偽善を行う私。そして、いつか、この命が終わる。病なのか、災害なのか、年老いて力つきるのか。いつか私たちは地上から消える、家族や友人や人々との生活が終わる。その恐怖におびえる私たち人間の姿でした。
 
 そのような枯れた骨に向かって、神さまはおっしゃったのです。
「枯れた骨よ、主の言葉を聞け。」「見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。」「霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば、彼らは生き返る。」
 
 そして、神はこの言葉を語られた何百年も後に、一人の人間のお姿で私たちのもとに降りて来られました。主イエス・キリストというお姿で、私たちに神の命を与え、私たちの心に神の息を吹き入れて、神と共に生きる、新しい人間につくりかえるために、来てくださったのです。
 
 主イエス・キリストは言われました。わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。わたしは復活である。わたしが命である。そう宣言してくださったこの方は、神さまから離れていた私たちの罪を自ら負って死んでくださいました。自分がそのように神さまに背を向け、罪を犯していたこともわからなかったこの私の命をも救うために、この方は来てくださいました。
 
主イエス・キリスト。その方は私たち人間のかわりに十字架につけられて、殺されました。そして、死んでくださり、死からよみがえられた。私たちがみなしばりつけられ、がんじがらめにされていた死の力、神さまの愛を信じられないようにし、神さまに背をむけ、罪を犯すようにさせてきた、私たちをがんじがらめにしてきた罪の力、闇の力に、愛をもって勝利してくださり、死からよみがえってくださったのです。
 
 この私たちのただ中に、死からよみがえれた主イエス・キリストがお立ちになりました。そして、今度はわたしと共にあなたがたは生きるのだと、死からよみがえられた主イエス・キリストは一人一人に出会ってくださいました。そして、主の愛を告げ、主の救いを告げ、主のゆるしを告げ、聖霊を注いでくださり、今、わたしと共に神がいてくださることを、今わたしと共に主イエス・キリストがいてくださることをわかるようにしてくださったのです。この方こそわたしの主、わたしの神であることがわかるようにしてくださったのです。
 
 わたしが復活であり、わたしが命である。そのわたしがあなたと共にいる。そのことを信じなさい。そのことを信じるものは生きる。
 
 ある牧師がこのように説教の中で語っていました。
 
主イエスが復活であり、命なのです。主イエスを信じるということは私共の気持ちの問題ではないのです。今生きて働き給う主イエス・キリストと一つにされ、このお方と共に生きていること、そのものなのです。こう言っても良いでしょう。主イエスを信じる、復活を信じるということは、それを頭で理解するようなことではない。そうではなくて、十字架にかかり、三日目によみがえられた主イエス・キリストというお方と共に生きている、このお方と一つに結びあわされて生きているということなのです。
 
神はすべての者に、すべての枯れた骨にむかって、言われました。「見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。」そして、「お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」
 
 世界中の人に向かって、既に地上の命を終えた全ての人に向かって、これから生まれてくる子供達に向かって、神は言われました。
 
 お前たちは生き返る。お前たちは生きる。そして、あなたがたは私のことがわかるようになる。わたしはあなたがたの神。わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしの民。あなたの存在の奥深くにわたしが住んでいる。だからもうあなたがたは滅びない。わたしの愛を受け、わたしのゆるしを受けている。どんな闇の力も、どんな死の力もこのわたしの愛からあなたがたを離れさせることはできない。わたしはあなたたがたの神。あなたがたはわたしの民、わたしが愛をもって造った人間である。わたしとお前たちは愛し合って永遠に生きるのだ。
 
 それが今日、私たちに語ってくださった神さまの生きた言葉。私たちに語りかけて下さる神の言葉なのです。
 
祈ります。
 
主イエス・キリストの父なる御神さま、
ただ今のみ言葉に感謝いたします。神を見失い、枯れた骨のようになったようなイスラエルの姿は、私たちの姿でした。けれども今日、あなたは私たちに救いをお語りくださいました。主イエス・キリストによる救いをお語りくださいました。そして、「わたしはあなたがたに霊を吹き込む。そうすればあなたは生きる。」そうおっしゃってくださいました。あなたの語られたみ言葉が信仰を呼び起こしてくださいました。「わたしがあなたの神である。あなたがたはわたしの民である。わたしが共にいる。死に勝利したわたしがあなたがたを導く。わたしを信じなさい。」今私たちは立ち上がり、たくさんの人々と共に、あなたをほめたたえて、歌いたいと思います。あなたが私たちの所に来て下さったことに喜び、あなたのものとされたことを喜び、心からの賛美をささげたいと思います。このお祈りを尊き主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン
 
         
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