2012年7月15日 主日礼拝

「善を行うことには、疲れを知らず」  川﨑 公平 牧師

ガラテヤの信徒への手紙 第6章1-10節

本日7月15日、ようやく、大澤正芳・みずき両先生の牧師就任式を行うことができました。都合さえ合えば4月1日に牧師就任式ができたのですけれども、大澤先生ご夫妻の最初の赤ちゃんが4月10日に生まれたということが大きな理由であったと思います。しかし、このようにある程度待たされた上で牧師就任式をさせていただくというのもありがたいことだと思います。この3ヶ月半で、既によくこの教会に受け入れられていると、私もそのことを感謝しております。よい先生が与えられたと、皆さんの様子を見ながらも、そのことを率直に喜んでいます。そのことを既に喜びながら、神さまの前に新たな思いで就任式をする、お約束をするということは、とてもありがたいことだと感謝しております。
今日、雪ノ下通信の7月号が発行されました。たまたまと言ってよいと思いますけれども、その雪ノ下通信の教理の窓というコーナーに、「説教の聴き方」という文章を私が書きました。牧師就任式に合わせてそういう特別な文章を書いたわけではなく、いつもの通り、『雪ノ下カテキズム』講話の続きを書いただけですけれども、この就任式の日にふさわしいカテキズムの言葉を読むことができたことも、神の導きと感謝しております。この雪ノ下通信の教理の窓は、あまり皆さんによく読まれているコーナーではないのではないかと思っておりますけれども、私自身はとても楽しんで書いています。このコーナーを書くこと、その前に教会の集会で雪ノ下カテキズムを説くということは、私にとってとても楽しい、喜びのわざになっています。ぜひ読んでいただけるとありがたいと思います。今回その中に、こういう文章を書きました。牧師就任式をするということは、「わたしたちは、このふたりの人から、神よ、あなたの言葉を聴きます」と、神のみ前に約束をすることです。その意味では、牧師就任式をするというのは、「わたしたちはこの牧師先生を大事にします」というようなことにとどまらず(もちろん大澤先生ご夫妻を大事にしたいとは思いますけれども)、そのようなことを超えて、私どもが今約束した大切なことは、「わたしたちは、この教会は、神の言葉を大切にします。あなたの言葉をこれからも聴き続けます」。私どもが重んじるのは、神の言葉です。
その関連で、今日お配りした牧師就任式のプログラムの中で、改めて心に留めたいことがあります。今日は牧師就任式のことをも覚えて、ガラテヤの信徒への手紙第6章の言葉を読みました。前回私が説教いたしました7月1日の礼拝に続けて、2回に分けてこの伝道者パウロの書きました言葉を読みました。このガラテヤの信徒への手紙第6章というのは、古来、教会が牧師就任式をする時に大切にしてきた言葉であります。今回はそのこともあって、少し異例のことかもしれませんけれども、牧師就任式のプログラムのいくつかの箇所に傍線を引いておきました。この傍線がある部分は、特にこの言葉が大事だという意味ではなくて、既にお気づきかもしれませんけれども、今日読みましたガラテヤの信徒への手紙第6章に典拠を持つ言葉がいくつかある。そこに傍線を付しておきました。
ひとつは、後ろの方から見ていきますが、「教会員の誓約」、今皆さんに誓約をしていただいた言葉の中に、「御言葉を教えてもらう人は、教える人と、全ての良い物を分け合いなさい」(ガラテヤ6・6)とありました。これはいったいどういうことかと言うと、少なくともこの牧師就任式の式文で言えば、「主は福音を宣べ伝える者が福音によって生活すべきことをお教えになりました」という文脈の中で引用されております。新共同訳聖書は、今読みました式文において「良い物」と訳されている言葉を「持ち物」と訳しました。改めて新共同訳聖書で6節を読みますと、「御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい」。なぜ微妙に言葉が違うかというと、牧師就任式の式文は、新共同訳の訳文よりも少し古い、口語訳と呼ばれる翻訳に則っているためです。しかし「良い物」という意味もあるということを覚えておくことも大切だと思います。元のギリシア語の意味からすると、まず「良い物」というのが基本的な意味です。けれども、たとえば英語でも「良い」ということを意味するグッドという言葉が複数形でグッズとなると、これは日本語にもなっていますけれども、品物とか商品とかいう意味になる。同じようにギリシア語でも「良い物」という言葉がまた同時に「持ち物、財産」という意味になるのです。
非常に現実的なことですが、この鎌倉雪ノ下教会の営みにおいても、今皆さんがここにお献げくださった献金のかなりの部分が牧師の生活費になります。同じようにガラテヤの教会においても、教会の人たちが献げる献げ物によって、御言葉を教える者たち、牧師たちの生活が支えられるということがあったのだと思います。これは大切なことで、いい加減にしてはいけないことだと思いますが、パウロはそこで「われわれは良い物を分かち合っているのだ」という言い方をいたしました。「良い物を分かち合う」という言葉から、それはお金のことだと真っ先に考える人は、もしかしたらいるかもしれませんけども、教会に来ている私どもは、そうは考えないと思います。私どもにとって「良い物を分かち合う」と言ったら、何と言ってもキリストの恵みです。それを分かち合うために牧師は神の言葉に仕えます。鎌倉雪ノ下教会のような大きな教会にいると少し気づきにくいかもしれませんけれども、たとえば私が以前おりました松本東教会は、礼拝出席40人足らずの教会でしたが、その献金のだいたい半分は牧師の生活費になりました。日本基督教団全体の統計を見ても、だいたいそのぐらいの割合であります。礼拝の中で献金が献げられる。松本でも同じように聖餐卓に献金を置きました。それを見ながら、時に私は恐れを覚えたものです。このお金の半分は自分のお金になるんだな……。ありがたいことだとも言えますし、しかし、深い恐れを呼び起こすことでもありました。なぜそこまでしてくれるのだろうか。けれども、そのように教会が持ち物を献げて牧師を支えるのは、牧師という人間を重んじるからではなく、神の言葉を重んじるからです。私どもはこのように献金を献げながら、しかし神の言葉を重んじること明らかにしているのです。「御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい」。そのようにして良いもの、神の御言葉を分かち合う歩みを造りなさい。そのことをパウロは心を込めて、ガラテヤの教会に語りかけた。もしかしたら、そのようなことを言わなければならない問題が既に起こっていたのかもしれません。
これも、今日発行されました雪ノ下通信の牧師室だよりに私が書いたことですけれども、私が鎌倉雪ノ下教会に赴任して初めて経験したありがたい務め、今日二度目に経験しているありがたい恵みは、この教会の担任教師の就任式の司式をさせていただくようになったということです。これまで経験したことのない、思いがけない務めでありますけれども、ありがたいことだと思いました。たとえば司式者として勧告の言葉を読みます。ガラテヤの信徒の手紙の言葉に基づいてこのような勧告をします。(傍線が引いてあるところですが)「自らを欺いてはなりません。人の蒔くところはまたその刈るところとなります。常に善を行うことにうみ疲れてはなりません」。……という式文を読み上げながら、しかし私自身も牧師です。自分自身に対する勧告として読まないわけにはいきません。もちろん、これまでも自分の就任式、妻の就任式、また近隣の教会の牧師就任式、いろんな場面でこのような勧告の言葉を聴き続けてきましたけれども、自分で司式をしてみて、改めてこのパウロの言葉が身に迫ってくるような思いがいたしました。
「自らを欺いてはなりません」。牧師とは、自分を欺かない存在である。自分にうそをつかなくてよくなったと言い換えることもできます。自分らしく、自分を偽らずに生きることができるようになった。それが牧師である。そのように自分を欺かない人間が何をするかというと、「常に善を行うことにうみ疲れてはなりません」。それが私だと、さあ、言えるかどうか。改めて自分自身が問われます。
今読みましたふたつの言葉がガラテヤの信徒への手紙の中で、どこに現れたかお分かりになったでしょうか。最初の「自らを欺いてはなりません」という言葉は、第6章3節の「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています」。それからもうひとつ読みました、「常に善を行うことにうみ疲れてはなりません」。この言葉がガラテヤの信徒への手紙第6章のどこに出てくるか。もしかしたら少し分かりにくかったかもしれません。9節の最初に、「たゆまず善を行いましょう」という言葉がありました。これが以前用いておりました口語訳聖書では、「わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない」となっていたのです。それを新共同訳は少し滑らかに、「たゆまず善を行いましょう」と訳しました。少し滑らかすぎるかなと思わないでもありませんけれども、口語訳の方が原文に近いと言うことができます。
「自らを欺いてはなりません」。「善を行うことにうみ疲れてはなりません」。牧師就任式の司式の準備をしながら、しかも今日は特にこの部分に傍線を引っ張りながら、考えてみれば不思議な言葉だと思いました。自らを欺かない。もう自分にうそをつかないで生きることができるようになった。しかも、もともとパウロがこのガラテヤの信徒への手紙を書いた時には、別に牧師に限ったことではなくて、第6章1節の表現で言いますならば、「“霊”に導かれて生きているあなたがた」、つまりキリスト者すべてを指していると考えてよいでしょう。洗礼を受けてキリスト者になるということは、神からの霊を受けて、神の霊に導かれて生きるようになるということです。その私どもの生き方はどこにその特質があるかというと、「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています」。けれども、もうそんな事はしなくていい。実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思い込み、背伸びをして自分を欺く必要は、もうないのだ。自分らしく、自分に正直に生きればよい。そのように自分を欺かない生き方を手に入れたとき、何が起こるかというと、「常に善を行うことに、うみ疲れてはなりません」。
ここは、それこそ自分に正直になりたいと思いますが、私どもはやはり疲れると思います。疲れない人は、あまりいないと思います。そして、なお正直に自分のことを考えてみたいと思いますけれども、私どもが何に疲れるかというと、善を行うことに疲れるのです。善を行うとあっというまに疲れてしまう自分の姿に気づいていない人は、むしろ稀ではないかと思います。先週の木曜日、婦人会の例会で、私が聖書の話をした。今婦人会の例会では、〈山上の説教〉と呼ばれる主イエスの言葉を聴き続けています。先週は第5章21節以下の、「腹を立ててはならない」という主イエスの言葉を読みました。腹を立てる者は殺人の罪を犯したに等しい。そのような主イエスの言葉です。山上の説教の言葉もいろいろありますけれども、有名な言葉のひとつではないかと思います。婦人会の例会では、私の講話の後に、日曜日の礼拝とは違って、自由に質問や感想を述べることができます。あまり活発な発言がなくて寂しい思いをすることもありますけれども、先週の婦人会は違いました。主題が主題だけに、非常に活発な語り合いが行われました。次々と、いろんな人が手を上げて、その日の感想や質問を述べてくださり、こんなに関心を呼び起こしていただいてありがたいと思いましたけれども……。たとえば、つらいのは、自分は腹を立てまいと我慢するけども、相手は明らかに腹を立てて、言いたいことを言っている。それで相手はもうすっきりしちゃっている。けれども自分はそのことをじっと覚えていて我慢していて、いつまでたっても忘れることができない。しかし、どうもあの人は、けろっと忘れているようだ。そっちの方がむしろ健康的ではないか……とまでは言いませんでしたけれども、そういう思いさえ呼び起こしかねない。あまりにもその感想が的を射ていたので、私を含めて皆笑っちゃったんですけれども、そういうところでも、私どもは「善を行うことにうみ疲れる」という経験をするのだと思います。
しかも問題は、「自分を欺かない」ということです。むしろ腹を立てたい時には好きなように腹を立てて、主イエスの言葉なんかちょっと忘れて、自分らしく怒りたい時には怒り、自分らしく自分の気持ちを偽らずに生きた方が疲れないであろう。そのような思いに誘われます。そして私どもの実際に作っている歩みというのは、そのような面がやっぱりどこかにあるのではないかと認めざるを得ない。けれどもこのパウロの言葉はそれだけに不思議です。「自分を欺くな」。「自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています」。ひとかどの者になんか、ならなくていい。背伸びなんかしなくていい、と言われたら、「怒りたい時に怒るぞ」と言いたくなるかもしれませんが、そこで、「善を行うことにうみ疲れてはなりません」。これが背伸びをしない、あなたがあなたらしく生きる生き方なのだと、パウロはそう言っているかのようです。これはとても不思議な恵みを語る言葉だと私は思います。
そのようなことを考えながら、私がもうひとつ思い起こしたことがあります。また雪ノ下通信の話ですけれども、私ではなくて妻の恵牧師が、牧師室だよりにマザー・テレサの文章を引用しておりました。私はこの説教の準備をしながら、自然とこの人のことを思い出していました。しかし説教の中でマザー・テレサの話をして、ちゃんとした説教になるかなあと、少しためらっていました。日曜日の説教で私がマザー・テレサの名前を出すのは、たぶん今日が初めてではないかと思います。なぜかというと、ひとつには明らかに、恥ずかしいという思いがあるからです。 この人はこんなにすぐれた愛の働きをしたということを声高に説教で語り、それで私は牧師ですと言うのは、何となく口はばったいというような思いがある。しかし牧師室だよりの妻の文章を読みながら、励まされるような思いで、これも何かの導きかなと思いました。
マザー・テレサという人がどういう人で、どういうことしたかということについて、延々とここで説明する必要もないと思います。最も貧しい人のために仕えるという思いで、たとえばハンセン病患者のための施設を作ったり、しかし何よりも私どもの心を打ちますことは、「死を待つ人たちの家」というものを作ったことだと思います。もう手の施しようがない。死を待つだけ。しかも誰もその人を看取ってくれる人はいない。そういう人たちを集めて、その人のそばにいて、その人が孤独のままに死ぬことがないようにしてあげる。もちろん何よりもそこで、罪の赦しの福音を伝えます。「あなたはひとりで死ぬのではない。神さまと仲直りして死ぬことができるのだ」。こういった活動のために、今でもたくさんの修道女が働いています。このような、人びとの心を打つ献身的な活動が、ひとりの女性の決心によって始められ、ここまで発展したということは、神の奇跡を見るような思いがいたしますけれども、しかし建前でも何でもなく、このひとりの女性が鮮やかに示してくれた生き方こそ、キリスト者すべてに与えられた祝福された生き方であると、私は信じております。自分を欺くことなく、しかも善を行うことに疲れない。休む必要がない。報われる必要がない。しかもそれでいて疲れることを知らない。それが、たとえば私のような人間ですと言い切るのは、やっぱりいつまでたってもためらいの思いがつきまといますけれども、パウロがここで語っている霊に導かれた者の生き方、神の祝福を知る者の生き方とは、まさにそのようなものではないかと思います。
正直に言って、私も、善を行うことに疲れるということを体験的によく知っております。しかし、おそらく皆さんも共感してくださると思いますけれども、他方で私どもも疲れを知らずに何かをするという体験を知っていると思います。疲れを知らずに何時間でもおしゃべりをする。一日中遊びまわっても疲れを覚えない。あるいは、体を削るように働いても、それに見合う報酬があれば、働きがいがあるかもしれない。けれどもマザー・テレサのような人が教えてくれているのは、なぜこの人は報いもないのにこんなに働いているのだろうか。なぜ疲れないのだろうか。むしろ私どもはそういうところで、本当に簡単に疲れるのです。その疲れの限界の低さは、驚くべきものがあると思います。
何よりも、私どもが何に疲れるかということを考えるときに、改めてこの第6章の1節にまでさかのぼらないわけにはいかないと思います。「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」。誰かが罪を犯している。「不注意にも」ということは、その人は気づいていませんけれども、回りの人は気づいています。そのために迷惑をこうむっています。けれども、なぜこの人は気づかないのだろう。けれどもそこで苛立ちの心や怒りの心ではなくて、「柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」。考えてみれば、私どもがそういう時に疲れるのは苛立つからでしょう。腹を立てるからでしょう。けれどもパウロはここで、善を行うことに疲れを知らない生き方を教えてくれていると思います。それは「柔和な心」。それならいつまでたっても疲れません。そんなことはないだろうと思われるかもしれませんが、本当に柔和な心なら、疲れることもありません。けれども、もう一度申します。私どもは何に疲れるかというと、誰かが罪を犯した時に、そして、その人の罪の重荷をわたしが背負わないといけないという時に、一番疲れる。だから2節で、「互いに重荷を担いなさい」と言うのです。そのような重荷がどんどん重くなってくると、どうしてこんなにわたしが疲れなければいけないか、あの人もこの人もわたしの苦労を分かってくれないと思い込みます。しかしパウロは、あなたがたは善いことをするのに疲れてはならないと言います。疲れなくなる。そうしたら、いつまでも善いことを行うことができます。いったい、どこにそのような道が開かれるか。いくつかのことを考えてみたいと思います。
ひとつはこういうことです。ある日本のジャーナリストが、このマザー・テレサという人に質問をしたことがあったそうです。あなたもあなたと一緒に働いている修道女たちも、何も報酬がないのにあんなに献身的に働いている。その秘密は何ですか。マザー・テレサはこう答えたそうです。「わたしたちは、今ここだけを見て生きているのではありません」。地上の視点からは見えないものを、わたしたちは見ているのだ。天の視点と言ってもよいかもしれませんし、永遠の視点を得ていると言うこともできるかもしれません。それが8節の、「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります」という言葉の意味です。霊に導かれて生きる私どもは、霊の畑に種を蒔き、そこから永遠の命を刈り取ります。それと逆のことが、「今ここだけを見ている」生き方です。地上のことしか見ていない。そうすると本当に簡単に疲れます。私どもは、今ここだけを見てはいないのです。それをもう少し言い換えると、わたしたちは今ここだけの手応えに生きているのではないのです。永遠の手応えを知っている。私どもが疲れ果てるのは、こんなことをして何になるかと思い込む時です。いつまで続くのだろうかと思う時です。そして何の手応えも感じない時です。私がまだ若い頃に、マザー・テレサと呼ばれる人が、そしてその仲間たちが、何をするのでもない、ただ死にゆく人の側に立って福音を語っているということを聞いた時、そんなことして何になるかな、という思いがつきまとわなかったわけではありません。なるほど貴重かもしれない。しかし結局死ぬだけではないか。けれども今は分かる。ひとりひとりを看取りながら、誰もその人を見てくれていないという人を看取りながら、この人たちは、永遠の手応えを感じ取っている。いつか世の終わりに神さまがご褒美をくださるであろうというような漠然とした話ではなくて、今ここで、霊に蒔くことを知っているのです。そこに「霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります」という、神の約束の手応えに生きているのです。そのような手応えを、私どももしかし、既に知っているはずではないかと思います。誰かが罪を犯した時、その人の重荷を背負いながら、しかし私どもはそこで永遠の手応えを感じ取るのです。わずかな献金を献げ、あるいは多額の献金を献げ、これがあの牧師たちの生活費になるのか、しかしこんな牧師たちを支えて何になるのかなというようなことを、もしかしたら時に思いながら、しかしパウロはそこで永遠の手応えを感じ取る生き方をしようと呼びかけるのです。
その関連で、もうひとつ興味深いことがあります。10節に、「今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう」。「われわれは時を持っているのだ」と言います。元のギリシア語の意味は、そういう言葉です。「今時のある間に」と、これも新共同訳は少し滑らかに訳しすぎてしまったかなとも思わないでもありませんが、「われわれは時をちゃんと持っている」。いつまでも無限に続く時間。いつまで私はこの人のためにこんなことをしなければならないかと思い込む時に、地上的なことしか見ていない私どもは、しかしむしろ時を持たずに、永遠の地獄にはまり込むような思いになるのだと思います。けれどもこの世界の〈時〉を握っていてくださるのは、主イエス・キリストであるということに気づく時に、私どもは正しい意味で〈時を持つ〉ようになります。その〈時〉の中で、私どもは永遠の手応えを感じ取りながら、いつか主イエス・キリストが来てくださるその日まで、善を行い続ける。他者の罪の重荷を担い続ける。そのようにして主イエス・キリストの再び来てくださる時を待つのです。
そこでもうひとつ、最後に皆さんと考えたいことがあります。5節に、「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」という言葉がありました。これは先々週説教した時に触れようと思いながら触れそこなってしまった言葉ですけれども、なぜ触れなければならないと思ったかと言うと、2節の「互いに重荷を担いなさい」という言葉と矛盾するように読める言葉でもあるからです。「互いに重荷を担いなさい」「自分の重荷を担いなさい」。このように説明することもできるかもしれません。2節と5節の「重荷」という言葉は、元のギリシア語は少し違うのです。そして5節に出てくる、「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」というこの「重荷」という言葉は、多くの聖書学者が説明してくれるところによれば、終わりの日、主イエス・キリストの前に立たなければならない時に、自分が何をしてきたか、すべて申し開きをしないといけない。何よりもそこで自分が犯してきた罪について責任を取らなければならない。それが、「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」という言葉の意味だと説明されることがあります。その重荷は誰も担うことができません。わたしとイエスさまだけの関係です。誰も手を出すことができません。その時どうするのだろうか。
先ほど、聖書朗読の後に私が悔い改めの祈りをいたしました。今日の説教の準備をしながら、自然と、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という、主イエスの言葉に導かれるように祈りをいたしました。このマタイによる福音書第11章28節に出てくる「重荷」という言葉は、ガラテヤ書第6章の5節に出てくる「自分の重荷を担うべきです」という「重荷」と同じ言葉です。終わりの日、主イエスの前に立つ時に、私どもはもう一度新しい思いで、この主イエスの招きの言葉を聴くのだと思います。重荷を負う者、めいめいが自分の重荷を負っている者は、しかしそこでこそ、あの主イエス・キリストに出会います。そのような自分であることを、そのような重荷を既に負い始めている自分であることを、私どもはもう知っているのです。終わりの日、どのような顔をして主イエスの前に立たなければならないか。そのことをよく知っている人間は、善を行うことにうみ疲れないという面を持つでしょうけれども、しかし、ひとつ大切な局面は、もう一度3節に戻ります。「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら……」、もうそんなことを思うことはできなくなっている自分であることに気づきます。何よりも、自分のために主イエスが十字架につかなければならなかった、そのような自分であることに気づきます。そのような自分だからこそ、他者の罪の重荷を担うことができるのだというパウロの言葉遣いは、とても興味深いものがあると思います。
下手をすると私どもはこういう思い違いをすると思います。他者の重荷を担う。いやとんでもない、わたしは自分の重荷だけで精一杯なんだ。自分の重荷も十分に担い切れていないのに、他の人の荷物まで持てるか。しかし、ひとかどの者になり、一人前になり、自分の荷物をきちんと自分で持つようになったら、他者の重荷を担うこともできるであろう。けれどもパウロがここで語っていることはずいぶん違います。私どもも体験的に知っていることです。パウロは言います。「誰かが罪を犯したなら、その人に柔和な心で接しなさい、その人の重荷を一緒に担ってあげなさい。自分の重荷を軽々と背負ってみせるひとかどの者ではなくて、むしろ主イエスの招きがなければ、休ませてあげようという主イエスの招きの言葉がなければ、立つこともできなかった自分であることに気づきなさい」。自分は何者でもないのだと、そのように自分を欺かない時にこそ、私どもは初めて、他者の罪の重荷を担うことができるのだと思います。
牧師という人物は、そのような意味でも、ひとかどの者として皆さんの前に立つのではありません。罪を赦された者として皆さんの前に立ちます。しかし、だからこそここで、互いに重荷を担い合おうと教えることもできるのです。 2年前の7月に、私もこの場所で牧師就任式をいたしました。その牧師就任式をする直前に、私はルカによる福音書第15章が伝える放蕩息子のたとえ、失われた息子のたとえと呼ばれる主イエスの言葉を説教いたしました。その時の説教を皆さんが覚えておられるかどうか、私はその説教の中でレンブラントという人の描いたひとつの絵を紹介しました。レンブラントというオランダ改革派教会の信仰に生きたひとりの画家が、最晩年に描いた、放蕩息子のたとえを題材にした絵であります。ひとりの息子が父親のもとに帰ってくる。ぼろぼろになって。服はぼろぼろ、すり切れてしまったサンダルも、片方は脱げてしまっている。そのような息子、ひざまずいている息子を抱え込むように、その肩に手を置いて祝福していてくださる父なる神の御手のありがたさを、説教の中で語ったことがありました。しかし、私がその牧師就任式の前に、そのレンブラントの絵と対話しつつ説教の準備をしながら、ひとつ苦労したことがある。このぼろぼろの放蕩息子、これが自分だということを受け入れるのはなかなかたいへんだなということに気づいたのです。ここまで自分は落ちぶれたか。その自分のみすぼらしさは、罪深さと結びついています。そのような自分をまず受け入れなければ、この教会の牧師としての生活を始めることはできないのかなと思いました。牧師という存在は、そのように、ただひたすらに自分の重荷を担いつつ、けれどもその重荷を主も担ってくださることを頼みとしながら、ひとかどの者としてではなく、罪を赦された者として、自分を偽らず、自分を欺かず、皆さんの前に立つ存在です。その牧師たちの語る言葉を聴くこの教会もまた、自分をひとかどの者とは思わず、互いに赦し合い、互いに重荷を負い合い、そして善を行うことに疲れを知らず、主がもう一度来てくださるその日まで、共に霊に導かれて歩むのです。新しい牧師たちを迎えつつ、このような教会の歩みの姿勢を新たにさせていただきたいと心から願います。お祈りをいたします。
主イエス・キリストの父なる御神、もう一度初心に立ち帰らせてください。思い違いをすることなく、自分自身を欺くことなく、互いの重荷を担い合い、善を行う歩みをすることができますように。なお善を行う時が残されております。すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人びとに対して、倦むことなく、善を行うことができますように。赦された者として、もう一度あなたの前に立ち、ひざまずく思いを与えてください。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン
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