2015年2月1日 主日礼拝

「イエスこそ神の子」 川﨑 公平 牧師

ルカによる福音書第22章63―71節

 
最近、ある方からこんなことを尋ねられました。「洗礼を受けるのに、どのくらい勉強が必要なんですか?」 まだ洗礼を受けておられない方からの質問ではありません。洗礼を受け、既に長く教会員として生活しておられる方です。私はそこで、「勉強なんか必要ないですよ。イエスさまを信じるか、信じないか。すべてはそこにかかっています」。もちろんこれは、その方をある意味で信頼した上で言ったことで、いつでも誰に対してもこの答えが文字通り通用するとは思っていません。しかしここにひとつの急所があることは確かです。
イエスさまを信じるか、どうか。言い換えれば、主イエスを愛しているか、イエスさまのことが好きか。主イエスと愛の関わりに生きているか、ということです。突き放したような言い方に聞こえてしまったら申し訳ありませんが、それこそどんなに勉強してもだめかもしれませんし、逆に勉強なんか必要ない、ただ信じればよい、ということにもなるかもしれません。しかも繰り返しますが、この〈信じる〉というのは、〈愛する〉こととひとつになるような信じ方を意味します。
もちろん私がここに立って説教しているのも、皆さんにイエス・キリストについての勉強をしていただくためではなくて、主イエスを愛していただくために、主イエスを紹介させていただいているのです。
ここに集まっておられる多くの方は、既に主イエス・キリストを信じ、愛しておられます。だから洗礼を受けたのです。そのためには勉強なんか必要ないと、少し乱暴なことを申し上げたわけですが、厳密にはそれもおかしなことです。それならば、イエスさまってどういうお方か、そのことについての理解が無茶苦茶なままで洗礼を受けることはできません。そもそも、私どもが愛すべき主がどういうお方であるか、そのことについて無関心ではいられないはずです。
ルカによる福音書第22章の最後の部分を読みました。この箇所が明確にしていることも、「イエスとは誰か」ということです。福音書の中でこの箇所以上にこのことを明確に語っている場所はないとも言えるのです。
たとえば67節に、「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」とあります。このメシアと訳されている言葉は、原文のギリシア語では「キリスト」という称号です。69節には「人の子は全能の神の右に座る」。「人の子」という主の呼び名が出てまいります。イエスというお方は、人の子、つまり正真正銘の人間であられた。そこにも私どもの信仰が反映しています。そして70節には、「神の子」という主イエスの称号が出てきます。
イエスとは誰か。それをここで、「キリスト・人の子・神の子」という三つの呼び名、称号で集中的に明らかにしている。それだけでもこの箇所がどんなに大切な意味を持つかということが分かってきます。
しかし、どうでしょうか。おそらく正直に言って、この聖書の箇所を読んで、これはたいへん印象深い場面だ、いたく感動した、という感想にはなりにくいのではないかと思います。むしろ、どうもピンと来ないという感想の方が多いのではないでしょうか。なぜでしょうか。ひとつの理由は明らかです。「メシア」「神の子」などと呼んでいますが、信仰の言葉、愛の言葉としてそう言っているわけではないのです。それらの言葉を手掛かりにしてイエスを殺そうとしただけです。私どもが今、このお方をメシア、キリストと呼んでいるのとはまったく意味合いが違う。そうすると、どこか遠い世界の物語のように思えるのです。
そのことをもう少し踏み込んで問い直してみると、こういうことにもなると思います。ここで主イエスは、裁かれておられる。あるいは、その裁判に先立って、見張りをしていた兵士たちから暴行を受けておられる。その主イエスと、私どもがどういう関係に生きているかということです。ここで主イエスを裁いている人びとと、私どもがどういう関係にあるかということです。たとえば、私どもがこの裁判の席にいたら、最高法院のメンバーと一緒に、主イエスを裁いたであろうか。この見張りの者たちと同じ立場にいたら、一緒になって主イエスを殴っただろうか。皆さんがもしその場にいたら、そういうことをしたか、しなかったか。
そうすると、このわたしと、イエスさまがどういう関わりに生きているのか。愛の関わりに生きているのか。いや実はそれどころか、殴ったり裁いたり、救いがたい敵対関係になってしまっているのか。しかし、おそらくこれも率直に言って、今ここに集まっている皆さんの中に、イエスさまのことが大嫌いだからここに来ているという方はあまりいらっしゃらないと思います。そうすると……何だかわけが分からなくなってきた、というところかもしれません。
主イエス・キリスト。このお方は何者なのでしょうか。私どもにとって、いかなる関わりを持つお方なのでしょうか。なぜ、このお方は、こんなひどい目に遭っておられるのでしょうか。なぜ、私どもはこのお方を愛しているのでしょうか。実は、私どもキリスト者にとっても、もしかするといつまでたってもピンと来ないことなのかもしれません。なぜこのお方は、十字架につけられたのか、ということです。このお方は、人びとに憎まれたから、殺されたのです。そしてこのお方が殺されたとき、「許しがたい残虐な行為だ」と言って各国首脳が抗議声明を出したなどということもなかったのです。ほとんどすべての人が、このお方の死刑に賛成したのです。
ここで主イエスを裁いた人びとも、特別な極悪人ではなかったのです。「民の長老会、祭司長たちや律法学者たち」。誰よりも神のことを大切にしようと願っていた人たちです。その人たちが、「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と尋ねたのも、その動機が何であれ、背景に彼らの信仰があったことは確かです。メシア、つまり、お前は救い主なのか。ここに救いがあると言うのか。そう尋ねたのです。
それならなぜ、彼らはその救い主を殺してしまったか。理由は単純なことで、自分たちの期待していた救いと、主イエスの与える救いが一致しなかったからです。つまり、こういう救いなら受け入れますよ、という前提が先にあって、それに合えば合格、合わなければ不合格、ということになるのです。人間が神を裁くということが、そのようにして起こる。けれども、案外こういうことは、私どもにとっても遠いことではないと思います。私どもも教会に来て、あるいは聖書を読んで、神を求める。その時に、何の期待もなく神を求めるということはあり得ないと思います。こういう神さまであってほしい。神さまにはこういう救いを与えていただきたい。ついでに教会はこういう場所であってほしい、聖書にはこういうことが書いてあってほしい……。そのように、大げさでも何でもなく、私ども人間が神を裁くということが起こってしまいます。
それに対して、主イエスはたいへん興味深い答えをなさいました。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう」(67節)。これは、「もしお前がメシアなら、そう言いなさい」という問いに対する答えです。けれども、主が既に見抜いておられたことは、「『そうだ、わたしが救い主だ』と言っても、あなたたちは決して信じないだろう」。あなたがたは、わたしの答えを聞いても信じるつもりはまったくないね。あなたがたは、自分が変わるつもりはまったくないね。そう言われたのです。だからこそ、さらに続けて、「わたしが尋ねても、決して答えないだろう」(68節)と言われたのです。つまり、彼らは、「あなたは救い主なのか」と尋ね、上位に立って尋問しているつもりになっていますけれども、主イエスに問うということは、実は逆に自分自身が主イエスから問われることだということにまったく気づいていません。主イエスから逆に、「あなたはわたしを救い主と信じるのか」と尋ねられているのに、そのことに気づかない。そもそも最初から答えるつもりもないのです。
ある人は、この箇所を説き明かしてこういうことを言いました。イエスとは誰か。この方は、私の救い主なのか。このように問うこと、あるいは問われることは、自分の人生のすべてがかかってくるような出来事であるはずだ。この問いにどう答えるかで、自分の人生が変わってしまうような重みを持つはずだ。けれどもここで主イエスは、彼らの心の中にそのような準備はまったくないことを見抜いておられます。この問いに答えたら、自分が変わらなければならない。それは困るのです。しかしそれでは、主イエスとどんなやり取りをしても、まともな答えがかえってくるはずもないのです。
けれども主イエスは、それでも、決定的なことをお語りになりました。「しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る」(69節)。全世界の裁き手としての主のお姿です。主イエスを信じるとは、この全能の神の右に座っておられる方を仰ぐということです。私どもが神を裁くのではなく、主イエスが私どもを裁かれる。ここに既に、神からの大きな問いかけがあることに気づくべきです。あなたは、このわたしを信じるのか。信じないのか。私どもの信仰は、この主イエスからの問いに答えるところにしか生まれないのです。
けれども、ここではそのことに誰も気づかない。主はその神の子としてのお姿を隠しておられたのでしょうか。そのような主イエスのお姿を、既に63節以下では、「見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした」と言います。「そして目隠しをして、『お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ』」。目隠しをして殴ったというのは、面白半分にそういうことをしたのかもしれませんし、しかしある人は、この人たちは主イエスを恐れていたのだと解釈します。目隠しをしないと殴ることもできなかったのです。
少し細かいことかも知れませんが、この「目隠しをして」という言葉は、原文を直訳すると「彼を覆って」となります。目隠しというよりは、大きな袋のようなものを、頭からずぼっとかぶせたのかもしれません。そのように「彼を覆って」、逃げたりよけたり、手を出したりできないようにして、めった打ちにした。そして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言いました。
私は、この覆われた主イエスのお姿を想像して、ふと、胸が締めつけられるような思いがいたしました。私がここに立ってお話をさせていただいているのは、主イエス・キリストというお方を紹介するためです。このお方に愛されていることを知っていただきたいし、このお方を愛して生きる幸せを知ってほしいと願って、私はここに立っているのです。しかし、ここで福音書が伝えている主イエスのお姿は、いったい何であろうかと思います。
皆さんは、主イエスのお顔を想像したことはあるでしょうか。そのお姿を、思い浮かべたことはあるでしょうか。多くの人が、白い衣をまとい、ひげを生やした、なぜか長髪の、優しいお顔を想像すると思います。しかし皆さんは、〈覆われたイエス〉を想像したことはあるでしょうか。袋を頭からかぶせられ、首から上が見えない、そういう主イエスのお姿を思い描いたことはあるでしょうか。いったい、何たることでしょうか。しかも、私どもは、このお方に愛されているのです。今は、このお方を愛しているのです。
イザヤ書第65章1節にこういう言葉があります。一度聞いたら忘れることができません。
わたしに尋ねようとしない者にも
わたしは、尋ね出される者となり
わたしを求めようとしない者にも
見いだされる者となった。
わたしの名を呼ばない民にも
わたしはここにいる、ここにいると言った。
裁かれておられる主イエス。覆われ、目隠しをされ、ただ黙って殴られておられる主イエス。まさにこのお方から、「わたしはここにいる、ここにいる」という神の呼びかけが聞こえているのではないでしょうか。
このお方が、まさに主イエス、すべてのものの主であられることが、明らかになる。神が明らかにしてくださる。この十字架につけられたお方を、神が甦らせてくださったという出来事は、まさに神ご自身が、「わたしの名を呼ばない民にも/わたしはここにいる、ここにいると言った」、まさにそのような出来事でありました。
私どもも、もう一度、悔い改めたいと思います。もう二度と、主イエスの顔に覆いをかけるようなことをしてはならない。主イエスのみ顔を、まっすぐに仰ぎ続けたいと願います。私どもは、このお方に愛されているのです。だからこそ、私どもも、このお方を愛するほかありません。
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