2015年1月11日 主日礼拝

「少年時代のイエス」 川﨑 恵 牧師

詩編 第43篇3-4節  ルカによる福音書 第2章39-52節

 
教会にはたくさんの洗礼を受けていない方々がいらっしゃいます。そのような方々からこんな声をきくことがあります。
 「神様がいてくださって、自分のことをみていてくださり、守ってくださっているのはなんとなくわかる気がする。そのことを信じてもいいかなとは思う。けれども、イエス・キリストのことがよくわからない。イエス・キリストがわたしの救いにどう関係しているのかわからない。私にはイエス・キリストは別に必要がないような気がする」。
 イエス様を信じている教会の人からもこう言われることがあります。「友達や家族にイエス様を信じてほしいと思って教会に連れてくる。けれども、牧師のとりつぐ説教が難しい。もっと簡単にしてくれれば、安心して友人や家族を連れてくることができるのだが」。
 けれどもそうおっしゃっている方も、そう言われている方の牧師も、本当の問題は説教の難しさにあるのではないことに薄々気が付いています。イエス・キリストという方がわかりにくいのです。
 イエス・キリストという方はどういう方なのでしょうか。どうして二千年前に人間の歴史にあらわれたのでしょうか。そして、その方の行ったことがどのように私達に関係があるのでしょうか。そして、今の私達に何の良いことがあるのでしょうか。
 今日の聖書の箇所は、イエス様が12歳の時に起こった出来事を記しています。イエス様はユダヤという国のナザレという村に住んでいたヨセフとマリアという夫婦の子供として生まれました。父ヨセフは大工をしていました。マリアがイエスをみごもった時、二人はまだ婚約中でした。イエスはヨセフとマリアの結婚によってできた子供ではありませんでした。
 そのことについて聖書にはこう記されています。婚約中のある時、神が天使をマリアのもとに遣わされます。そして、マリアのおなかの中に神の子が宿ること。その方は私達人間を救う救い主であることを告げます。
 婚約中にマリアがイエスをみごもったことでヨセフは深い悲しみをおぼえますが、神はヨセフにも夢をとおして、その子が神の子であることを告げました。ヨセフは神を信じて、マリアと結婚しました。そして、しばらくしてマリアはイエスを出産しました。
 子供時代のイエスがどのようであったか聖書は詳しく語りません。今日お読みしたここにしか、子供時代のイエスについての記述はないのです。今日お読みしたところによると、赤ちゃんだったイエスはナザレの村でヨセフとマリアの子供としてたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていたとあります。神がイエスと共におられ、愛して育ててくださっていたのだといいます。
 そして、イエスは12歳になりました。父ヨセフと母マリアは過越しの祭りという祭りにイエスも連れていこうと考えました。二人は毎年、この祭りの時に神殿のあるエルサレムに巡礼に行っていたようです。彼らが住んでいたナザレの村からエルサレムまでは100キロも離れています。そんな遠いエルサレムに彼らは毎年巡礼に出かけていたのですから彼らはとても信仰深い人達だったのだと思います。エルサレムに行く時には、二人だけでではなく村じゅうの信仰深い人々がみんな一緒にでかけていたようです。たくさんの大人達子供達が一緒に旅をした。
 この年、彼らはこの祭りに12歳になったイエスも連れていくことにしました。12歳という年には意味がありました。あと一年たつと、イエスは13歳になります。13歳と一日をすぎた子供は「律法の子」といわれ、この日から少年は大人になり、自覚的に神の掟を守って生活し、全ての儀式に参加しなければいけない決まりになっていました。
 律法を教える学者達は、その前から子供達を儀式に連れてきて、子供達に律法や儀式を学ばせることを勧めていたようです。ヨセフとマリアは息子イエスを神の子として育てるために、一年早く過越しの祭りに連れていくことにしたのかもしれません。
 過越しの祭りは、かつてエジプトにとらえられていた彼らの祖先であるイスラエルの民を神様が救いだしてくださったことに感謝する儀式で、七日間かかる儀式でした。けれども当時の律法の解釈では遠くから来た巡礼者は七日間の祈りの全てに参加しなくても、二日間だけ参加すればそれでよいということになっていました。それで、ヨセフやマリア達は二日目の儀式が終わったら、ナザレに帰ることにしたのです。それは毎年の慣例でした。帰る時、両親はイエスの姿をきちんと確認しなかったようです。当然イエスも一行の中にいると彼らは思いこんでいました。姿はみえないけれど、誰か他の大人がみているんだろう。他の子供達と一緒にいるんだろうと思っていました。もう12歳。親のそばにずっといるような年ではありません。しかも彼は神の子。罪のないきよらかな心をもった子供でした。だから彼らは安心して、村の人たちとエルサレムを出発したのです。けれども、歩きながらイエスの姿がないことがだんだん気になりはじめました。前のほうにいってみたり、後ろのほうにいってみたり、捜しながら歩きました。捜しているうちに一日が終わってしまいました。そして、やっと二人はイエスが一緒に来ていないことに気がついたのです。あわてて二人はエルサレムにひきかえしました。この時の両親の気持ちを思うと胸が痛みます。どんなに心配したことでしょう。しっかりしているけれどまだ12歳です。どこにいるのだろうか。ケガをしたのだろうか。迷子になったのだろうか。誘拐されてしまったのだろうか。二人はあちこちを捜しながら、エルサレムの町に戻ってきました。そして、エルサレムのあちこちも捜した。エルサレムは小さな町ですから、すみずみまで捜すことができました。でも、みつからない。そして彼らはとうとう出発した最初のところ、エルサレムの神殿に行きました。すると、そこにイエスがいたのです。熱心にきらきらと目を輝かせながら、聖書に詳しい学者たちに質問をしたり、答えたりなどして、神の言葉を学んでいたのです。見失ってから三日がたっていました。
 両親は驚きました。まだ12歳なのに、学者たちから神の言葉を学んでいる。けれども、同時に激しい怒りと悲しみが湧き上がってきました。マリアはイエスに言います。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのですよ」。
 イエスは、「ごめんなさいお母さん、お父さん」と言って二人のもとに駆け寄ってきてくれたでしょうか。いいえ、イエスはそうなさいませんでした。
 イエスはこう答えられました。
 「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。
 なんということでしょう。両親をさらに悲しませるような言葉を彼は語ったのです。
 けれども、これはイエスが反抗期になったという話ではありませんでした。50節に「両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった」とあります。
 イエスが口にした言葉はなんということのない言葉に聞こえます。けれども、彼らはイエスの言葉の意味がわからなかったといいます。理解したくても理解できなかった。なぜか意味がわからなかったのです。
 この「言葉」と翻訳されている言葉は、元のギリシア語の聖書をみるとレーマという言葉が使われています。そして、レーマは神の言葉をあらわすときによくつかわれている。たとえば、
レーマが使われている他の箇所を捜すと、こんな箇所があります。
9章45節「弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。」この言葉がレーマでした。
 イエス様はこの時、弟子達に「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている」。と言われました。御自分がやがて人々にとらえられて、十字架につけられて殺されることになっていることを語られました。けれども、彼らは子の言葉を理解できなかった。理解できないように神様にされていたというのです。
 そして、おそらくあの神殿でもヨセフとマリアはわが子の言葉を理解できないようにされていた。マリアはそのことを感じ取ります。神様が働いておられる。そこでマリアはこのイエスの言葉をわからないけれども、一生懸命に心に納めました。それから何度も何度もその言葉を思いだし、神様あれはどういうことなのでしょうかと神様におききしつづけたのです。
 イエス様はこう語られました。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。
 ある本に、こういう説明がありました。この日イエス様は「律法の子」になるために、自覚的に神様の掟を守られた。過越しの祭りは本当は七日間守るお祭りだった。だから当然のこととして、イエス様は七日間神殿で過ごすのだと思っておられた。けれども、ヨセフやマリアたちは慣習に従って、二日間で帰ってしまった。だからこんな事件が起きてしまったのだ。
 イエス様はまじめに神の掟を守られたのだ。
さらに、イエス様は神の子であられた。父なる神様の家で過ごすのがあたりまえの方であられた。そのことをヨセフもマリアもわかっていたはずだ。そうであるならば、帰る途中でイエスがいないと気がついた時に、まず最初に神殿に捜しにくるべきだった。そうであれば、三日も捜す必要はなかった。だから、イエス様は「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と、素直な思いで彼らに言われたのだ。
 なるほど、そのとおりです。でも、ヨセフとマリアがそのことに気がつくのは難しいことだったのではないでしょうか。私がマリアだったら、やっぱり慣習ですから村の人たちと一緒に二日目にナザレに帰ったと思うのです。そして、イエスはもう12歳ですから、慣習のこともわかっているでしょう。みんなと一緒にナザレに向かって歩いていると私も思いこんだと思うのです。残るのであれば、どうして前もってイエスは言ってくれなかったのでしょうか。前もって言ってくれれば家族みんなで過越しの祭りを祝い続けることができたのに。
 神様は、わざとこのことを、この事件を起こされました。そして、ヨセフとマリアに、そして私達にイエス様がどういう方であるかを伝えようとされたのです。
 「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。と訳されているところをもとのギリシア語の聖書でみてみると、「家」という言葉が実は入っていません。「父の事柄の中にいる」とも翻訳できる文章が書かれているのです。さらに、「当たり前だ」と翻訳されている言葉は「デイ」という言葉で、英語でいうならmust (~しなければならない)という意味の言葉が使われています。ですからこのイエス様の言葉は「わたしは自分の父の事柄、仕事を必ずしなければならないことになっている」と翻訳することができる。
 わたしにはあなたがたとは別の父がいる。そして、わたしはこの父に命じられた仕事をしなければいけないことになっている。わたしは父のご計画に仕えなければいけない。父なる神様のもとにいなければいけない。そういう存在なのです。ということを少年イエスはあらかじめヨセフとマリアに示されたのです。
 この子はあなたがたが思い描くような人生を歩む者ではない。この子の生涯にはわたしの計画があるのだ。その計画のために、この子があなたがたのもとを離れる時がくる。
 そのことを神様がこのような仕方で彼らに伝えられた。
 神様が計画しておられる務めとは何でしょう。
 「デイ」という言葉が使われている箇所をたどっていくと、こういう箇所にぶつかります。9章22節では「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」とあります。必ずそうなることになっている。ここにデイがある。神様がそうお決めになっている。
 さらに13章33節では、イエス様はデイを使って「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」とおっしゃっている。17章25節では「人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている」。ここにもデイが使われている。
 この方は私達人間を救うために神様が遣わされた救い主でした。
 神から離れた人間が受けるべき罰をかわりに受けるために、この方は来て下さいました。そして、私達が罪のために神様に滅ぼされないように、私達の命を救うために来てくださったのです。
 過越しの祭りではイスラエルの人々の命のために、小羊が殺され、神様にささげられました。けれども、小羊の命では私達人間の罪はあがなうことはできませんでした。
 小羊はやがて神様が与えてくださる本当のいけにえをあらわしていました。
 この日、過越しの祭りにあらわれた12歳の少年イエスこそが、私達の罪のゆるしのために、神様が送られたいけにえの小羊だったのです。
 イエス様はどんな神様の言葉をきいておられたのでしょう。神様のこのご計画のみことばをききつづけていてくださったのでしょうか。
ヨセフとマリアはなんという人生を与えられたことかと思います。母マリアはこの日の出来事、イエスが口にされた言葉を一生懸命に心に納めました。神様がこの子に働いておられる、自分の人生に働いておられることを感じて、わからないけれども、一生懸命にこの日のことを心に納めました。そして、やがてマリアはその神様のご計画を知らされていきます。イエスがやがて自分の手を離れ、神様のご計画に従って行かれる。神の救いのみことばを人々に語り、その言葉どおりに、十字架につけられて死ぬことを目の当たりにしなければいけませんでした。
 けれども、マリアに用意されていたのはそのような心を剣でつらぬかれるような経験だけではありませんでした。その恐ろしい経験の先に大きな喜びの時が用意されていたのです。
 イエスは人々にとらえられ、十字架につけられて殺されました。しかし、その三日後にイエス・キリストは死からよみがえられたのです。
 人の子は必ず殺される。しかし「必ず三日目に復活することになっている」。デイを使って、イエスが告げてくださった神のご計画の中に、イエス・キリストの復活も計画されていたのです。神様はかならず私をよみがえらせてくださることになっている。
 そのお言葉どおり、死なれた三日後にイエス・キリストは死からよみがえられました。お墓まいりにきた婦人達の前に、部屋にとじこもっていた弟子達の前に、そして五百人以上の人々の前にイエス様はあらわれてくださいました。
そして、おそらく母マリアの前にも。死はもう私達に襲いかからない。死にはもう力がなくなった。私達は神に救われ、赦され、神の命をいただいて、キリストのようによみがえり、永遠に生きる。その希望が私達に与えられたのです。
 この先の使徒言行録1章14節に母マリアがでてきます。イエスがよみがえられた後のマリアの姿です。弟子達や他の婦人達と一緒に一つの部屋に集まって祈っています。何を祈っているのでしょう。
 その前に書いてあることをたどると、死からよみがえられたイエスは弟子達と共に四十日間過ごし、神の国について教えてくださいました。そして、神の国が到来する前に、聖霊なる神様があなたがたのもとに降りてこられる。エルサレムで祈りながらその方を待ちなさいと教え、みなが見ている前で天に昇っていかれました。
 それで、マリアはたくさんの人々と共に一つの部屋で祈っていたのです。やがて五旬祭という祭りの日に、聖霊は降ってこられました。激しい風がふいてくるような音がきこえ、炎のように聖霊が降ってきてくださいました。心の中に神様が入ってきてくださいました。そして、神様のこと、イエス様のこと、イエス様がなしてくださった救いのことが急にわかるようになったのです。よみがえられた主イエス・キリストが今自分達と一緒にいてくださる。そして、自分たちも死から救われ、永遠の命を約束されたことがわかったのです。
 12歳だったイエス様を一生懸命さがして三日後にみつけた日のことをマリアは思いだしたでしょうか。あれからイエスは一緒にナザレに帰ってきてくれた。あの時のように、イエスは私のところに戻ってきてくださった。
今日の箇所51節にこうあります。「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」。
 12歳のイエス様はナザレに帰ってきてくれました。そして、ヨセフとマリアの子供として二人に仕えてくださいました。そして、それで終わりではありませんでした。十字架と復活の出来事があった後も、主イエス・キリストはマリアのもとに帰ってきてくださいました。これからずっと一緒にいてくださる。永遠にマリアを愛し、マリアと共にいてくださった。そして、イエス様は私達のところにも下ってきてくださいました。全ての救いをなしとげて、永遠に私達と共にいてくださるのです。
 最後に「イエスは神と人とに愛された」とあります。
 うれしいみ言葉ではないでしょうか。
 私達のために命をささげるイエス様を人々が愛したとあります。そして、この方を神様が愛してくださったとあります。そして、この方をとおして、神様は私達を愛してくださいました。
 そうして、神様は私達を神様の家に戻してくださいました。神様に愛されて、イエス様に愛されて、神様を愛し、イエス様を愛し、お互いに愛し合う。私達の父の家に私達も生きることができるようにしてくださったのです。神様の家族の中に戻してくださったのです。
 わたしだけではない。あなたがたも自分の父の家にいるのは当たり前。一緒に生きよう。一緒に生活しよう。
 イエス・キリストはこの家に全ての人間を連れ戻すために来てくださったのです。
 この家に帰りましょう。イエス・キリストを信じて。イエス様はこのために私達のところに来てくださったのです。これがイエス・キリストの秘密なのです。
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