2014年12月7日 主日礼拝

「偉さからの解放」 川﨑 公平 牧師

ルカによる福音書  第22章24-34節

  月の初めの日曜日ですから、このあと聖餐を祝います。主が十字架で殺される前の晩、弟子たちと共に過越の食事をなさった、いわゆる「最後の晩餐」に由来する食卓です。そこで主はこう言われました。 「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」(19節)。 「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(20節)。 わたしは、わたしの体をあなたがたに与える。あなたのために、わたしは血を流す。それは明らかに、主の愛の宣言でありました。 この主の愛によって作られた食卓において、弟子たちの間にひとつの話題が生まれました。「また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった」(24節)。「議論も」ということは、その前に別の議論もあったということです。そして、ここで痛切なことは、このような言葉が先立っていることです。 「『しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ』。そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた」(21-23節)。 人の子、つまりイエスさまを裏切る者がいる。いったい誰だ。そのことが議論になりました。弟子たちにとって、深刻な議論であったと思います。けれども実は、本当に関心のあることは別のことでした。「自分は偉いか、偉くないか」ということです。ここは正確に訳せば、「だれがいちばん偉いか」ではなく、「だれがいちばん偉いと思われているか」という文章です。人が自分の偉さをどう評価してくれているか。それが主題です。自分は他の人から重んじられているか、軽んじられているか。牧師として教会員に信頼されているか、軽蔑されていないか。長老として人気があるか、人気がないか。たとえば、そういうことです。そのことにこだわりすぎると、本当に病気にまでなります。 聖餐の食卓が用意されています。主イエスが、そのいのちを注ぎ、愛を注ぎ切って用意してくださった食卓です。そこでなお私どものこころを支配しているのは、自分は人からどう思われているか、ということだと思います。今日はあの人にほめられてうれしかったとか、思いがけず自分の悪口を言われていることが分かって、苦しくてしょうがないとか、今、皆さんの思いもまたさまざまだと思います。そういう問題に比べれば、イエスさまが十字架にかかってくださったとか、はっきり言ってどうでもいいんですよ。自分がほめられることの方がよほど大事です。少なくとも私自身は、そういう弱さを今なお抱え込んでいることを認めないわけにはいきません。おそらく誰もが、このような「偉さ」を求める思いを隠し持っているものだと思います。 主イエスは弟子たちに、「わたしはあなたがたに裏切られる」と言われました。重い言葉です。その重い言葉を軽く聞き流して、自分たちの偉さを求めた弟子たちだからこそ、彼らは主イエスを捨てたのです。けれどもまさにそこで、主の愛は極まったのではないかと思います。「この人たちのために、わたしは死ぬのだ」という決意を新たになさったに違いないのです。だからこそ、主は弟子たちに語りかけてくださいました。 そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」(25-26節)。 主イエスはここで、「異邦人」、つまり神を信じていないこの世界は、より偉い人たちが偉くない人たちを支配していると言われます。「しかし、あなたがたはそれではいけない」と言われます。あなたがたは、もう異邦人ではないね。神を信じているね。わたしを信じているね。そのわたしイエスが、今あなたがたの前で何をしているか分かるか、と言われるのです。 「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」(27節)。 全世界の主であられるお方が、弟子たちに給仕しておられるのです。しかしそれは、われわれもイエスさまのように奉仕をしましょう、という次元の話ではありません。この食卓で決定的なことは、主イエスが「これは、わたしがあなたがたに与える、わたしの体である」「わたしは、あなたがたのために血を流すのだ」と言われた、そのような食事であったということです。そして実際に、主イエスはこのあと、十字架につけられて殺されたのです。仕えるとは、そういうことです。謙遜の美徳などという話ではないのです。謙遜の美徳というのは、「謙遜な人は偉い」ということでしょう。けれども、主イエスが十字架につけられたということは、すべての人からその偉さを否定されたということでしかなかったのです。 主イエスは、仕えること、下に立つことをお求めになりました。あなたもわたしと同じところに立てと言われたのです。人から偉いと言われることを断念せよと言われたのです。上に立っていばっている人よりも、下に立って奉仕している人のほうが偉いという話ではありません。もしもそういう奉仕の道が一種の道徳のように教えられているだけだとすれば、結局、別の種類の偉さを求めているだけのことです。そして実際に、低いところで奉仕するという偉さを求める思いがキリスト者の中に生まれることがあります。隠れた奉仕に熱心に励む、立派で偉い教会員というものが生まれるのです。そういう人が実はいちばん、人の評価を気にしていたりするものです。そのようなこころこそが、主の目には最も醜く映るのです。 今私が申しましたことは、少し厳しすぎたかもしれません。ところで、そのように考えてまいりますと、これに続く言葉は、またずいぶん意外な印象を与えるのではないかと思います。 「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる」(二八―二九節)。 厳しさとは正反対のことが語られています。主イエスは弟子たちのことを全面的にほめておられます。これが本当に主ご自身の言葉なのか、疑う人もいます。実際、このあと主がユダに裏切られ、逮捕されると、弟子たちは皆しっぽを巻いて逃げ出したのです。いったい、どこでどう踏みとどまったのでしょうか。 ここで併せて読むべき言葉があります。同じルカ福音書の第4章1節以下です。主イエスは伝道の生活をお始めになるにあたって、まず荒れ野で40日間の断食をなさり、悪魔の誘惑をお受けになりました。そこで「誘惑」と訳された言葉が、第22章28節では「試練」と訳されているのです。主イエスが荒野で受けられた悪魔の誘惑とは、いったい何であったのでしょうか。そこでも悪魔は、偉くなることを求めないかと、主イエスを誘ったのです。石をパンに変えるような救い主になればいいではないか。そっちの方が、人びとに喜んでもらえるぞ。あるいは、世界のすべての権力、繁栄を見せて、これを好きな人に分け与えることのできる救い主になったらどうだ。あるいは、高い神殿の建物のてっぺんに主イエスを立たせて、ここから飛び降りて、天使がさっとお前の足を支えるところを人びとに見せつけたらどうだ。いずれの誘惑においても、「偉い救い主」として人びとの歓心を買うように誘ったのです。 そこでもうひとつ深い関連を持つのが、第22章25節の「守護者」という言葉です。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている」。これは直訳すると「善を行う者」という言葉です。政治的な意味合いの強い言葉で、「名君」と訳してもよいのです。すぐれた政治を行い、国に繁栄と幸福をもたらす人。まるで石をパンに変えるように、何とかノミクスとか言って、そのすばらしい政治のおかげで、不景気のどん底からたちまち国中が豊かになるような、そういう権力者のことを呼ぶ言葉です。文語訳や口語訳は「恩人」と訳しました。あの偉いお方のおかげでこんなにわたしたちは幸せになったと感謝されるような、そのような救い主になることを、主イエスは悪魔の誘惑だと言って拒否なさったし、その弟子たちが教会を作るときにも、あなたがたはそういう道を歩むのではないと言われたのです。主イエスが救い主としてなさったことは、むしろ、そのような偉さを求める思いからの解放であります。 ある人がこう言っています。弟子たちが主イエスの傍らで、誰が偉いかと議論を始めたとき、悪魔はほくそ笑んだであろう。まんまと誘惑にかかったな、と。しかし、主イエスはその議論に分け入ってくださり、使徒たちを守ってくださいました。そして、よくわたしと一緒に踏みとどまってくれた、と言われたのです。これからも、あなたがたは必ず踏みとどまってくれる、という約束をも含む言葉です。 なぜ、踏みとどまることができるのでしょうか。その理由を明らかにするのが、さらに続く31節以下のやり取りだと思います。主イエスを誘惑し、弟子たちをも偉さをめぐる論争に誘い込もうとしたサタンが、「あなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」(31節)と言われます。けれども、主イエスは弟子たちを守ってくださいました。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(32節)。 主イエスは弟子たちに、偉いキリスト者になれと言われたことは一度もないのです。あなたがたもまた、サタンの誘惑に遭う。けれども、そのあなたがたが立ち直るのは、あなたがたの偉さによるのではない。わたしがあなたのために祈った。だから、あなたも立ち直れる。そう言われるのです。 けれども、シモン・ペトロはその言葉を受け入れることができません。「するとシモンは、『主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております』と言った」(33節)。いちばん偉い弟子として、当然言うべきことを言ったのです。けれどもまさにここで、シモン・ペトロの偉さにこだわる罪が最高潮に達しました。悪魔の誘惑に負けてしまいました。けれども、このペトロも、踏みとどまることができました。ペトロのために、主が祈ってくださったからです。 このペトロの決意があっという間に崩れることを、主イエスははっきり予告なさいました。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」(34節)。そのペトロを立たせるのは、ペトロ自身の偉さではありません。主がペトロのためにも祈ってくださいました。だから、ペトロも立つことができました。私どもも立つのです。 ペトロが「あんな人のことは知らない」と、三度繰り返して言ってしまった時、ルカによる福音書は印象深い光景を伝えています。「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた」(61-62節)。 振り向いてペトロを見つめてくださった主イエスのまなざしもまた、祈りのまなざしであったと私は思います。「シモン、あなたのために、今、わたしは祈っている」。そのまなざしに気付いた時、ペトロはむしろ安心して、涙を流すことができたのではないでしょうか。そのようなペトロが、立ち直り、兄弟たち、つまり教会の仲間たちを力づけるようになったのです。 偉いペトロが他の人を力づけるのではありません。偉い牧師、偉い長老、偉いキリスト者が、より偉くない人を力づける。主がそんなことをお求めになったことは一度もありません。それは異邦人、神を信じない者の世界だけの話です。偉くないこのわたしが、けれども、主イエスに祈っていただいたのです。だから、このわたしも立ち直ることができた。この主の恵みを語ればよいのです。「あなたのためにも、主イエスは祈っていてくださる。主イエスが、あなたのことを見つめていてくださる。その恵みの中に一緒に立とう」。私どもが語り得ることは、ただそのことです。「自分たちの中でだれがいちばん偉いか」などという議論がもはや成り立たないことは、明らかであります。

(12月7日 礼拝説教より)

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