2014年11月2日 伝道開始記念聖餐礼拝

 「あなたは滅びてはならない!」 川﨑 公平 牧師

ルカによる福音書第21章29―38節

 
礼拝の中でルカによる福音書を読み続けてまいりまして、今日、第21章を読み終えます。これに続く第22章では、主イエスの最後の晩餐、そののちオリーブ山という場所で徹夜の祈りをなさり、そこで主イエスが裏切られ、逮捕、裁判、十字架と、いわゆる主のご受難の記事が始まります。もちろんそれに復活の記事が続きます。いよいよ福音書の最後の部分だ、ということになりそうですが、実は話はそこで終わりません。ルカによる福音書を読むときに、常に思い起こしておくべきことがあります。ルカ福音書には続編があって、これに使徒言行録という教会の歴史の記録が続くということです。今日読みました福音書の言葉を理解するためにも、このことがとても大切な意味を持つと思います。
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(33節)。主イエスが再び来られる時、この世界に終わりがもたらされます。天地は滅びるのです。しかし滅びないものがひとつだけある。「わたしの言葉」、イエス・キリストの言葉は決して滅びない、と言うのです。
印象深い、しかし、不思議な言葉ではないでしょうか。なぜ〈言葉〉なのでしょうか。何しろイエスさまですから、堂々と、「天地は滅びても、わたしは滅びない」と言うこともおできになったはずです。十字架の死を目前に控えて、「けれども、わたしは甦る」と言われてもよかったはずです。しかしここでは、「わたしの〈言葉〉は、滅びない」と言われました。なぜなのでしょうか。皆さんにとって、主イエスの〈言葉〉は滅びないということが、いったいいかなる意味を持つでしょうか。
ここであわせて読みたいのは、使徒言行録第20章17節以下です。伝道者パウロが、エフェソの教会の長老たちに告げた別れの言葉です。エフェソの教会は、パウロの伝道によって生まれました。3年間、パウロの言葉を聴き続けた。しかしパウロは、神のみ霊に促されて、行くべき場所に行かなければならない。もうエフェソの教会に戻ることはない。それだけに、伝道者としてどうしても言い残しておきたいことを語るのです。「だから、わたしが3年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい」(31節)。わたしパウロは、あなたがたに語るべきことはすべて語った。それを思い起こしてくれればよい。そして言うのです。「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」(32節)。
この使徒言行録第20章の言葉は、ここにおられる多くの方にとって忘れがたい言葉になっていると、私は思っています。なぜかと言うと、5年前の3月、東野尚志牧師がこの教会でなさった最後の説教で、この箇所を説かれたからです。もちろん私はまだ鎌倉にはおりませんでしたけれども、東野先生がこの聖書の言葉を最後に説教なさったということを知り、それだけで深い感銘を受けたものです。おそらく皆さんにとっては、「感銘」などという言葉では言い表せない、もっと深い、もっと多様な思いを呼び起こす出来事であったと思います。
「わたしが3年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい」。東野牧師も、この場所で10数年間、要するに、〈み言葉〉を語ったのです。だから、言うのです。「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます」。単に「あなたがたを神にゆだねる」とは言っていない。「神の〈言葉〉にあなたがたをゆだねる」。エフェソの教会が何によって立つのか。鎌倉雪ノ下教会の歩みを、何が支えるのか。「神の恵みの言葉」です。使徒言行録を書いたルカが深い思いで受け止めていたことも、そういうことではなかったかと思うのです。
そのルカが、既にその福音書の第21章33節で、このような主イエスの言葉を書き記したのです。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。主イエスは既に、目の前にいる弟子たちが、さらに教会の担い手になっていく姿をじっとご覧になっていたと思います。この弟子たちの造る教会が、何によって立つのか、何によって生きるのか。ただひたすらに、天地が滅びても滅びることのない主イエスの言葉によって教会は立つ。今、皆さんがここで聞いている、キリストのみ声です。
今日の礼拝は、鎌倉雪ノ下教会の伝道開始97年の記念の礼拝です。私どもは、この場所でほかの何をしてきたのでもない。神の言葉、キリストの言葉を聴くことによってその歴史を作ってまいりました。伝道開始の記念礼拝の恒例のことになりましたが、雪ノ下讃美歌の11番を歌います。
潮さいもほど遠からぬ 海のほとりに
キリストのみ声が聞こえ
召し出された ちいさい群れが……
「キリストのみ声」が聞こえたのです。「そこに生まれた 主のからだ」です。教会が存在するのは、このようなキリストのご意志によります。「決して滅びることのないわたしの言葉を、この人に聞かせたい。わたしの言葉によって、あの人を慰めたい、この人を生かしたい」。そのようなキリストの愛のご意志が貫かれたところに、この教会の歴史も作られてきたのです。
しばしば、日本の教会の伝道の不振が語られます。10年後、20年後、50年後、日本の教会はどういう姿になっているだろうか。こういうことを考え始めると、心配の種の方が多くなってしまうかもしれません。しかし考えてみると、使徒言行録が伝えている教会の姿も、生き生きとしていた面もあったかもしれませんが、他方から言えば、ローマ帝国が本気を出せば、いつでもひねり潰すことのできるような弱小集団であったことは確かです。迫害に耐えながら、時には地下に隠れて礼拝を続けたのです。それこそ、この礼拝の集まりは来年も存続しているだろうか、などと考え始めたら、どんなに心細かったかと思います。けれども、そういう小さな群れが、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」という主イエスの言葉を、喜んで聴き、喜んで伝えたのです。
もしも私どもが、この教会を守るのは自分たちだと考えるならば、それは既に教会の堕落を意味します。教会を立たせ、教会を守るのは、滅びることのない神の言葉です。その神の言葉に、私どもは、自分自身をゆだねていくのです。そこに教会の歴史が作られます。
私どもひとりひとりの生活もまた、いつもさまざまな滅びにさらされています。教会の中だけを見回しても、病のために苦しみ悩む者がいます。愛する人を失って途方に暮れる者がいます。安定した仕事を得ることも安定した家庭を築くこともできず、自分の人生はどうなるのかと不安を抱き続ける若い人も多いのです。考え始めたらきりがありません。そして、そういう私どもの恐れとか心配というものは、いつも「天地は滅びる」という、まさにこのことと深く関わるのだと思います。
ついでに申しますと、ここで「滅びる」と訳されている言葉は、かつて文語訳が訳したように、「過ぎ行く」と訳した方がよかったかもしれません。天地は過ぎ行く。その天地の中に、私ども自身も含まれています。私どもの体も過ぎ行く。愛する者も過ぎ行く。私どもの健康も、仕事も、生きがいも、何とかしてさまざまなものを過ぎ行かないようにあくせくするけれども、結局、すべては過ぎ行く。私どもの恐れも不安も、すべてここに集約されるのです。けれども、その恐れを振り払うようにして、私どもはここで、滅びることのないキリストのみ声を聴きます。私どもを愛してくださったお方の言葉に、自分をゆだねていくのです。このお方の愛は、過ぎ行くことがありません。
主イエスが十字架につけられる前、既に人びとは、このお方の愛に気づいたのでしょうか。「民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た」(38節)と言います。しかしルカは、さりげなくこう書き添えました。「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた」(37節)。主は、神殿の境内で人びとにみ言葉を聴かせてくださるだけではありませんでした。夜になると、「『オリーブ畑』と呼ばれる山」に登られた。そこで何をしておられたのでしょうか。
「オリーブ山」という地名が、これに続く第22章にも出てきます。主はいつものようにオリーブ山に行き、いつもの場所で祈りをなさいました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(42節)。「父よ、どうしてもわたしは、十字架の死を受け入れなければなりませんか。わたしが、あなたに打たれて滅ぼされなければならないのですか」。ルカは、その主イエスの祈りは、血の滴りのような汗を流しながらの、苦悶の祈りであったと伝えます。しかも、その祈りは、いつもの場所での、いつものような祈りであったと言うのです。
改めて気づかされます。「天地は滅びる」と主イエスが言われたとき、誰よりもその滅びを恐れておられたのは、ほかでもない、主イエスご自身であったのです。苦しみ悶えつつ、けれども、私どもが滅びないために、滅びの力の前に立ちはだかるようにして、主イエスが血のような汗を流して祈ってくださいました。祈りのうちに、十字架の苦しみを受け入れてくださいました。
「言葉」ということを主題にして今日の説教を始めました。もしかすると、私どもは「言葉」という言葉に対してあまり積極的な印象を持たないかもしれません。口先だけの愛、実践を伴わない偽りの愛の言葉、といった連想を生むからだと思います。しかし、言うまでもなく、神の愛が口先だけの愛にとどまっていたことは一度もありません。神の愛は、文字通り、愛する者のために命を捨てるほどの激しいものでした。だからこそ、この神の愛は、言葉によってしか伝えることができないのです。私ども人間の愛の実践によってキリストの恵みを証しできるなどと考えるとすれば、それは恐ろしい傲慢でしかありません。私どもは、ただ〈み言葉〉を聴くことによってのみ、キリストの十字架に表された神の愛に触れることができるのです。
34節で、主はさらにこう言われました。「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」。心が鈍くなるとは、何と言っても、神の愛に対する感覚が鈍ることです。「天地は滅びるが、キリストの言葉は決して滅びない」という事実を忘れるとき、そこに、「放縦や深酒や生活の煩い」が生まれます。恐れや不安を深酒でごまかそうとするのも、何を食べようか、何を着ようかと思い煩い続けることも、神の愛に対する感覚が鈍くなるという点では、まったく同じです。そうではなくて、目を覚まして、しらふになって、神の言葉を聴こう、神の愛の前に立とう、と言うのです。
36節も同じように理解できます。「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」。私どもの人生の目標はここにあります。いや、世界の歴史の目標がここにあるのです。人の子、主イエスの前に立つことができるように。そのために、今ここで既に、決して滅びないキリストの言葉を聴き続けるのです。
先ほど、讃美歌280番を歌いました。思いを込めてこの讃美歌を選びました。今年、私どもの教会にとって大きなことであったのは、97年の鎌倉雪ノ下教会の歴史、そのうち27年半という時間をこの教会の伝道師として仕えられた、加藤さゆり先生の葬儀をしなければならなかったことです。ひたすらに、決して滅びることのないキリストの言葉に仕え抜いた教師でした。そのさゆり先生の愛唱讃美歌である280番であります。最後の節で、「主の義をまといて みまえに立たまし」と歌います。わたしたちは、主のみ前に立ちたい。それが私どもの願いです。
そのために、今も、いつも、私どもは主の前に立ち続けます。このわたしを愛し、滅びから守ってくださったお方の恵みの言葉を、主の日ごとの礼拝で聴き続けるのです。そのみ言葉が、私どもを滅びから守ります。どんな恐れと不安の中にあっても。その事実を、この礼拝においてこそ私どもは知ります。
私も、確信をもって皆さんに告げます。今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。決して滅びない主イエスの言葉に、鎌倉雪ノ下教会をゆだねます。
(11月2日伝道開始年記念聖餐礼拝説教より)
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