2014年7月13日 主日礼拝

「本当のよりどころ」 大澤 正芳 牧師

 エレミヤ書第17章5 – 14節

 
今日共にお読みいたしましたエレミヤ書17章5節以下の言葉でありますけれども、この聖書の言葉は、このことを初めて聴く人にも、教会が当然語るべきことを語っている、そういうことを聴き取らせるそのような言葉であると思います。
「人に信頼してはいけない。神に信頼しなさい。」そういう言葉を誰もが間違いなく聴き取ると思います。そして、何かを求めて、教会に来たのであれば、初めてこの言葉を聴いた人であっても、次のような結論に至るに違いない。「本当に頼りになる仲間がいようが、自分の力や才能、財産に自信があろうが、主なる神さま以上にそれらのものに頼るならば、必ず、立ち上がれない程に失望する時が、我々のうちの殆ど全ての人の人生に来るだろう。だから、虫が喰うことがなく、錆びもつくことがない、決して私たちを裏切らない、神さまこそ私たちの宝とし、私たちの信頼を捧げなければならない。神に第一に頼らなければならない。」
私たち人間には限界があります。このことを認めない人などどこにいるでしょうか。だから、自分の手に余る出来事に出会った時に、そのような危機的な状況の中でその出来事に押しつぶされずに向き合うためには、どうしても、人間の力を超えたた神への信仰が必要だ。そのように言うことができると思います。
しかし、注意深く読まなければならないのは、今日の聖書の言葉は、人間の力の限界の先にある神への信仰の出番を語っているのではないということです。自分でできる備えをしっかりと固めた上で、それでもどうしても人間には限界があるから、その上で、神さまを信じて生きていくというプラスアルファの信仰を語っているわけではありません。人間への信頼と主なる神への信頼は、補い合うものではなくて、対立するものだとはっきり語られています。
「呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし/その心が主を離れ去っている人は。/彼は荒れ地の裸の木。/恵みの雨を見ることなく/人の住めない不毛の地/炎暑の荒れ野を住まいとする。」
程度の問題ではありません。私たちが人間に信頼するところがあるとするならば、そのような私たちは、呪いを受ける生き方をしているということです。これは、穏やかではありません。誰でも受け入れられることではありません。神を信じるが、人の力もある程度は信じることができる。私たちの普通の感覚からすれば、当然、そういうことが可能であると思えます。神さまに信頼するけれど、家族も信頼することは可能だと思っている。神さまに信頼するけれど、友人に頼ることも可能だと思っている。神さまを信じているけれども、自分の力を信じること、これも当たり前だと思っている。ところが、それらが否定されているのです。神を信じるか、人を信じるか、その二者択一が迫られています。人間に頼る者は呪われます。神に頼る者は祝福されます。聖書の神さまのこういう妥協のないところが、人を躓かせ、尻込みさせるところでさえあると思います。しかし、そういうことが語られている。
けれども、信じる、信頼するということで聖書が何を語っているかということをよく読む時、何かを信じる、何かに信頼することは、自分の心を、その対象に全く委ねてしまうことを意味するのだということがわかってきます。もっとわかりやすく言うならば、何かを信じて、何かに頼るということは、その信じる対象が失われれば、私は破滅だ、お仕舞だということを意味するほどに、あるものに心を入れあげることです。それほどまでに、私たちの心を委ねてしまう。それが何かに信頼し、何かを信じるということです。
主イエスは、「だれも、二人の主人に仕えることができない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイによる福音書第6章24節)とおっしゃいました。神に仕えるのか、自分が富と見做す他のものに仕えるのか、実際のところは、そのどちらかしかないのであります。
改革者ルターは、「今あなたがあなたの心をつなぎ、信頼を寄せているもの、それがほんとうのあなたの神なのである」と言いました。また、「ひとりの神を持つとは、心が徹頭徹尾それに信頼を寄せるものを持つことである」とも述べました。二番目、三番目に大切なものではありません。それを失ったら、おしまいだ。それが何かを問うているのです。どこに私の心を委ねてしまっているのか。何を指して、それが失われれば、自分は終わりだ、もう立っていくことができないと思っているのか。それが、何であれ、そのように私たちに思わせるものこそが、私たちが神と頼むものであります。
そこで、改めて私たちが認めなければならないことは、「神と人、その両方を信じることが私たちにはできる。この二つは共存することができる。」そういうことを私たちが言う時、私たちが真の神の他に、それがわたしたちから取り去られれば、私は滅びる他ない。こういう信頼を、神に並んでその他のものに寄せているということを意味しているのであるとすれば、それは、私たちが神と共に、別の偶像を心に抱いてしまっていると言う他ないのであります。
エレミヤはこのことを問題としているのです。神さま以外の人や物に心を委ねるような依存の仕方をしてはいけない。それが失われれば、私はおしまいだ。そう思うような仕方で、心を神さま以外のものに向けてはいけない。その神ならぬものは倒れるのであり、それが倒れる時には、自分も倒れてしまいます。そのような人の状況は、恵みの雨を期待できない荒れ地に植えられた裸の木のようにひどい状態だ。それが人間に頼る者だ。神以外のものに頼る者だと神はおっしゃるのです。
けれども、どんなにそのことを、私たちも良くわかっていると言うかもしれませんけれども、やはり私たちの心の中を丁寧に観察すれば、たいていの場合、私たちは、それが失われてしまえば、絶望し、もう破滅だと、考えてしまいかねない偶像をそれぞれに心の内に抱えているということを認めざるを得ないのではないでしょうか。それが、何であるかは、人それぞれに違うと思います。けれども、これを取り去られたら、自分は生きていけないかもしれない。そう思うほどに私たちが心を寄せている物や人、富。そういうものがあります。しかし、それはもう、エレミヤの警告する呪いの生き方に一歩も二歩も進んでしまっているという他ありません。
今日共に聴いておりますエレミヤのこの預言の言葉を、最初に聴いた者にとって、それは一体何であったのか。神以外に心を寄せる、そのものとは一体何であったのか。それは、非常に具体的な一つの力でありました。自分たちの兄弟とも言える、北王国イスラエルを滅ぼしましたアッシリアという国に代わって、その地域の新たな支配者になろうと台頭しつつあったバビロニアという帝国。この国が手の付けようのない程の力を持って自分を脅かす前に、もう一つの大きな軍事的な勢力であるエジプト、このエジプトという国と手を組んで、自国への侵略を防ごうと画策しているのであります。エジプトと同盟を結ぶことによって軍事的な抑止力を得ようというユダ王国の国家、国民の風潮、そういう風潮に向かって語られているのが、今日のエレミヤの預言の言葉であります。
つまり神は、エジプトの軍事力に頼ってはならない。この私、主なる神にのみ頼れ、そう迫られているのであります。神につくのか。エジプトにつくのか。その二者択一を迫っているのです。ところが、これを聞いた人は、当惑したに違いないのです。彼らもユダの民として、同じ主なる神さまを信じているからです。エジプトに頼ることと、神さまに頼ることが、二者択一とは考えてはいないのです。それは、共存できるものと信じている。それどころか、それは、神の名の下に結ばれる同盟でさえあると思います。彼らは、「神よ、どうか、この同盟を祝福し、エジプトの腕を強くし、この者によって、私たちをお守りください」とも祈ったはずであります。
ところが神は、私たち人間が、このように神と共に、人をも信じるという時、それを頼りにするという時、そこで、人の力と並んで神さまに期待している役割というのは、実はこれを取り去られたら私は破滅だと、頼みとしている私の財産を、私の力を、私の切り札を、私のエジプトを、どうかそれが失われないようにご加護を与えてください。そうやって神さまにプラスアルファのお守りの役目を期待しているに過ぎないと、見抜いておられるのです。それは結局のところ、神を神とせず、神ならぬ偶像に神を奉仕させようという我々の心の極度の歪みを表しているに過ぎないのです。そのような信じ方は、主なる神さまを信じる信じ方ではありません。どんなに敬虔な言葉を用いても、私がそこで本当に頼りとし、大切にしているのは、エジプトの力でしかありません。そしてそれは、荒れ地に植えられた裸の木のような生き方だと、神さまが語られる生き方です。長い日照りがやって来ると、その心を寄せるものは衰え、力尽き、そうすると神への期待をも失い、全く空手のままで自分も一緒に枯れて行く他ない、そういう生き方であります。
だから神さまは、真の神をあなたの神としなさい、そのように迫られています。そして、主なる神さまは、私たちの唯一よりどころとなられることを決意し、願っておられます。私を信頼し、水のほとりに植えられた木として生きなさい。どのような日照りが襲っても、私の下にしっかりと根を下しなさい。そして、青々とした葉を茂らせなさい。実を実らせなさい。
こういう神さまの決意の言葉、約束の下に、じつは私たちにとって非常に厳しいと思える、人間を信頼する者への呪いの言葉と神さまの祝福の言葉はひとつであるということが、はっきりとわかってまいります。人間に信頼する者に対する呪いは、祝福の源となるという神さまの宣言の裏側であることがわかります。つまり、私たちの生活の全局面において、神が私たちを救ってくださる。そのことを神さまが宣言しているということに気付くのです。人間の力に頼る必要はない。人間の力に一喜一憂する必要はない。この私が、この私だけがあなたの生涯の全局面において、あなたの拠り所となる。あなたの水の源となる。そういう神さまの宣言にわたしたちは、招かれているのであります。
このように私たちが神さまに頼ることができるならば、私たちが信頼を注いでいる誰かに裏切られるということが、私たちにとって取り返しのつかない致命傷になってしまうということはもはやありえません。これを手放したら、私はおしまいだと、私たちが思い込んでいる自分の力や財産が奪われてしまうようなことが起きたとしても、私たちはそれによって枯れてしまうことはもはやありません。神が私たちの支えとなっておられるからです。
この神の決意は、エジプトの奴隷であった彼らの先祖がモーセによって、自由な者とされたあの初めの時以来、ずっと語られ続けていた神の決意であり、神の民が招かれている生活でありました。「私に頼りなさい、私に従いなさい。それが命を選ぶことである、それが祝福を選ぶことである。私があなたの命の水の源となる。」そう宣言し、両手を開いて神は待っていてくださいました。
ところが、イスラエルの歴史というものは、この神を真の神としないことを何度も明らかにする歴史でありました。目に見える肉なる者を慕い、肉なる者に頼る歴史でありました。そしてその歴史が再び、エレミヤの時代に繰り返されようとしています。神ではなく、エジプトの力に頼ろうとしています。
しかし、広げられた神の手を何度も振り払うような、このイスラエルの民の姿は特別に頑固な者の姿を現しているわけではありません。イスラエルだけが特別なのではありません。神は預言者の口を通して、このように語られています。9,10節の言葉です。
「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。心を探り、そのはらわたを究めるのは/主なるわたしである。それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる。」
イスラエルを名指して語っているわけではありません。「人」の心が病んでいるのだと、一般的に語られています。祝福の道が示されているのに、神があなたの神となると両手を広げ招き、そこまで身を低くしてくださっているのに、全ての人の心は何にもましてとらえ難く病んでしまっている。だから、神に頼りきることができない。私たちの心もです。神を信じる、神に最も近くにいて頂いたイスラエルがそうであったように、主なる神を信じている私たちも例外ではありません。
私たちの心も病んでおります。たとえ、自分はそのような者ではない。自分は神以外の何者も頼りにしてはいない。ただ、神のみに期待し、他の誰にも何にも期待はかけていないと言っても、無駄です。聖書に記された神の言葉が、まさにこの私に語りかけている生ける神の言葉である。そう信じるならば、このとらえ難く病んでしまった人の心とは、この私の心のことだ。そう認めざるを得ません。どんなに健康な人間の心も、その奥深くでは病んでしまっている。それは自分で気付くことができない程に病んでしまっている。
そうであるならば、もはや、この9,10節の言葉は、神が嘆かれている、神の独り言のようにさえ響いてきます。
「人の心はとらえ難く病んでいる」
「いくら、私が身を低くして、人間の命の水の源であることを望み、決意し、あなたがたの下に来ても、あなたがたは、この私を選ぶことをしないのだね。どうしても、握りしめているその偶像を手放すことができないのだね。」そう神が嘆いておられるかのようです。そのような人間の姿が「しゃこ」という鳥に譬えられています。アフリカから中国南部にかけて生息するこの鳥は、言い伝えによると、別の鳥の卵を集めて来て抱くと言われています。それが神ならぬ者を神とする人間の姿だと言われています。神以外の何かを、誰かを自分の富として、それに心を寄せ、そして必ず、失望に終わっている人間の姿であります。その富を、いくら神のように大切に扱ったとしても、それは真の神ではないゆえに、失われ、それに頼っていた者たちは、神を失った者となるのです。
事実、この私たち自身もこのような失望を何度となく味わってきたのではないでしょうか。神ならぬものに心を寄せ、それが自分を幸福にし、祝福された者にすると、信じこんで、頼り、誇り、けれども、裏切られ、絶望してきたのではなかったでしょうか。そのような苦い経験を何度も積み重ね、もう自分は誰にも頼らない、誰にも何にも期待していない。そういうことさえあり得るかもしれません。しかし、そのような、何にも期待しないという生き方を始めたところで、それによって騙されない、ましな生き方を始められているわけでもありません。それこそまさに、神を失った荒れ地に植えられた裸の木の生き方だとしか言いようがありません。
12,13節では、そのことが改めて語られています。神が誠実に、私どもの神であり続けてくださること、私たちの希望であり続けてくださること。だからその神を捨てる者は、希望を失った者として、手がかりもなく地下に堕ちていくように滅びていくほかない。しかし、この言葉は、「人の心が耐え難く、とらえ難く病んでいる」という言葉とセットとなる時、それでもやはり、病んでいる私たちは、神を選び、神にのみ頼ることはできない。地下に降って行くように生きる他ない。そのような、どうしようもできない私たちの現実が語られている。そう読む他ありません。
預言者も例外ではありません。この者も神の言葉の前に、病んだ自分を知らされ言います。14節です。
「主よ、あなたがいやしてくださるなら/わたしはいやされます。/あなたが救ってくださるなら/わたしは救われます。」
主なる神に頼ることができず、人間に頼る呪われた者。それは、この私の事だ。そう預言者は告白しているのです。預言者でさえそうです。それほどに、神に従いえない人間の心の闇、それをこの14節の言葉ははっきり語っているようです。しかし、我々の救い難さを現す預言者の言葉は、病める人間に対する告発であるにもかかわらず、そこでは、全く新しいことが起きていることにも気づかされます。
神を神とし、神にのみ頼るということを含めて、自分では自分をどうすることも出来ないこの預言者エレミヤの自分を含めた全ての人間への断罪の言葉には、既にこの病からの回復の兆しが見え始めているのです。人間の罪を徹底的に告白するこの言葉は、同時に、この閉塞状況を打ち破る道、すなわち、神の介入を指し示しています。主が癒してくださるならば、癒えるのです。主が救ってくださるならば、救われるのです。ただ、主だけが、この人間の如何ともしがたい状況をどうにかすることがおできになるのです。神が、神の下に来ることのできない人間のために、神が人間の下に来てくださる。そうするならば、病める人間は癒されます。そして、それは単なるエレミヤの願望の言葉ではなくて、このエレミヤの言葉自身から病める人間の下に来られる神のその到来が、既に、このエレミヤの身において開始されているということを見るのです。
「主よ、あなたがいやしてくださるなら/わたしはいやされます。/あなたが救ってくださるなら/わたしは救われます。」
病んでいるゆえに、神を求めることができないと、神に嘆かれている人間が、自分の病を認識し、同時に「この病を癒してくださるのは、私を救ってくださるのは、ただ神さまあなただけです。」と、神に頼ることを始めているのであります。祝福された者の生き方を始めているのです。
既に、この預言者の告白において始まっていることを窺わせる、神の行動。それは、エレミヤの心を癒すということで終わることはなく、この神の行動は御子イエス・キリストにおいて、ついに極まったのです。呪いを選んでしまう人間のところに、イエス・キリストが分け入って来られたのです。祝福を選ぶことのできない私たちの呪われた歩みが、この方が来られた時に極まりました。祝福の道を告げに分け入って来られたこの方を、私たちは十字架につけて殺してしまいました。しかし、この方は、そこでこそ、私たちに必要なことを成し遂げてくださいました。
この方は私たちに代わって、絶望の内に死ななければならないこの私たちに代わって十字架にかかり、呪われた人間の肉を滅ぼしてくださいました。しかもそれは同時に、誰にもなしえなかった神への徹底的な従順、信頼、服従でもありました。神は、神により頼む者の生ける命の水の源として、このキリストにおいて、人をよみがえらせてくださいました。
御子イエス・キリストこそが、神の言葉が語る呪われた人となり、また祝福された人となりました。このように、御子が人となり、十字架と復活の道を歩まれたのは、ただただこの新しい命を、私たちに贈り物として与える為に他なりませんでした。ご自身が呪いを引き受け、それによって、祝福を、神の子として生きることを得させる神の霊を、すなわちエレミヤにおいてかすかにその消息をお報せくださっていた霊を、丸ごと私たちにお送りくださるためでありました。ガラテヤ書第3章13,14節は語ります。
「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。」
 神は呪われた我々、人を見捨てず、御子イエス・キリストにおいて、この呪われた私たちの生き方と一つとなるほどに、近くを歩んでくださいました。それほどに身を低くしてくださいました。いやそれどころか、我々の呪いを完全に引き受けてくださいました。キリスト・イエスにあって、だから、呪いはもうありません。このようなキリストの贈り物によって、呪いを取り去られ祝福された者として生きる者は一体誰でしょうか。それは、私たちのことです。
 私たちは祝福された者として生き始めています。しかし、特によく覚えていただきたいことは、このような祝福に生きるようになった私たちは、決して日照りから自由にされたわけではないということであります。私たちも日照りの中を生きることがあります。その意味では私たちが置かれた状況というのが、呪われた者にこそふさわしい状況にさえ見えることすらありうるでしょう。しかし、私たちが祝福された者として生きるということは、私たちの置かれた状況によって台無しにされてしまうことではありません。エレミヤ書が語る、祝福された者の置かれた状況がはっきりとそう語っているように、神の祝福に生きる者は、日照りの中にあっても、枯れることなく、青々と葉を繁らせ、実を結ぶ、そのような生き方を生きるのであります。それは、個人の人生に起こってくる禍福のみならず、家族、国家、世界の日照りに置かれる時も、同様であります。誰もが人間に信頼した結果、陥ってしまうような絶望の中にあっても、キリストに結ばれている者はなお、葉を繁らせ、命の水の源を指し示しながら、生きることができるのです。
それは私たちが、他の人々より強い者になったとか、絶望に耐えうる優れた精神性を持つようになったとか、そういうことではありません。私たちはなお弱いままです。空っぽのままであります。けれども、神がキリストにおいて私たちを満たし続けてくださいます。キリストを信じる時、私たちは水のほとりに植えられた木として生きることができるのです。神がいつでも、日照りの中にある私たちの水の源となり、私たちに向かって「祝福された者よ」と呼びかけてくださるのです。
私たちはいつでも、どこでも、この祝福された者として生きるようにされています。ただ、恵みによってこの救いにあずかった私たちです。私たちのすべきことはもはやそんなに多くはありません。いや、ただ一つだけです。この救いを私たちに与えてくださった神をたたえること。このことだけが、私たちの残りの生涯をかけてやるべきことであります。感謝の祈りを捧げましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、あなたを信じきることのできない私たちのために、御子を十字架に送り、私たちの呪いを引き受け、代わってよみがえりの命を贈ってくださいました。どんなに私たちの心が頑なで、あなたを信じることができない者であったとしても、身を屈めて私たちと共に歩まれることを望まれるあなたは、私たちのその心の扉を打ち破り、キリストを信じる信仰を確かに与えてくださいました。どのような恐れの中にあっても、命さえ取り去られる、そのような危険の中にあっても、あなたが拠り所となってくださることに信頼し続けることができますように。そして、肉の力に頼らなければ、自分はおしまいだと思っている人々に、あなたの造られる本当の世界に目を開いてくださいますように。そのために私たちを用いてくださいますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン
 
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