2014年7月6日 主日礼拝

「キリストによる職務質問」 川﨑 公平 牧師

ルカによる福音書第20章1―8節

 
「ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、……」(一節)。何気ない言葉のようですが、福音書記者ルカが深い思いを込めて書いた言葉だと思います。主イエスの地上のご生涯の、最後の大切な目的は、神殿にお入りになることでした。ある聖書学者は〈キリストによる神殿占領〉と呼びました。そのために、これに先立つ第一九章の最後のところでは、主イエスは神殿の境内で商売をしている人を皆追い出してしまわれた。そして、「祈りの家を強盗の巣にするな」と言われました。その場にいた人たちにとっては、とんでもないやつが現れた、というところであったと思います。
しかも主イエスは、追い出すべき人を追い出して、まさにその場所を占領なさるようにして、「神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられ」た。これは、少なくともある人びとにとっては我慢ならないことであったと思います。そこに殺意が生まれました。「毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀った」(第一九章四七節)。この主イエスに対する殺意は、このあとほんの数日後に、主イエスを十字架につけて、殺すところに至ったのです。
このような殺意をもって、彼らは主イエスに尋ねました。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか」(二節)。もちろんその意味は、われわれはあなたに権威を与えていない、あなたにそんなことをする権威はないはずだ、ということでしかなかったのです。
私どもがその場にいたとしたら、このような主のお姿に触れたとしたら、どう思ったでしょうか。何の疑いもなく神殿で礼拝の生活をしていたところに、ひとりの人がずかずかと踏み込んできて、あれもこれも間違っている、お前たちは皆出て行け、そしてわたしの言葉を聞けと言って、その場所で教えを垂れ始めた。仮にこの鎌倉雪ノ下教会で同じようなことが起こったら、どうでしょうか。私がいちばん慌てるかもしれません。私は、この祭司長、律法学者たちの気持ちも、よく分かるような気がします。
私の前任地で、短い間のことですが、自分は預言の賜物を持っていると主張する男性が礼拝に出席し続けたことがありました。髭面の、髪はぼさぼさ、よれよれのTシャツに半ズボンという、しかもかなり大柄の男性が、「わたしはいわゆる牧師ではない。預言者である。そのひとつのしるしとして、皆さんは洗礼を一回しか受けていないと思うが、自分は四回も洗礼を受けた」。要するに、すごい祝福を受けているのだ、というわけです。「そのわたしが今日からあなたがたの教会に預言者として遣わされたのも、神のお告げがあったからだ」。その人が、それからまあ次々と、お告げを受けたと言って、私にメールをよこすようになりました。そして、この預言者であるわたしをなぜあなたは重んじないか、という態度になってきたので、こちらもちょっと困りました。
こういう話をお聴きになって、いくら何でもばかばかしいとお思いになるかもしれません。いくら何でもうさんくさい。そのうさんくささをもう少し明確に言い表すと、その自称預言者の権威が、ほかの誰によっても権威づけられていない、ということになると思います。たとえば私がこの教会の牧師であり、皆さんの前でお話しをさせていただいているのも、私が牧師を自称しているからではなくて、この教会の長老会、また教会総会という会議で、私を牧師として招くことを決めたからです。そのような決め事を軽んじ始めると、教会が混乱するでしょう。この教会に自称預言者が現れても、もちろん最大限の愛と礼節をもって遇したいと思いますが、その人に礼拝の責任を負わせるようなことはしません。これは当然のことです。
けれどもここでは主イエスが、「神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられる」。その神殿の責任者たちにとっては、とうてい認めがたいことであったのです。おかしな田舎者が、自分たちの神殿で勝手なことをしている。けしからん。そこで祭司長たちは、主イエスに対して職務質問をしたのです。もしもし、何してるの。困りますよ。そこで彼らが問うたことは、まさに権威に関わることでした。「何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか」。ところが、彼らの職務質問に対して主イエスは、逆に質問をお返しになりました。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい」。それに続く主イエスの言葉は、あとで読みます。とにかく彼らは、この主イエスの質問に答えることができず、ますます困り果ててしまいました。
ここで彼らを困らせているのは、自称預言者ではなくて、神の御子、神と等しいお方です。そして、おかしな言い方かもしれませんが、神によって困らせられるということが、私どもの信仰にとって、とても大切なのです。ここは自分の城だと思っていたところに、神が踏み込んで来られる。それは困る。出て行ってほしい。そこに祭司長たちの殺意が生まれたし、結局のところ、主イエスが十字架につけられた理由を問うならば、神が私どものところに来られたことが迷惑であったからでしかないのです。けれども、繰り返して申します。神によって困らせられるというところからしか、私どもの信仰は始まらないのではないか。
このように言い換えることもできます。なぜ祭司長たちは困ったのか。ここではまず祭司長たちが、主イエスに問い詰めようとしています。質問をする権利があると思っているからです。警察の職務質問と一緒です。偉いから質問できるのです。偉くない方は答える義務があるのです。それが権威というものです。私も、職務質問は受けたことはありませんが、交通違反で捕まったことがあります。お巡りさんに「免許証出して」と言われたら出さないといけない。つまり、名前や住所を明らかにしないといけないということです。なぜかそういうとき、必ず職業を聞かれます。考えてみれば職業など答える必要もないはずですが、「職業は?」と聞かれたら、「すみません、牧師です」と答えないといけない。その時に、「では、わたしも一つ尋ねるから、答えなさい」などと口答えしたら、きっとややこしいことになります。
祭司長たちの質問に、主イエスは答えなければならないのです。ところが、予想もしない事態が起こった。逆に問い返されたのです。その問いに答えると、自分たちの立場が危うくなる。そこで、彼らは困ったのです。神によって困らせられることが大事だと言いました。それを言い換えると、神に問い返されるということです。しかも、その神の問いに答えると、自分の立場が脅かされるということが起こる。けれども、これは私どもが神を信じる道筋において、とても大切なことだと思うのです。
ハイデルベルク信仰問答という信仰の書物があります。「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか」という問いから始まる信仰問答です。キリストの教会は、伝統的に、問答形式で信仰を言い表すことを大切にしてきました。しかし、誰が問い、誰が答えるのでしょうか。信仰を求めている人、いわゆる求道者が質問をして、それに対して牧師が答えてくれるという関係を考えることもできそうですが、多くの場合、信仰問答はそのように書かれていません。
「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか」。私どもが問われています。「わたしにとっての慰めは何ですか、神さま、教えてください」というのではありません。神に問われるのです。あなたはいったい、何を慰めとしているのか。安定した生活をすることか。健康で長生きすることが、あなたの慰めなのか。その慰めが、生きている時だけでなく、死ぬ時にも通用するのか。たとえばそのように、神に問い詰められるのです。もちろん信仰問答は、答えも同時に口移しに教えてくれます。「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります」。
私どもも、この祭司長たちに似た権威を持っています。大した権威でもないくせに、自分の小さな城をもっているのです。自分は自分のもの。自分の生活、自分の財産は自分のものだと、そう思い込んでいるところに、主イエスがずかずかと上がり込んで来る。そして私どもを問い詰められるのです。あなたはもう、あなた自身のものではない。あなたはわたしのものだ。そこにしか、あなたを生かす慰めはない。あなたを慰めるのは、このわたしなのだ。わたしが、あなたを愛しているではないか。そのことが分かるか。
主イエスはここで、「ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」とお尋ねになりました。この言葉もたいへん奇妙なものです。しかし、たいへん巧妙な答えだとも言えます。祭司長たちは見事にやり込められた。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから」。しかしこの主イエスの言葉は、ただ相手をうまくやりこめるだけのものではないと思います。
おそらく、皆さんにとってぴんと来ないのは、なぜ「ヨハネの洗礼」などということが問題になるのか、ということだと思います。ヨハネの洗礼などと言われても、ちょっと自分には縁が遠い。しかしおそらく、長い説明の必要はありません。私どもがヨハネの洗礼になじみがないと思い込んでいても、主イエスご自身は、ヨハネの洗礼をお受けになったのです。
民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた(第三章二一―二二節)。
主イエスは、「ヨハネの洗礼は、天からのものだったか」とお問いになりました。それは言い換えれば、主イエスが洗礼をお受けになった時、〈天〉が開け、〈天〉から声が聞こえた。この天の声を信じるのか、信じないのか、ということです。
カルヴァンという人が主イエスの洗礼の記事を説き明かしながら、こう言いました。「ここでキリストは、ご自身の体の中で、洗礼を聖めてくださった。私たちがキリストと共に洗礼を受けることができるようになるためである」。私どもも洗礼を行います。そのときに大切なことは、この洗礼が誰によって聖められた洗礼であるか、そして、誰と一緒に受ける洗礼か、ということです。私どもは、キリストと共に洗礼を受けるのです。そしてそのたびに、まず主イエスが天から聴き取ってくださった言葉を、私どもも共に聴くのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。私どもは、神に愛された、神さまの子どもです。これは、天からしか聴こえようがない言葉です。地上のいかなる権威によっても語ることのできない言葉です。主イエスの権威によってしか、聞くことも語ることもできない福音なのです。
ルカによる福音書の記述によれば、主イエスがヨハネから洗礼をお受けになった時、主は祈っておられたと言います。「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると……」。主イエスと一緒に洗礼を受けていた民衆のためにも、そして、今この教会で洗礼を受ける人のためにも、主イエスは祈っておられたと思います。「あなたはわたしの愛する子」という天からの声を、この人にも、この人にも聞かせたい。そのような主イエスの祈りに支えられて、私どもはここで洗礼を行う。洗礼を受けて、神の子になると信じるのです。
もうひとつ、信仰問答の言葉を紹介したいと思います。十数年前に、アメリカ長老教会という教派が子どものための信仰問答を採択しました。たいへんすぐれたもので、すぐに日本でも翻訳されて、『みんなのカテキズム』という書名で紹介されました。鎌倉雪ノ下教会の教会学校でも、一年間、この信仰問答に沿って礼拝をしたことがあるはずです。この信仰問答の、やはり最初の問いと答えが、決定的に大切です。「あなたは誰ですか」。「わたしは神さまの子どもです」。ここでも大切なことは、神が問うてくださる、ということです。「あなたは誰ですか」。天からの問いです。そして答えも、口移しに教えてくださるのです。「わたしは神さまの子どもです」。そう答えてごらん。神は、私どもの答えを待っていてくださるのです。この神の問いの前に、喜んで屈服させていただきたいと願います。  (七月六日 礼拝説教より)
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