2014年5月4日 主日礼拝

「見るべきものを見るために」 川﨑 公平 牧師

ルカによる福音書第18章35-43節

 
エリコという町に通じる通りの道端で、ひとりの男が物乞いをしておりました。目が不自由であった。その意味で、深い闇の中で、もうどうすることもできなかった。しかし、主イエスのところに行くことができました。主がこの人の目に、光を見せてくださいました。うれしかっただろうなあ、と思います。イエスさまに会えて、本当によかった。今、皆さんの顔を見ながら、私はそう思うのです。イエスさまに会えて、本当によかった。
この礼拝に先立って既に小礼拝をしたときにも、説教の最初に同じような話をしたのですが、いったいどういう言葉から説教を始めようかと、実は私はよく、そのことがいつまでも定まらずに、礼拝が始まっても迷い続けていることがあります。今日もそうでした。けれども礼拝を始め、招きの言葉を読み、共に讃美を歌い、皆さんの顔を見ながら、ああそうだ、このことだけ話せばいいと思いました。「イエスさまに出会えて、本当によかった」。皆さんと共に讃美を歌いながら、皆さんの顔を見ながら、私はそう思うのです。
一度でも希望が見えない闇を経験した者なら、ここでイエスさまに会うことができた盲人の気持ち、よくわかると思います。けれども闇の中に、イエスというお名前が聞こえてきたのです。いったい、どんな方なんだろう。もしかしたら、このお方なら、何とかしてくださるかもしれない。そう思って、この光を取り逃したら、もうチャンスはないというような思いで、この男は叫びました。「主よ、わたしを憐れんでください。助けてください。わたしの声が聞こえますか。わたしはここにいます。しかしわたしにはあなたが見えません。主よ、どこにおられるのですか。わたしの声が聞こえますか。主よ、わたしの声を聴いてください」。その声を聞き取って、主イエスは立ち止まってくださいました。私どもも等しく、どこかで経験しているはずの出来事です。
ルカによる福音書は、この盲人の名前を記録しておりませんが、皆さんの中には、この人の名前はバルティマイであったはずだということを覚えておいでの方もあると思います。マルコによる福音書第10章の最後のところを読むと、この盲人の名前はバルティマイと、その名前が残っています。マルコがその名前を残したのは、おそらく、のちの教会の人びとにとっても、このバルティマイという名前がよく知られていたからではないかと思います。バルティマイと聞けば、ああ、あの目が見えるようになったっていうバルティマイおじさん、というようにすぐに分かったのです。今日読んだ最後の43節に、「盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った」とありますが、もちろん、生涯、主イエスに従い続けたのです。そして、主イエスがお甦りになった後、教会のひとりとして生き、そこで自分が経験した出来事を、喜んで語り続けたし、教会の仲間たちも、その話を、バルティマイという固有名詞と共に喜んで心に刻み続けた。ルカがその名前を消したのは、既にバルティマイという名前が人びとの記憶から薄れ始めていたからかもしれませんし、しかしあるいは、これはこの男ひとりの物語ではない、われわれ自身の物語だと思ったからかもしれません。
このバルティマイは、道端に座って物乞いをしていたと言います。目が見えませんから、物音だけが頼りです。けれどもある日、この盲人の耳に、ただならぬ雰囲気が伝わってきます。いったい何だろう。誰が通っているんだろう。……周りの人に尋ねました。「これは、いったい何事ですか」。「ナザレのイエスのお通りだ」。どこかで、その名前を聞いたことがあったのでしょうか。その評判を耳にしたことがあったのでしょうか。しかし、そのお方が「お通りだ」と言われても、問題は、何しろ目が見えませんから、どこにおられるのかもよく分からない。今どのあたりにおられるんだろうか。もう通り過ぎてしまわれたのだろうか。叫んだら聞こえるだろうか。それも分からない。それだけに、力いっぱいに叫んだと思います。「わたしを憐れんでください。主よ、どこにおられるのですか。わたしはここにいます。イエスさま、イエスさま、わたしの声が聞こえますか。どうか聞いてください」。ところが、「先に行く人々が叱りつけて黙らせようとした」。つまり、こともあろうに、主イエスと共にいた、その先頭を歩く人たち、というのはつまり弟子たちのことでしょう、「うるさい、黙れ、いいかげんにしろ」と押さえつけようとする。けれども、ここで主イエスに通り過ぎられてしまったら、もう二度とチャンスはないと思うから、ますます大声で、「わたしを憐れんでください」と叫び続ける。そうしたら、「うるさい」というような声しか聞こえなかったところに、急に誰かが近寄って来て言いました。「イエスさまが呼んでいるよ。そばに来いっておっしゃっている」。イエスさまが、そのようにわたしを呼んでくださって……それで、ほら見てごらん、今はこのように、目が見えるようになったんだ。そう語るバルティマイの言葉を、教会の人びとも、喜んで聞いたし、バルティマイもまた喜んで語り続けた。イエスさまに会えて本当によかった、というその喜びを分かち合ったのです。
ところで、私はこの物語を読みましたときに、ひとつどうしても気になったことがあります。40節で、「イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた」。そして、「彼が近づくと……」。この福音書の書き方からすると、主イエスが直接、この盲人を呼んでくださったわけでもないし、主イエスがこの人に近づいてくださったわけでもなさそうです。主イエスは立ち止まったままです。あの人を連れて来いと命令された人が、わざわざ呼びに来たのです。もしかしたら、それこそ先頭に立って、「うるさい、いいかげんにしろ」と言っていた人が、慌てて態度を変えて、「お、おう、お前、イエスさまがそばに来いっておっしゃっているぞ。よかったなあ」などと言ったのかもしれません。しかし考えてみれば、なぜ主イエスがご自分でこの男に近づいてくださらなかったのだろうか。なぜ直接、わたしがあなたのそばにいるよ、と言ってくださらなかったのだろうか。立ち止まったまま、ほかの人に「連れて来るように」と命じられた。何だかこの日のイエスさまは偉そうだなあ、という感想もあり得るかもしれません。
しかし私は、この主イエスの言葉、「あの人を、わたしのそばに連れて来るように」という言葉もまた、後の教会の人びとが大切にした言葉ではなかったかと思います。「あの人を連れて来なさい。わたしのそばに連れて来なさい」。主イエスのそばであります。私どもも、主イエスから命じられていると思います。「あの人を連れて来なさい」。そして実際に教会は、そのように生きてまいりました。闇のような場所にいる人のところに出かけて行って、「だいじょうぶ、あなたはひとりではない。イエスさまが、あなたを呼んでおられる。わたしのそばに来いっておっしゃっている」。私ども教会にゆだねられた言葉です。本当は、すべての人が、このような教会の言葉を必要としているのです。この日本という国もまた、このような教会の言葉を必要としているのです。「わたしのそばに連れて来なさい」。このお方のところに行くのです。連れて行くのです。
この盲人は、そのようにして、主イエスのそばに行くことができました。ルカはその様子を、「彼が近づくと」というように、非常に簡潔にしか書いてくれていませんが、たとえば私どもの教会にも、全盲の神学生がいますから、その様子を生き生きと思い浮かべることができると思います。イエスさまのところに近づこうにも、誰かが手を取ってくれなければ、どっちの方向に歩き出したらよいかも分かりません。ようやく主イエスの前に立っても、「ほら、お前のすぐ前にいるのがイエスさまだぞ」と、誰かが教えてくれなければ、何も分からなかったと思います。実は私どもも例外なく、最初は、そのように主イエスの前に連れて行ってもらったのではないでしょうか。
そこで主イエスは、開口一番、「何をしてほしいのか」。そう言われました。ああ、これが、イエスさまの声か……。しかしそこで何を問われたかというと、「あなたは、わたしに、何をしてほしいのか」。ある神学者は、ここでこの盲人は答えに詰まったのではないかと想像しています。「何をしてほしいのか」。そう言えば、自分は何をしてほしいんだろう……。答えに詰まった。そうは思わないという方もおられるかもしれません。そんなことは分かり切っているではないかという感想もあり得るかもしれません。しかし、この人は、これまでもいろんな人から同じことを聞かれてきたと思います。「何をしてほしいのか」。衣食住に関わることだけでも、いろんなことで、いろんな人から、「何をしてほしいのか」と聞かれてきたと思います。
しかし今、このイエスというお方の前に立ちながら、「何をしてほしいのか」と問われます。そう言えば、いったい、わたしは、何をしてほしいんだろう……。「一生困らない額の施しをください」とか、「わたしの生活を支えてくれる伴侶を与えてください」とか……今、私の言葉を聞きながら、ばかばかしいとお思いになる方もあるかもしれませんが、私どもだって突然こういう問いの前に立たされたら、案外、こういうレベルの願いを口にすると思います。イエスさま、わたしは今こういうことで苦しんでいます。だから、こうこう、こういうふうに助けてくださいませんか。もちろん、そういう祈りが間違っているというのではありません。主イエスは既にこの同じルカによる福音書の第11章で、「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」と言われました。旅行中の友達に出してあげるパンがないということになったら、そのパンを必死になって求めるように、神さまに何でも欲しいものを願い求める。それが祈りです。
けれども、そこで、改めて主イエスは問われる。「あなたは、何をしてほしいのか」。あなたの本当の願いは何か。あなたの根本的な求めは何か。私どもも、問われていると思います。「何をしてほしいのか」。いったい、私どもは、神に何をしてほしいと願っているのでしょうか。
この盲人は、言葉に詰まりながらであったかもしれない。もしかしたら、その声は震えていたかもしれない。けれども、万感の思いを込めて申しました。「主よ、目が見えるようになりたいのです」。私は思います。この人は、生まれて初めて、この願いをはっきりと口にすることができたのではないか。それまでにも、いろんな人から、「何をしてほしいのか」、「何かしてほしいことはありますか」と声をかけてもらったと思います。そしていろんな願いを口にしてきたと思います。けれども、ここでは、「主よ」。はっきりと、神の名を呼んでいます。「主よ、わたしは、生まれて初めて、この願いを口にいたします。……目が見えるように、なりたいのです。他の誰にもお願いしたことのない願いです。けれども、イエスさま、あなたにだからこそ申します。目が、見えるように、なりたいのです」。この方に対してなら、この願いを口にすることができるのだということを、どういうわけか、この人は悟ることができました。このお方にならできる。このお方に、わたしは願う。……これが、〈信仰〉です。信じたからこそ、口にすることのできた願いであったのです。だから、42節では、「あなたの信仰があなたを救った」と言われるのです。
主イエスがあえて、この人に、「何をしてほしいのか」とお尋ねになったのは、このような〈信仰〉をお求めになったからではないかと思います。はっきりと、自分の口に出して、「主よ、わたしはあなたに願います。あなたに、してほしいことがあるのです。あなたにしかおできにならないこと、それをあなたに願います」。これが、信仰です。ここに、主イエスにまっすぐに向かう、ひとすじの心が生まれました。
この人の信仰が、この人を救いました。そして、目が見えるようになりました。その時、この人が最初に見たのは、もちろん、主イエスのお顔だったと私は思います。自分をまっすぐに見ていてくださる、主イエスのまなざし、それが真っ先にこの人の目に飛び込んできた。その主のまなざしは、明らかに愛のまなざし。このわたしの叫びを聞いて、立ち止まってくださった方のまなざし、このわたしの祈りを聞いてくださった方のまなざしです。
「ああ、そうだ、わたしは、このお方を見るために、これまで生きて来たんだ。これまでの悲しみも苦しみも、全部この時のためだったのだ。このお方を見るために、いや、このお方に見ていただくために、わたしは生きているのだ」。だからこそ、この人は、すぐに主イエスに従って行きました。どうもありがとうございます、これで人並みに働けます、さようなら、などと言ったのではない。自分の見るべき方はこの人だ、自分の歩むべき道はここだと、見るべきものをしっかりと見定めて、主イエスについて行きました。
この人が、そののち、どのような歩みをしたか。福音書はそういうことを伝えてはくれませんが、想像することは許されると思います。この出来事が起こったのは、主イエスがエリコに近づかれた時のこと、おそらくエリコの町の入口のような場所であったのではないかと言われます。この癒された人は、そのまま主イエスについて行って、エリコの町に入ります。第19章であります。そこで主イエスは、今度はザアカイという徴税人の頭、おそらく町で一番の大金持ちの家にお泊まりになります。町で一番貧しいバルティマイに出会ってくださったと思ったら、今度は町で一番のお金持ちの家に救いをもたらしてくださった。それこそザアカイは、それまで見たこともないような、主の愛のまなざしにとらえられたことを知ったと思います。こんな優しい目で、人に見てもらったことがあっただろうか。その愛に触れて、ザアカイは、自分の財産の半分を貧しい人に施しますと、喜んで約束してしまいます。貧乏人の代表のようなバルティマイもまた、さっそくその恩恵にあずかったのでしょうか。しかし、バルティマイがそこでも何と言っても心を打たれたのは、ザアカイに注がれる主の愛のまなざしであったと思います。ああ、あの時の目と同じだ。ザアカイさんも、このお方に愛されている。見つめられている。わたしと一緒だ。よかったですね、やっと見るべきものを見ることができましたね、とバルティマイはザアカイを祝福したかもしれません。
けれども、福音書の伝えるところはそこで終わらない。エリコの次には、都エルサレムに入られる。多くの人びとの喜びの声に迎えられて、主イエスはエルサレムにお入りになる。バルティマイもまた、まことに誇らしい思いで、主のあとについて行ったと思います。けれども思いがけないことに、その週のうちに主イエスは捕らえられ、十字架につけられて殺される。バルティマイもまた、その主の苦しみの様子を、見えるようになったばかりの目で見たでしょうか。どんな思いで、その苦しみの御顔を見たのでしょうか。こんなつらいことを見せられるくらいだったら、昔のように目が見えない方がましだったとさえ思ったのではないか。
このルカによる福音書を読み進めていくと、私どもが心打たれることがあります。主イエスに従って行ったはずの弟子たちが皆、しかし、いちばん肝心なところで主イエスを見捨てる。主イエスを裏切ってしまうということが起こります。特に第22章31節以下の主の言葉は忘れがたいものがあります。
シモン、シモン(主イエスの一番弟子であるペトロの生まれた時からの名前です)、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」。
バルティマイもまた、主イエスを捨てた弟子たちと同じような行動を取らなかったでしょうか。サタンの手によって、小麦のようにふるいにかけられるような経験をして、もう一度闇の中に戻って行くような経験をしなかったでしょうか。それを否定する理由はありません。けれども、主イエスのまなざしが、この弟子たちから離れてしまったことは一度もないのです。バルティマイの目を開いてくださった主イエスのまなざしが、バルティマイを見捨ててしまったことも、一度もないのです。
特にこのルカによる福音書のなかで、私どもの多くが忘れがたい思いで記憶しておりますことは、先ほどお読みしましたように、弟子のペトロが予告通り、その日のうちに、「鶏が鳴くまでに、三度イエスを知らないと言」ってしまう。けれどもそこで、このようなことが起こります。第22章の61節以下。
主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。
なぜ泣いたのでしょうか。絶望の涙でしょうか。それだけではないと思います。主に見つめられている自分であることがよく分かったのです。バルティマイをも捕らえてくださった、主のまなざしです。そして、このお方は、お甦りになりました。弟子たちにもう一度出会ってくださいました。このバルティマイも、お甦りになった主イエスに直接お会いしたのでしょうか。そうかもしれません。確かなことは、このバルティマイが教会に生き続けたということであります。主が天に昇られ、肉眼では見えなくなった後も、信仰の目をもってなお主を仰ぎ続け、自分を捕えてくださった、自分もそのお方を見ることができた、その主のまなざしのことを語り続けた。主の弟子として、主イエスに従い続けたのです。ここに、私どもの物語、皆さんの物語があると私は信じます。
「わたしは主イエスに呼ばれた。主イエスのそばに行くことができた。そして、このお方のまなざしを見ることができた」。バルティマイは何度でもその物語を喜んで語り続けました。そこでバルティマイが語り続けた主イエスというのは、お甦りになった主イエスです。私どもが主を捨てても、私どもを捨てることはない主のまなざしであります。その主のお声を、私どもも聞きました。誰かに連れて行ってもらったのかもしれない。けれども主の前に立つことができました。主のまなざしを仰ぐことができました。そのお方を知っているから、私どもも死に勝てるのです。もう勝っているのです。
そういう私どもが、その呼び声を伝えるために、主に召されて、ここに生かされています。「いのちの主が、あなたを呼んでおられる。わたしと一緒に、あのお方のそばに行こう」。そのような力ある言葉を、私どもも、隣人に伝えることができるのです。このような望みを与えられているこの教会であることを、心から感謝して受け入れたいと思います。お祈りをいたします。
今新しい思いで、主の前に立ちながら、私どもも今、ひたすらに祈り願います。私どもの目を開いてください。見るべきものを見せてください。私どもを見つめていてくださる、あなたの愛のまなざしに気づかせてください。そして今、もうひとつの祈りを加えたいと願います。どうぞ私どもの隣人を、主のおそばに連れて来ることができますように。私どもにそのような志と勇気と、また望みを与えてください。何よりも、そのようなあなたの願いを、今私どもも、私どもの願いとして受け入れることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン
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