2014年5月18日 主日礼拝

「自分の本当の願いを知っていますか」 川﨑 公平 牧師

ルカによる福音書第19章1―10節

 
ザアカイという税金集めの仕事をしていたひとりの男が、思いがけず主イエス・キリストに出会うことができました。昔から多くの人に愛されてきた聖書の物語であり、たとえば私のような者も、文字も読めないような頃からこの物語に親しんだものです。今日ここに、初めてザアカイという名前を聞いたという方がおられたとしても、二度と忘れることのできない物語になると思います。このザアカイの背が低かったこと、そのために前の人が邪魔でよく見えなかったから、木に登ったということまで、忘れることのできない物語だと思います。
けれども、何と言っても私どもにとって忘れることができないのは、その木の下から主イエスの声が聞こえたことです。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。ザアカイにとって、人生最大の出来事が起こりました。
少し正直なことを申しますと、特に今日、私どもが期待していることは、ふだん教会の礼拝に出ておられないような方をここにお招きしたいということであります。それで、今日は誰かに誘われて、初めて教会に来たという方もここにおられるかもしれませんし、あるいは、ふだんから礼拝に出席し続けていながら、まだよく分からない、イエス・キリストとか言われてもピンと来ない、だからまだ洗礼を受けようとは思わないという方も、もちろんおいでになると思います。
私が今、心から願っていることは、ザアカイと同じように、ここでも主イエスとの出会いの出来事が起こることです。私がここでお話をさせていただいているのも、今皆さんを呼んでくださる、主イエスの紹介をさせていただいているのです。
ザアカイは、徴税人の頭であった。ということは、とにかく国家の権力を背後に持っています。けれども当時徴税人と言えば、暴力団のような性格があったようです。ザアカイは徴税人の頭ですから、組長ということになる。ザアカイが主イエスに語っている言葉からも、だましたり、ゆすったりして、不正な取り立てをしていたことが分かります。おもしろいように金を取ることができたようです。ですから当時、徴税人の権利を買い取るためにはかなりの金を積まなければならなかったそうです。それだけに、一般的には嫌われる存在でした。
ザアカイがどうしてこういう仕事に就いたのか、それはよく分かりません。しかし、いろんな紆余曲折があったのではないでしょうか。子どもの頃からつらいことがあったかもしれない。もしかしたら背が低いというだけでばかにされたような経験があったかもしれない。ちくしょう、見返してやる、という思いで、徴税人の親分にまで上り詰めてしまったのかもしれない。
けれども、人びとの冷たい目というのはつらいものです。私どもは、一方では、人にどう見られようが自分は気にしないなどと言ってみたりしますけれども、本当はそんなことはあり得ません。来週の礼拝で久しぶりに私の妻が説教をします。その説教の題が「人の目を気にする私たち」。しかし、もし人の目をまったく気にしないという人がいたとしたら、それは、ほかの人と共に生きることを断念したということでしかありません。それが健康な人間の姿だとは誰も思わない。問題は、人の目を気にする仕方が、健康か、不健康か、ということです。
私どもの人生において、最初に出会う人の目というのは、おそらく親のまなざしでしょう。ぼくはお母さんにどう見られようが気にしない、という赤ちゃんがいたらちょっと気持ち悪い。お父さん、お母さんが自分のことを見てくれる。どのように見てくれるのだろうか。そこで幸せな経験をすることができれば、それだけでも人生は明るい方向に傾くかもしれない。けれども、だんだんと、親の目だけではないということに気づきます。友だちは、先生は、自分のことをどう見ているのか。親の目だって、実はずいぶん複雑だということに気づき始めます。自分は親にとっていい子か、悪い子か。親にとって自分は重荷なのか、喜びなのか。そのことが気になりすぎると、病気にまでなります。
私は、人間にとっての本当の幸せというのは、「わたしはあの人に見てもらっていれば幸せだ」と言える人に出会うことだと思っています。他の人が自分のことをどう見ているか、それは分からない。けれども、あの人だけは、自分のことを曇りのないまなざしで見てくれる。あの人だけは、絶対に裏切らない。あの人のまなざしがあるから安心できる。たったひとりでもいい、そういう人に出会うことができれば、それだけで人は生きていけるのだと思います。しかしすべての人がそういう幸せな出会いを知っているわけではありません。ザアカイは、それがつらかったのだと思います。
けれども、そのザアカイの耳に、イエスという名前が聞こえてくる。立派な先生らしい。それなのに、自分のような徴税人の仲間たちと食事をなさるような方らしい。世の人びとが見るような冷たい目でわれわれのことを見ない方らしい。そのイエスという人が、ある時、ザアカイの住むエリコにやって来られるという噂が聞こえてきました。できることなら、ザアカイはこの方に会いたい、話をしたいと思ったかもしれません。けれどもその勇気もないので、遠くからそっと見てみようと思ったけれども、通りに出てみると、群衆に遮られて見ることができません。そこで、走って先回りし、いちじく桑の木に登りました。
皆さんは、いちじく桑の木というのをご覧になったことはあるでしょうか。私はある時、書物の中でその写真を見て、それまでのイメージとずいぶん違ったので驚いたことがあります。とっても大きな木で、高さは一〇メートルから一五メートル。横の方向にも大きく枝を伸ばし、幹の太さは数メートルに及ぶ。そうなると、現代であれば実は木に登る必要もなかったわけで、建物の三階あたりの窓から、そっと外を覗き見るというような感じです。
ところがそこで、驚くべきことが起こる。繰り返しますが、三階の窓から外を覗き見ていただけです。ところが、下から声が聞こえる。「ザアカイ、降りて来なさい」。ザアカイは、木から落っこちるほどびっくりしたと思います。
ある伝説によると、このザアカイは、のちにキリスト者になり、それどころか教会の指導者、牧師にまでなったと伝えられています。本当のところは分かりません。けれども確かなことは、ザアカイが自分の物語を繰り返し語ったということです。なぜ福音書にザアカイという名前が残っているかというと、もちろん、ザアカイ自身が自分の物語を繰り返したからです。
イエスって、どんなやつなんだろう。興味があったから、木の上から眺めてやろうと思ったんだ。そうしたら突然、俺の名前を呼ぶ声が聞こえたんだ。何で見つかったんだろう。どうして名前を知っていたんだろう。突然、「ザアカイ、降りて来なさい」って……。ザアカイ牧師は、その時の主イエスの声色を真似するようにして物語ったかもしれないと思います。
そこで、皆さんにも考えていただきたいことがあります。どのような声色だったのでしょうか。演劇のようなことが得意な人なら、いろんな言い方ができると思います。しかしそれなら、どういう言い方になるのでしょうか。嬉しそうな言い方をしてもよいかもしれませんし、ちょっと叱りつけるような言い方をしてもいいかもしれない。
「ザアカイ、急いで降りて来なさい」。そのこころを、主ご自身が最後のところでこう説明してくださっています。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(一〇節)。「人の子」というのは、ここでは主イエスのことを指します。「わたしイエスは、失われたものを捜して救うために来た」。
「失われたもの」。失うというのは、悲しいことです。日本語の「失われた」という言葉よりも、たとえば英語の「アイ・ミス・ユー」という表現がしっくりくるかもしれません。あの人がいないということが、深い悲しみになる。主イエスはここで、〈神の悲しみ〉を語るのです。
「ザアカイ、ザアカイ」。やっと見つけた! あなたのことを。急いで降りて来なさい。今日、わたしはあなたの家に泊まりたい。なぜかと言うと、あなたが失われているからだ。あなたが神の手から遠く離れていることが、わたしにとって、耐えがたく悲しいのだ。お願いだから、降りておいで。
ザアカイは、木の下から、主イエスの目でじっと見つめられた時、どんな思いをしたかと思います。木の下からじっと自分を見つめている主イエスのまなざしは、どこか、悲しみを含んでいたかもしれません。けれどもまた、喜びにあふれたまなざしであったと私は思う。そのまなざしに、ザアカイは本当に驚いたと思うのです。こんなまなざしで自分のことを見てくれた人が、これまでにひとりでもいただろうか。自分のことをこんなに真剣に悲しみ、こんなに喜んでくれる人が、これまでひとりでもいただろうか。
この出来事をザアカイ牧師から聞いた人びとは皆、今、自分のことを捜し、見つけ出してくださる主イエスの思いを感じ取ったと思います。私が今、皆さんの前に立っているのも、この神の悲しみと、なお深い神の喜びを伝えるためでしかないのです。
ザアカイは、主イエスに呼ばれて、急いで木から降りて、喜んでイエスさまを自分の家に迎えました。それを見た人たちは皆、驚いて言いました。イエスさまともあろうお方が、どうしてあんなやくざ者の家に行くのか。けれども、いちばん驚いていたのはザアカイ自身ではなかったかと思います。あれ、どうして自分は今、こんなに喜んでいるんだろう? ……自分の行動に驚きながら、自分の本当の願いに気づいたのではないでしょうか。そうだ、これが自分のいちばん望んでいたことだったのだ。この方に見つけていただくために、この方に出会うために、自分は生きてきたのだ。
人間は、実は誰でも、自分で気づいていなくても、神に愛されることを待っているのです。主イエスに見出されることを待っているのです。そして、主イエスに思いがけず見つめられた時に、ああ、自分が求めていたのは、このまなざしに出会うことだったのだ、ということに気づくのです。わたしを捜し、誰よりもわたしのことを喜んでくださる主イエスのまなざしです。その主の喜びに触れたとき、ザアカイの心にも深い喜びが生まれました。
この主イエスの喜びが凝縮したような言葉が、この言葉だったのです。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。どうしても、この喜びを実現しなければならない。そしてこれは、主イエスご自身の決意というよりは、主イエスを地上に遣わしてくださった父なる神の決意を表す言葉であると言われます。その神の願いが実現したから、イエスさまはこんなに喜んでいる。ザアカイのことが好きで好きでたまらない、神の喜びが、主イエスのまなざしに溢れています。この神の喜びに触れて、ザアカイもまた喜んで、主イエスを家に迎えました。家に迎えて、一緒に食事もしたでしょう。どういう会話を交わしたのでしょうか。しかし、言葉を交わさなくても、よく分かったと思います。自分は、このお方に愛されているのだ。
私の想像ですが、ザアカイは、立派なお屋敷に住んでいたと思います。その立派な家に主イエスを迎えながら、もしかしたらとても恥ずかしくなったのではないかと思います。思わず申しました。「しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します』」。
一緒に食事をしながら、イエスさまが、「またずいぶんと立派なお屋敷だねえ、この机もずいぶん立派だねえ」などとおっしゃったか、どうか。けれどもこの大きな家も、立派な家具も、誰かからだまし取って得た財産でしかなかったのです。
もちろん皆さんの多くは、人からだまし取ったお金で生活してはいないと思いますが、ここはザアカイに同情してもよいと思っています。なぜザアカイがだまし取ってまで財産にしがみついたかというと、この財産が自分を守ってくれる神だと思ったからです。私どもも、いろんな神にしがみついていると思います。ザアカイは、そこから手を放すことができました。こんなものにしがみついていたら、恥ずかしいということに気づくことができました。このわたしを愛し、とらえてくださる神に出会ったからです。
この神の愛に触れて、ザアカイは、それに答えるように立ち上がりました。「ザアカイは立ち上がって、主に言った」。神の愛のまなざしの前に、立ち上がったのです。ここに人間の本当の幸せがあると、私は信じます。
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