2013年8月25日 主日礼拝

「イエスとは誰か」 川﨑 恵 牧師

マタイによる福音書第16章13節~20節

 
先々週、私達夫婦は夏休みを頂き、山梨のあたりを旅行しました。涼を求めて出かけたのですが、思いがけず山梨は日本の中で一番暑い場所になっていました。全く涼むことができず、それでもあきらめきれない私は、標高が高いところに行けば涼しいんじゃないかと、夫に車を運転させてあちこち回りましたけれども、涼しいところはなく、ガイドブックを見て一所懸命探して、もしかしたらここは……というところに行ってみました。そこは、三分一湧水(さぶいちゆうすい)という湧き水で八ヶ岳の麓にありました。林の中を歩いていくと、岩からこんこんと湧き水が出ていました。今日はとても暑いから、どうせぬるいのだろうと思って足をつけたら、これが氷のように冷たい!冷たい冷たいといいながら、足をつけて暫しの涼を楽しみました。
 今日の聖書では、イエス様と弟子達がフィリポ・カイサリアというところで語り合っていますけれども、このフィリポ・カイサリアという所は、私達が訪れた場所に似た湧水が湧いている緑の豊かなところだったようです。ガリラヤの一番北のほうにあり、ここから水がコンコンと湧きいで、その水はヨルダン川に注いでいたようです。
 イエス様は弟子達と一緒にガリラヤ中をまわって、たくさんの人々に天の国が近づいたことを宣べ伝えて歩き回られました。そして、たくさんの苦しむ人に声をかけ、たくさんの人の病気を癒し、何千人もの人々の前で奇跡をおこされました。イエス様の評判は広まり、どんどん人が集まってきました。けれども、イエス様はそのたくさんの人々から逃れるようにして弟子達だけを伴ってこのガリラヤの北のフィリポ・カイサリアにいらっしゃったのです。そしてその静かな場所で弟子達と向き合い、問い始められたのです。
 「人々は人の子のことを何者だと言っているか」
 人々はわたしのことを理解しているか。そのことを確かめるかのようにイエス様は弟子達に人々の反応をお聞きになりました。
弟子達は自分達の耳に入っている人々の声を一所懸命イエス様に伝えました。
 「イエス様、人々はあなたのことを洗礼者ヨハネだと言っています」。「エリヤだと言っている人もいます」。「エレミヤだという人もいました」。「預言者だと言っている人もあります」。
 洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤは、神様の言葉を人々に伝えた預言者です。この人たちは神様の救いが近いことを人々に一所懸命語り、そして、神様のもとに戻ろう、罪を悔い改めようと人々に呼びかけました。人々はイエス様が来てくださって、その語られる言葉を聞き、イエス様の愛に触れ、そしてイエス様がなさるたくさんの不思議な御業を見聞きして、この方はただものではないと感じました。神に近い方だと。この方はヨハネや、エリヤ、エレミヤと言った預言者の生まれかわりなのではないか。神の救いが近づいているのではないかと感じたのでした。けれども誰もイエス様が本当はどなたなのか、理解してはいなかったのです。
 私はふと、小学生の時のことを思い出しました。小学校の図書室に伝記が並んでいるコーナーがありました。私は本が大好きな子でした。同じように本の大好きな親友と毎日のように図書館に通い、それぞれが好きな本棚の本を端から全部読むという遊びをしていたことがありました。ある時、私は伝記の棚の本を全部制覇することにしました。ナイチンゲール、ヘレン・ケラー、エジソン、王貞治といった伝記がいろいろありました。その並びにキリストもあったのです。
キリストの伝記を借りて、家で読んでみました。読んでみて、イエスという方はとても愛に満ちていて、たくさんの人に声をかけ、助けてくれたことがわかりました。そしてどうやら、十字架というとても怖しい死に方をなさったこともわかりました。私はその本を読んで、他の伝記とは違うという印象を持ちました。イエスという人がとっても良い方でやさしい方だというのは、わかった。でも、どうしてその人がこんなむごくて怖しい死に方をしなければいけなかったのか。しかも、どうして自分から進んで死なれたのかがよくわからなかったのです。十字架で死んだという怖しさだけが私の心に残りました。ナイチンゲールやヘレン・ケラーを読んだときには、あぁ、こういう人になりたいなと思いましたけれども、この本を読んでこういう人になりたいなとは思いませんでした。よくわからなかったのです。
本屋さんに行くと、宗教のコーナーというのがあって、イエス・キリストについて書かれた本がやはり置いてあります。そういった本を手にとり、やはりイエス・キリストのことはよくわからないなあと感じた方がこの中にもおられるかもしれません。
 人々はイエス様のことがよくわかりませんでした。人々の反応を聞いて、イエス様はどんなお顔をなさっていたかと思います。寂しいお顔をされていたでしょうか。それとも、いやこれから人々が私のことを知る日が来ると将来の希望に燃えたお顔をしておられたでしょうか。
イエス様の質問はこれで終わりではありませんでした。
今度は弟子達に向かって、こう問われました。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。
人の反応ではなく、あなたはわたしを誰だと言うのか。
 弟子の一人、シモンが答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」。
人々にはわからなかったけれど、シモンにはわかったのです。今、自分の目の前におられて、語りかけてくださっているこの方、毎日毎日お従いしてきて、一緒に歩いてきたこの方は、神様が遣わされた神の子。この方において神様が生きて働いておられる。この方は預言者どころじゃない。私達に救いをもたらしてくださる、神の国をもたらしてくださる救い主、その方だ。
「あなたはメシア。私の救い主、生きておられる神の子です」。
その答えは正解でした。この方は、神様が遣わされた神の子。この方をとおして神様が私達を救ってくださることが、シモンに明らかにされたのです。
イエス様は心から喜んでくださいました。
「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。
 人間の力ではこのことを知ることはできない。どんなに勉強しても、どんなに本を読んでも、一所懸命に何かを身につけても絶対に知ることはできない。神様があなたに恵みを与えられたのだ。天からのプレゼントとして、父なる神があなたに信仰を与えてくださった。あなたは神に捕らえられたのだ。おめでとう、シモン。そうイエス様は祝福してくださいました。
そして、シモンに新しい名前をくださいました。「あなたはペトロ」。ペトロとは、岩という意味です。そして「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」とおっしゃり、ペトロの上に教会を建てると約束してくださいました。
 ここでイエス様が「教会」とおっしゃっている言葉は、日本語で「教会」と言っている言葉とちょっと違うのです。「教会」というと私達はこの礼拝堂のような建物をイメージしたり、あるいはいいお話をきくことができる場所を想像します。
けれども、新約聖書はもともとギリシア語で書かれていますが、ギリシア語の聖書をみてみると、ここでイエス様は「エクレシア」「神様に呼ばれた人の集まり」という意味の言葉を使っているのです。教会は神様に呼ばれた人、神様に招かれた人の集まり。そのような教会をペトロ、あなたという岩の上に建てるとイエス様はおっしゃったのです。
 わたしも神に招かれた者、呼ばれた者の一人です。
小学生の頃、キリストの伝記を読んでも、イエス様のことがよくわからなかった私ですが、その後、キリスト教主義の中学・高校に入り、学校から薦められて教会に通うようになりました。けれども、教会に通ってもイエス様のことはよくわかりませんでした。
その後、教会に行かなくなり、大学を出て、社会人になって、もう一度近所の教会の礼拝に出席し始めたときに、ペトロと同じ不思議なことが私にも起きたのです。
その頃、私はいろいろな事情が重なって、仕事を失い、生きる力を失っていました。それに加えて、励まし合いながら共に生きていた大学時代の友人が二人続けて死を選び、大きなショックを受けた私は何もできなくなりました。食べることも寝ることもできず、ただただ泣いていました。私は教会に行きたいと思いました。子どもの時に通っていた教会に、もう一度行ってみました。その礼拝で、私は神に出会いました。不思議なことに牧師の語る全ての言葉が、自分に語りかけておられる神の言葉として聞こえてきたのです。神が全てをみておられるのを感じました。そして、絶望している私に語りかけておられるのを感じました。
私は次の週も、そのまた次の週も、礼拝に出席しました。どの説教も、神が私に語りかけておられる言葉として聞こえてきました。
私は知りました。イエス様が十字架にかかったのは、友を捨てた自分の罪のためであることを。神から離れ、たくさんの罪を犯してきた自分のためにこの方が来てくださったことを。
さらに私はイエス・キリストが死からよみがえられたことを知りました。死の力に、神の愛が勝利してくださった。友人も私達も死から救われている。私達にもよみがえりが約束されている。私達を神は死から救ってくださっている。私のことも、私が愛している者たちも、全ての人間を神がすでに救ってくださっていることを知ったのです。
いつしか、私の心に主イエス・キリストを信じる心が与えられていました。小学生の時、図書館の本を読んだ時にはわからなかったけれども、イエス様はこの私を救うためにいらしてくださったのです。
しばらくして、私は洗礼を受けました。ペトロと共に、私も「あなたこそ、生ける神の子、救い主です」。そうイエス様に申し上げて。
現代の日本に生きる私達にとっては、神様も、救い主も遠い存在だと思います。神様という方がおられて、神様が私達を造ってくださったことから話をしなければ話は伝わらないと思います。私はそのことでさえ、聞いたことがありませんでした。小さいときから教会に来ていた人たちは聞いていたかもしれませんが、私は知りませんでした。神様がいらっしゃるなんて、神様に私達が造られたなんて、そして、神様が私達を愛してくださっているなんて、聞いたこともありませんでした。
けれども、神様という方がいらっしゃるのです。この世界を造ってくださった方が。皆さん一人一人の命を大切に産んでくださった方が。私達が産まれてきたのは、あの日父と母からです。けれどもそれは、神様のご計画だったのです。あなたが生まれてくることを、神様はずっと待っておられて、楽しみにしておられて、心から愛を注いであなたを産んでくださいました。
けれども人間は神様の愛から離れて生きるようになった。そのことも私は聞いたことがありませんでした。歴史の教科書を開いたって書いてありません。でも、聖書には書いてある。この聖書は、神様の言葉。ここに神様の言葉が語られている。神様はおっしゃいます。わたしがあなたを造った。あなたは神を愛し、人を愛し、世界を愛し、自分を愛して生きる人間として生まれてきた。けれども、わたしが造ったにもかかわらず、あなたがたはわたしに背を向けて歩き出したのだ。そして、神を憎み、人を憎み、自分を傷つけて歩む者になったのだ。人を傷つけ、たくさんの罪を犯し、そして、死に捕えられる者となった。
私達はそのことに気がつかずに一所懸命に生きてきました。
けれども、神様は神様に背をむけている私達のことを悲しく思っておられたのです。そして、わたしのもとに帰って来てほしいとずっと願っていてくださったのです。
 神様は、神様から離れた人間のことを後悔されました。後悔するだけではなくて、激しくお怒りになりました。私達の罪のために滅ぼすことさえ考えられました。でも、それでも、と神様は思われたのです。それでもわたしはあなたを愛することをやめることができなかった。わたしはあなたがたを愛している。あなたが大事なのだと。
 そこで神様は神の独り子を私達のもとに遣わされたのです。今から2000年前、今のイスラエルのナザレという村のヨセフとマリアという夫婦の子として、私達と同じ人間、同じように体を持ち、血が流れて、感情があり、転べば怪我をし、病気にもなる。そういう限りのある存在として、私達と同じ人の子として、神の子が遣わされたのです。
 そして、今、その方が静かなフィリポ・カイサリアで弟子達と向き合っておられる。そして、御自分は神の子、救い主であることを明らかにしてくださいました。そして続けて21節以下で弟子達に御自分は必ず十字架につけられて殺され、三日目によみがえることになっている。そう神様が計画されていることを打ち明けられました。
イエス様はおっしゃいました。わたしはこれから必ずエルサレムに行き、十字架につけて殺される。なぜか。それは、あなたがたの罪が赦されるため。あなたがたが犯してしまった罪、一緒に生きている人々に犯してきてしまっている罪、そして、今日犯すかもしれない、明日犯すかもしれない罪、それらを全部神は赦すために、神の独り子である私をここに遣わされ、あなたがたの代わりに神の罰を与え、殺される。そのためにわたしはエルサレムに行くのだとおっしゃったのです。
さらにイエス様は弟子達に教えてくださいました。
わたしはそのように死ぬけれども、三日後に必ずよみがえる。神様があなたがたを苦しめている罪と死の力に勝利されて、私は必ずよみがえり、あなたがたの前に現れる。そして、あなたがたは神のもとに帰るのだ。その救いの日が来るのだ。そのために、私はエルサレムに行く。
そしてそのみ言葉どおり、主イエス・キリストは十字架につけられて殺され、三日後に死からよみがえられた。
目にはみえないけれども、主イエス・キリストは今生きておられます。そして、みなさんのそばにおられます。そして、主は一人ずつこの教会へと私達を招き、この救いを授けてくださっているのです。
イエス様はおっしゃいました。
「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。
ここに洗礼を受けたたくさんのキリスト者が集まっています。この神に呼ばれた者の集まり、エクレシアは岩のように頑丈だ。陰府の力も対抗することはできない。どんな力もこの教会を脅かすことはできない。
この私達に主イエス・キリストは天の国の鍵を授けるとおっしゃってくださいました。あなたがたが地上でつなぐことは、天でもつながれるとおっしゃってくださいました。
よみがえられた主イエス・キリストは目にはみえないけれども、私達と共にいてくださり、救いのみわざをなしておられます。私達の口を通して、救いのみ言葉を語り、その言葉を信じる心を与えてくださる。そして、主イエス・キリストはわたしの救い主、生ける神の子ですと告白した者を一人ずつ、神は救ってくださっているのです。
ここに不思議な形をしたものがあります。これは洗礼盤です。このふたを開けると、中にお水を入れるうつわがあります。
神様は私達を一人一人、この静かな礼拝堂に招いてくださいました。
そして、弟子達にお問いになったように、御自分のことを明かされ、「あなたはわたしを何者だというのか」とお問いになります。
「あなたはメシア、生ける神の子です」。そう告白する者に主は牧師を通して、洗礼を授けてくださいます。この洗礼盤の前にぬかずき、牧師が手に水をつけ、ぬかずく人の頭の上に置き、父、子、聖霊のみ名によって洗礼を授ける。その時、天の鍵が開き、その人の罪が赦され、神の命が注がれて、清らかな神の子に生まれ変わる。
そうして、この教会は人々が天に帰る入口になっているのです。
ここに私達は一人ずつ一人ずつ招かれて、天に帰るのです。
 私達は今日、それぞれの場所から、この静かな礼拝堂に集まってきました。家族と過ごす時間を止めて、仕事の手を休めて、ここに集まってきました。ここには今日、初めて教会というところにいらした方がいらっしゃると思います。友達に誘われてきたからとか、親に連れられてきたからとか、あるいは、学校から言われてレポートを書くために来たという方もいらっしゃると思います。けれども、ここにあなたを連れてきたのは神様です。神様があなたをここに連れてきてくださいました。そして、あなたに語りかけておられる。
わたしはあなたを造った神。わたしはあなたを愛している。わたしはあなたを連れ帰るために、神の子を遣わした。あなたはもう赦され、救われている。わたしのところに帰って来て欲しい。私の愛を受け取って欲しい。わたしはあなたのそばにいる。そう語りかけておられる。
 そして、今、イエス様はあなたにも問われます。「あなたはわたしを何者だと言うのか」。主はあなたの答えを待っておられます。
「あなたはわたしの救い主、生ける神の子です」とあなたが答えてくださるのを。
 教会の皆様に申し上げます。私達はこのようにして一人一人救われて、尊い務めに招かれました。わたしたちを天につなぐ、天の鍵が授けられています。この尊い務めに一緒に仕えていきたいと思います。
この先のマタイによる福音書第18章18節以下では、イエス様はこのようにおっしゃっています。
「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。
 私達の中にイエス様がいてくださいます。そして、私達が共に祈る祈りを天の父なる神様がかなえてくださるとイエス様がおっしゃってくださいました。この鎌倉に、この地域に、この日本に、私達の家族の中に、友人の中に、そして、この会堂の中に神様が求めていらっしゃる方がいらっしゃいます。それらの方々が天に帰ることができるように、共に祈りましょう。そして、この尊い務めに私達のすべてをお献げしましょう。私達には新しい人生が与えられた。私達は天の鍵を授けられた者。天の扉を開く者です。感謝して祈りを捧げたいと思います。
祈 祷
主イエス・キリストの父なる御神様。ただ今のみ言葉を心から感謝いたします。あなたの方から私達を憐れみ、天から道を開いてくださったこと、大きな愛の犠牲を持って、私達があなたのもとに帰る道を開いてくださったことを感謝いたします。この日本にも、この鎌倉の地にも、あなたが既にその道を開いてくださっていることを感謝します。どうか主よ、あなたが愛し求めていらっしゃる方が、あなたのもとに帰ってくることができますように。そして、どうぞ、先にあなたに救われ、あなたの者とされたこの私達を通して、あなたがみ業をなしてくださいますように。私達のすべての人生を、私達の存在のすべてをあなたにお献げします。み心のままにお用いください。このお祈りを尊き主イエス・キリストのみ名をとおして、お捧げします。アーメン。
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