2014年3月2日 主日礼拝

 「確信をもって救いを待て」 川﨑 公平 牧師

ルカによる福音書第17章22-37節

 
今月3月21日、金曜日の祝日に、横浜指路教会を会場にして神奈川連合長老会の信徒修養会という集会をいたします。ハイデルベルク信仰問答を読むという主旨の集まりで、先週までで申し込みの受付を締め切り、既にその申込みを取りまとめて担当の先生に送りましたけれども、どうも出席者が少な過ぎると思いまして、今日まで申し込みを受け付けることにいたしました。そのように呼びかけて何人ぐらい増えてくれるかなと思っておりますけれども……。
この信徒修養会のひとつの特色は、午前中に講演を聴いたあと、午後には10のグループに分かれて懇談をします。それぞれの分団ごとに、それぞれひとつの信仰問答の言葉について、集中して語り合います。参加の申し込みを受け付けるときにも、どの分団に加わりたいか、つまり、どのような主題を扱う信仰問答の言葉について語り合いたいかということを、第三希望まで申し出ていただきました。既に先週、申し込みを取りまとめたわけですが、興味深かったことは、その申し込みの希望に、傾向というか、偏りがあることに気づきました。あくまで第三希望まで書いていただいてのことですが、半数近くの方が希望なさったのが、「神の摂理について何を信じるか」ということです。神の摂理をわれわれは信じる。摂理というのは言い換えれば神の善い御心ということです。この世界は神の善い御心によって支配され、導かれているのだ。しかしそうなると、なぜこの世の中でこんな悪いことが起こるのか、どうしてこんな悲しいことが起こるのか、という問いにも結び付く。それがひとつです。もうひとつ半数近くの方が希望なさった分団が、「なぜわたしたちは善い行いをしなければならないのですか」。このことについても、長い話をするわけにはいきませんが、とにかく私どもの日々の生活と深く関わることは確かです。
しかしその中でも、いちばん多くの方が希望なさった分団の主題は、信仰問答の問いの言葉をそのまま読みますと、「キリストの再臨は、あなたをどのように慰めるのですか」。キリストの再臨。キリストがこの地上に、再び来られるということであります。なぜこういう主題が、多くの人の関心を集めたか。この分団を希望なさった方たちに、その理由を尋ねてみるのも楽しいかもしれません。
今日はルカによる福音書第17章の22節以下を読みました。もしかしたら、ちょっと分かりにくいという印象をお持ちになったかもしれない。しかしここで主イエスが語っておられることは、ひとつは単純なことで、「わたしはもう一度来る」ということであります。主イエスは、もう一度この地上に来られる。それがいつかは分からない。けれども、この世界は、このまま永遠に続くものではなくて、最後には主イエスが来てくださり、終わりをもたらしてくださる。すべてに決着をつけてくださると信じる。これを「キリストの再臨」と呼ぶのです。そのことを、このルカによる福音書第17章でも主ご自身が約束してくださっている。そのような主題について、多くの方が改めて学び直したいと思われたということは、何を意味するのでしょうか。どのような関心があるのでしょうか。
このハイデルベルク信仰問答という信仰の文章は、キリストの再臨について尋ねながら、こう言うのです。もう一度、その問いの文章だけを読みます。「キリストの再臨は、あなたをどのように慰めるのですか」。キリストが再び来られるという信仰が、今、わたしの慰めになっている。少し念を押すようなことを申しますと、この信仰問答のドイツ語の原文を確かめてみても、「あなたをどのように慰めるのですか」という言葉は、はっきりと動詞の現在形が用いられています。キリストが再び来られるのは、もちろん将来のこと。しかしその将来の約束を信じている人間は、今現在、慰めを得ているのです。けれどももしかすると、その慰めがどうも分かりにくいということが、修養会の申し込みの数字に表れてきたのかもしれません。いったい私どもは、どのような慰めを得ているのでしょうか。
今日はこの説教のあとに聖餐を祝います。主イエスが定めてくださった食卓です。その聖餐のあとに、しばしば私どもが喜んで歌うのは、マラナ・タという讃美歌です。この「マラナ・タ」という言葉については、もう説教の中で何度もその意味を説明しました。アラム語という言葉で、「主よ、来てください」という意味です。これも明確に、主イエスの再臨を待つ祈りです。コリントの信徒への手紙Ⅰの最後のところにこの言葉が出てきますし、新約聖書の最後の言葉も、マラナ・タという言葉は出てきませんが、「アーメン、主イエスよ、来てください」という祈りです。教会がその歴史の最初から、繰り返してきた祈りです。「主よ、来てください」。
もちろん、主イエスは、霊においては今私どもと共におられます。けれどもここでは、主よ、私どもと共にいてくださってありがとうございますと言うのではない。まだおいでになっていないのです。だから、「主よ、早く来てください」と歌うのです。しかも、そのように歌いながら、私どもは既に慰められているのです。マラナ・タという讃美歌は、これはもう皆さんの実感となっていることではないかとも思いますけれども、私どものこころを深く慰める讃美歌になっています。
しかし、どのような慰めを得ているのでしょうか。分かりにくい面があることも事実だと思います。なぜかと言うと、私どもの日常生活の中で、キリストの再臨の気配を感じ取ることはないからです。そして、私どもがどこかでいつの間にか思い込んでいることは、再臨が起こる前に、何十年かすれば自分は死ぬ。それでよいではないか、ということです。もちろん、特に教会に長く来ておられるような方は、知識としてはよく教えられているに違いない。けれども、それが私どもの生活の意識の中心にはなかなかならないというのが、多くの人の実感ではないでしょうか。
多くの人が指摘することは、この第17章の再臨についての教えは、さらに第18章にも続いていくということです。第18章の最初には、やもめと不正な裁判官の譬えと呼ばれる主の譬え話があります。驚くべきことに、そこでは神が、不正な裁判官に譬えられています。その裁判官にひとりのやもめが、自分のために裁判をしてくれるようにうるさく頼む。そうするとその裁判官が、たとえ不正な人間であっても、「あのやもめは、うるさくてかなわないから」という理由で、その願いを聞き入れざるを得なくなる。「さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」とまで言わせるのです。まるで、神がそうおっしゃるだろうと言っておられるかのようです。そのような不思議な譬え話をなさって、第18章1節にあるように、「気を落とさずに絶えず祈れ」と言われたのです。ここまで熱心な祈りが、私どもの生活のなかにあるだろうかと反省させられるような言葉です。
特に、この譬えの結びの言葉は忘れることのできないものであります。第18章8節。「言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき(つまり、わたしイエスが再び来る時)、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」。地上に〈祈り〉を見いだすだろうか、と言い換えてもよいと思います。このやもめのように、神を悩ますほどのうるさい祈りをせよとまで言われながら、しかし主が心配なさったことはむしろ、聞こえてくるべき祈りが聞こえてこないではないか。そのことを悲しんでおられるとも読むべき言葉です。
神の摂理について問う、その分団にも多くの希望者が集まったと申しました。神の摂理を信じる。神よ、この世界は、あなたの御心によって支配されているはずではないですか。それなら、どうしてこんなに悪いことが起こるのですか。神よ、なぜこんなに悲しいことが起こるのを、あなたは許しておられるのですか。神の胸を打ち叩くような祈りがそこに生まれてくるかもしれない。けれども、その祈りのこころが、それこそ「気を落とさずに絶えず祈る」、そういう祈りになるためにどうしても必要なことは、再臨の信仰でしかないのです。この地上の出来事のすべてに決着をつけてくださるのは、再び来られるキリスト。神よ、いつまでですか。神よ、御心を行ってくださいと祈りながら、その祈りとひとつになるのは、まさしく、「マラナ・タ」、主よ、来てくださいという祈りでしかないのです。しかし、問題は、「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」。祈りを聞き取ることができるだろうか。主がそのように問うておられるのです。
これをもっと端的に言えば、いったい、私どもは何をあてにして生きているのか、ということです。誰をあてにしているのかということです。主イエスが問われることは、そのことです。あなたは、誰を待っているのか。誰に何を期待しているのか。確信をもってわたしを待つがよい。わたしは必ず来る。けれども、わたしが来るとき、わたしを待つ人を見つけることができるだろうか。そう言われたのであります。
そこで改めて、第17章22節から読んでみます。
 
それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう」。
 
人の子というのは、考えてみれば不思議な言葉ですが、ここでは主イエス・キリストのこと、特に私どもが待ち望むべき救い主としてのキリストのことです。けれども、そのお姿を見たいとどんなに願っても、それがかなわない時が来る。今がそうだと言われるのではありません。今は、弟子たちの目の前に主イエスが見える姿で立っておられる。けれども人の子の日を一日でも見たいと、その人の子の支配が行われる日をきちんとこの目で見たいと思うけれども、見ることができない。そういう日が来る。考えてみれば当然のことですが、今は、私どもは、そういう時を生きているのです。主イエスを見ることはできない。そこに心細さが生まれます。
先月、たいへんな大雪の日でありましたけれども、ふたりの方の洗礼入会式を行いました。ひとりの方には、教会から贈る聖書に、ペトロの手紙Ⅰ第1章8節の言葉を書いて贈りました。
 
あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。
 
この手紙を書いたペトロはしかし、主イエスを見たことがあるのです。そのようなペトロが、教会の仲間たちに語りかける。あなたがたは、キリストを見たことがないのに、このお方を愛しているね。このお方を、今見ていないのに信じているね。先月、洗礼を受けたばかりの方に聖書を手渡し、このような聖書の言葉を朗読して、「あなたのことですよ」と思わず言い添えました。子どもの頃からイエスさまが好きだったと、長老会の試問の時にもおっしゃった方です。「あなたは、キリストを見たことがないのに愛し」という言葉はよく分かるだろうと思ったのです。すばらしい祝福の言葉です。けれども、そのような言葉を語らざるを得なかったペトロのこころには、また同時に、心細い思いとの戦いもあったのではないかと思います。主よ、いつまで待たなければなりませんか。早くあなたにお目にかかりたいのです。マラナ・タという祈りもまた、そのような教会の祈りの戦いの中で生まれたのです。そこにまた、誘惑も生まれる。23節には、こういう言葉があります。
 
「『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない」。
 
残念ながら教会の歴史のなかで、実際にこの通りのことが起こりました。ここに救いがあるとか、こんなことが起こったから世の終わりは近いとか、われこそはキリストであるとか、さまざまなことを言う人が現れるだろうが、誘われてはならない。なぜかと言うと、24節。
「稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである」。
 
思いがけない時にわたしは来る。けれども、いつ来たか分からない、気づかなかったなどということはあり得ないのだから、安心して、確信をもって、その日を待てばよい。
ただし、主イエスが不在だということは、単に、肉眼で見えないということだけを意味するのではありません。25節。
 
「しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている」。
 
まず、必ず、起こらなければならないことがある。人の子であるわたしが、人びとに捨てられなければならないのだ。この世界は、わたしを捨てるような世界なのだと言われたのです。
そして、そのことを説明するようにして、26節以下では、ノアとロトという、旧約聖書に出てくるふたりの人物を思い起こさせておられます。まずノアというのは、あの「ノアの洪水」のノアです。神の警告を受けて、大きな箱舟をノアが作り始めた。その時のことを、27節でこう言います。
 
「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった」。
少なくともここでは、旧約聖書の記述に反して、と言ってもいいかもしれませんけれども、ノアの時代の人たちが、どんなに罪深かったかということについては一切触れない。ただこの人たちは、「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」、当たり前の生活をしていただけ。その生活がすべてだと思い込んだのです。神の裁きなんか来ない、洪水なんか来ない。われわれが作る日常の生活の幸せだけで十分だと言って、神の言葉を捨てた。そのような人びとによって、わたしも捨てられるのだ。そして、28節以下。
ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。
 
ソドムというのは、その悪徳が甚だしかったために、神によって焼き滅ぼされた町の名前です。しかしここでも主イエスは、ソドムの人たちがどんなにひどい悪徳に生きていたか、ということには一切触れない。「食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたり」、ごくふつうの生活をしていただけ。けれども、そのようなごくふつうの生活をしているところで、「神の裁きが来る」と言われた時に、そんな神さまは、自分たちにとって邪魔でしかなかったのです。そんな神さまは無視した。そのような人びとによって、わたしイエスも排斥され、捨てられるのだ。そう言われた主の御心の深いところには、まことに深い悲しみがあったと思います。
 
人の子が現れる日にも、同じことが起こる。その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである(30~33節)。
ロトの妻のことを思え、と言われます。ソドムの町が滅ぼされた時、けれどもロトとその一家は、神の憐れみを受けて、近くの町に逃げることができました。その時に、神は「後ろを振り返るな」と言われたのです。けれども、ロトの妻は、やはり気になったのでしょう。後ろを振り返れば自分の住み慣れた町があるのです。あそこにはわたしの家がある、わたしの持ち物がある、遂に最後まで神の警告に耳を貸さなかったわたしの家族さえそこにいる。自分の生活そのものがその町にあったのです。思わず後ろを振り返った時に、しかし、このロトの妻は塩の柱になったと言います。強烈な物語であります。
「ロトの妻のことを思え」。その人が、何を大切にしているか。何によって生きているのか、何を支えとしているのか。……その人が、何を〈慰め〉としているのか。それが明らかになってしまったのが、ロトの妻の出来事であり、終わりの日の裁きにおいても同じことが起こるというのです。「その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとするな」と言われます。火事だ! という時に、自分がはっと、ああ、家の中にあれがある、これがあると、ほとんど無意識のうちに思い起こすものが、いったい何であるのか。同じように、キリストが来られる時にも、私どもが何を大事にしていたのか、とっさに思い起こす大事なものは一体何か、それが全部明るみに出てしまう。それが裁きというものだと言われるのです。
31節後半の、「同じように、畑にいる者も帰ってはならない」という言葉は、それこそ「畑にいる者は、後ろを振り返ってはならない」と訳した方がよかったのではないかと思います。特に、原文のギリシア語を読んでいて、はっとしたことがあります。もっと直訳風に訳すと、「後ろのものにむかって振り向くな」と言うのです。後ろに、何らかの〈もの〉があるのです。振り向くと、後ろにあれがある、これがある。後ろを振り向くと、自分を慰める〈もの〉がある。だから、振り向きたくなる。けれどもそこで後ろを振り向くな。まっすぐ前を向きなさい。
そのための日曜日の礼拝であります。そのための、この聖餐の食卓であります。いつも後ろを振り返ってばかりいる私どもの姿勢が、しかしこの食卓において正されます。「マラナ・タ、マラナ・タ、主よ、来てください」と教会の仲間たちと共に歌うたびに、むしろこの歌によって、私どもは、本当は自分が何に慰められているのか、そのことに気づきます。本当はどこを向くべきか。そのことに気づかされます。私どもは、このお方を待っているのだ、ということであります。
しかもそこでなお気づくことがある。そのような私どもの祈りを、そのような歌を、むしろ神が待っていてくださるということであります。「気を落とさずに絶えず祈れ」と言われた主は、また、「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」と言われました。しかし今は、はっきりお答えできるようになっているはずであります。神よ、ここにわたしがいます。わたしはあなたを待っています。そのために祈り続けています。そのような思いを新しくされる、この聖餐の食卓であります。
私が次に、再来週の日曜日に説教する時には、今日少し詳しく触れ過ぎてしまったかもしれない第18章の1節以下を読みます。少なくとも私にとっては、その日の礼拝は少しいつもと違った意味を持っておりまして、その前日から中学生、高校生たちと共にスプリングキャンプというのをいたします。土曜日に私が講演をし、このルカによる福音書第18章1節以下を中高生たちと共に読みます。そして翌日曜日、その高校生たちをもここに迎えて一緒に礼拝をし、改めてこの箇所を私が説教するのです。中学生、高校生たちが、神が不正な裁判官に譬えられているような、この不思議な譬え話をどのように読んでくれるかなということは、今から楽しみであるような、ちょっと心配しなくもないような気がしておりますが……。
ところで、この中高生スプリングキャンプのもともとの計画では、別の聖書の言葉を取り上げる予定でした。私の都合で変更するのもおかしいので、ふたつの聖書の言葉を両方取り上げることにしました。そのもうひとつというのは、テサロニケの信徒への手紙Ⅰ第5章16節以下です。
 
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
多くの人が愛読してきた聖書の言葉のひとつです。しかし、なぜ愛されるのだろうかと思います。「いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しなさい」。以前、これを愛誦聖句としておられる高齢の方を訪ねて、聖餐礼拝をしたことがありました。こういうことを言うのも何ですが、決して順風満帆の人生ではなかった。いつも喜び、感謝していられるような人生ではなかっただろうなと、どうしてもそう思えてならない。その方の顔を見ながら、私は率直に申しました。どうしてこの言葉があなたの愛誦聖句になったのですか。いつも喜び、感謝できるようなことばかりではなかったのではないですか。けれども、その方の顔を見ながら、私はしみじみと思いました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と、そのように語りかけてくださる神は、生きておられる、ということです。
つい後ろを振り返りたくなることも、いくらでもあるかもしれない。けれども神の語りかけが聞こえます。後ろを振り返るな。ただ、わたしを求めなさい。考えてみれば、当たり前のことですが、祈りも感謝も、ひとりではできません。必ず、祈りには相手がいます。感謝にも、感謝すべき相手がいます。もちろん、神が生きておられるのです。その神が、「いつも喜んでいなさい」と、言ってみれば責任をもって、そう語りかけてくださるのです。こんなところでどうして喜べるかというときに、ただ厳しい戒めのように、「喜べ、喜べ」と無責任に命令するような神ではないのです。このひとりの方にも、神は、責任をもって、「喜びなさい」と語りかけてくださる。「そういう神さまに、出会うことができたのですね。よかったですね」。そういう説教をしたことを、今でもよく覚えています。
ルカ福音書第18章の最初に、主が祈りについて教えておられることも同じです。「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」。そうだ、わたしは必ず来る。確信をもってわたしを待つがよい。確信をもって、祈り続けるがよい。わたしは必ず来る、あなたのために、と言われるのです。
それこそここに出てくるやもめのように、ひっきりなしに、神の胸ぐらをつかむような祈りをしたくなることがあるかもしれない。神よ、いつまでですか。そのような祈りをしながら、けれどもそこで気づくのは、その祈りを誰よりも真剣に待ち続けていてくださる神が、生きておられるということです。そのことが既に、私どもにとって、何にも代えがたい慰めなのです。
今、後ろを振り返ることなく、ただひたすらに神の救いを待ちつつ、その教会の姿勢を明確にする主の食卓を共に囲みたいと願います。お祈りをいたします。
私どもが、何を待ち続けていたのか。誰を待っているのか。今改めて、真実の慰めに気づかされます。あなたは生きておられます。そのことを心から感謝しつつ、気を落とさずに、後ろを振り向くこともなく祈りたいと願います。主よ、どうぞ来てください。あなたの支配を確かなものとしてください。あなたの支配が見えなくなるような悲しみがあるからです。苦しみがあるからです。私どもの罪がその悲しみを大きくしてしまっているからです。どうぞそこで悔い改めて、もう一度あなたの名を呼び始めることができますように。主よ、どうぞ来てください。私どもは、ただあなたを待ち続ける群れであります。主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン
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