4月20日 復活主日礼拝

「振り返ると、そこに」 川﨑 公平 牧師

ヨハネによる福音書20章11-18節

 
主イエスは、死者の中からお甦りになりました。そのことを記念して、復活日の祝いの礼拝をしております。その時に私どもの教会が毎年大切にしていることは、親しいご家族を亡くされた悲しみの中にある方のことを覚えて、祈りを合わせることです。この一年のことに限らないと思います。二年前、三年前、それどころか一〇年、二〇年前の悲しみのことを、今なお忘れることができないままに、ここに集まっておいでの方もあると思います。どうか今、お甦りになった方が、皆さまおひとりおひとりに新しく出会ってくださり、すべての悲しみを慰め、癒してくださいますように。
マグダラのマリアという女性が、主の墓の前で、お甦りの主に出会う場面を読みました。マリアは、墓の前で泣き続けていました。主イエスを愛していたから、泣いていたのです。けれどもその涙は、絶望の涙でしかありませんでした。泣き続けながら、身を屈めるようにして墓の中を覗き込むと、その墓の中から天使の声が聞こえました。「婦人よ、なぜ泣いているのか」。後ろからも、主イエスが声をかけてくださいました。天使と同じ言葉でした。「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。私も、神に遣わされた伝道者、言わばひとりの天使として、皆さんに同じ言葉を語りたい。あなたが泣いている理由は何ですか。もう泣く理由はなくなってしまったではないですか。なぜか。後ろを振り向くと、そこに、イエスが立っておられるからであります。
このマグダラのマリアと主イエスの出会いは、教会の歴史の中で多くの人に愛されてまいりました。画家たちもまた、この場面を競うように描きました。一五世紀イタリアで描かれたという素朴な写本を見つけました。マグダラのマリアが、四つん這いになって墓穴の中を覗き込んでいます。墓の中は真っ暗です。地の底まで続いているかのようです。その墓穴を四つん這いになってじっと見つめているマリア自身もまた、墓穴の中に吸い込まれていきそうな気がします。
おもしろいのは、福音書の書き方からすると天使は墓穴の中にいるはずですが、その写本では、墓穴の上に天使が座っているのです。墓石の上に座り込むような感じです。マリアは、その自分の頭上にいる天使をほとんど無視するように、這いつくばって墓穴の中を見つめています。
私どもも、どこかでこのマリアの思いを知っています。「あの人はどこへ行ってしまったのだろう、わたしひとりを残して……」。悲しみの中で、何よりも愛する者を喪うという悲しみの中で、誰が何を言っても聞こえません。自分の悲しみだけがすべてです。そのように私どももまた、真っ暗な墓穴の中に、存在ごと吸い込まれていくような経験をするのです。
けれどもそこで私どもが心を打たれるのは、そのマリアの背後から、主イエスが近づいてくださる。その事実に揺らぐことはないのです。マリアが後ろを振り向くと、そこに、事実、主イエスが立っておられたのです。
そのお方の言葉を、今私どもも聴きます。「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。私どもが気づかなくても、振り向けば、必ずそこに主のお姿を見出すことができるのです。
「後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた」(一四節)。ここに私どもの礼拝が成り立つ根源的な根拠があります。私どもが日曜日を「主の日」と呼び、その朝に礼拝するのは、この日の朝に主がお甦りになったからです。教会が、その歴史の最初から大切にしたことがあります。それは東を向いて礼拝するということです。朝日が昇るのを仰ぎながら、もちろん太陽を拝むことはいたしませんが、昇る太陽のように主がお甦りになったことを思い起こしたのです。
そこで大切なことがあります。私どもは、自分で選んで東を向くのではありません。主イエスが東から声をかけてくださるのです。私どもは、その声を聞いて、死の方向からいのちの方向へ、振り返らせていただくのです。その意味でも、このマグダラのマリアは、私どもの教会の礼拝の先頭に立つ者とさせていただいたのです。
先ほどの写本ですが、おもしろいことに、二枚の絵で一組になっています。一枚目は、マリアが身を屈めて墓の中を見つめている。これに二枚目が続く。振り向いたマリアが白い衣を着た主イエスに向かって、両手を伸ばしています。けれども、このマリアの背後には、依然として真っ暗な墓穴があります。その墓穴の暗さもまた、印象深いものがありました。私どもも、いくたびこの墓穴の暗さに目を奪われることかと思ったのです。すぐに恐れに負けてしまいます。目の前は真っ暗だと思い込んでしまいます。しかし、東からいのちの声を聞かせてくださるのは、いつも主イエスです。振り向くと、そこに主イエスがおられる。言うまでもなく、私は今、私どもの話をしているのです。その先頭に立っているのが、このマグダラのマリアです。
マグダラのマリアという人は、後に教会に生き続けた人であると私は思います。教会の歴史の中で、多くの伝説が生まれました。それだけ多くの人に愛されたということを意味すると思います。ルカによる福音書第八章の最初のところには、「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」という描写さえ出てきます。いったい何が起こったのでしょうか。推測することもできませんが、このことだけでも、多くの人たちにとって忘れがたい人になったと思います。
しかし、このマリアは、何と言っても甦りの主に最初に出会った女性として、多くの人に覚えられたと思います。皆さんも興味があったら改めて調べてみるとよいと思いますが、主イエスの墓の前で、お甦りの主にお会いしたのは、このマグダラのマリアをおいてほかにおりません。あの墓の前で、何が起こったか。その時のことを、マリアは、後に教会の交わりの中で、何度でも喜んで、死を迎えるまで語り続けたと思う。墓の中を覗き込んでいたらね、ふたりの天使が見えたから、わたしは泣きながら訴えたんですよ。あの人の体はどこですか、返してくださいって。そうしたら、後ろにも人が立っていて、管理人のおじさんかと思ったら、その人が突然わたしの名前を呼んだんです。「マリア」。名前を呼ばれてやっと気づいた。どうして気づかなかったのかしら。「マリア」というイエスさまの声を聴いて、初めて分かった。そこでわたしも答えて言いました。「ラボニ!」
ここで「ラボニ」という、「先生」を意味する外国語が残されていることにも、多くの人が関心を寄せました。マリアがこの言葉を口にしたとき、どんなに深い感動がそこにあったことだろうか。その感動をそのままに伝えようと、ヨハネによる福音書もまた、「ラボニ」という言葉をそのまま残しました。気安く翻訳しない方がいいと考えたのです。他の教会の仲間たちも、その「ラボニ」という言葉を重んじたのです。私どももまた、自分の言葉で、主をお呼びすることができる。そこで、自分自身のいのちが新しくされる経験をするのです。教会においてこそ知る幸いであります。
しかし、改めて問います。どうして、どのようにして、マリアはこのような祝福の中に立つことができたのだろうか。やはりこの物語の中で興味深いことは、マリアが主のお姿を見ても、すぐには分からなかったということです。先ほど、「後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた」、ここに私どもの礼拝の姿があると申しましたが、それはちょっと乱暴な言い方であったかもしれません。そこに主イエスが立っておられたのは事実ですが、「しかし、それがイエスだとは分からなかった」。これも、私どもにとってもいくらでも同じようなことはあると思います。それだけに問わずにおれない。なぜマリアは、お甦りになった主イエスだと分かったのでしょうか。考えてみれば不思議です。しかしヨハネによる福音書は、そんなに難しく考えていないと思います。主が「マリア」と呼んでくださったからです。名を呼ばれて初めて気づいたのです。
このところを説き明かす多くの人が、ヨハネによる福音書第一〇章の言葉を思い起こしています。主イエスが既にこう言われました。「わたしは良い羊飼いである」。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」。マリアも主の羊だったのです。その名を呼ばれたのです。その声を聴き分けることができたのです。
不思議と言えば、もうひとつ不思議な言葉があります。一四節に「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた」とあります。既に振り向いているのです。けれども一六節でも、「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った」。なぜ二回も振り向いたのだろうか。しかしここでも、福音書を書いた人は難しいことを考えていなかったと思います。体だけでなく、その心も、存在丸ごと、しかも何度でも、主イエスの方に振り向かなければならなかった。いや、主イエスが振り向かせてくださったのです。
おそらく私どもは、一生の間、何度でも、暗い墓の前に立つような思いを知り続けるのだと思います。既に主イエスはお甦りになったはずなのに、何度でも性懲りもなく、死の奴隷になってしまう。けれども、自分で立ち直ろうとしても、そんなことはできません。それができるのは、主イエスだけです。主イエスが、何度でも、私どもを振り向かせてくださる。そのために、主が私どもの名を呼んでくださいます。そのための礼拝です。
そのように礼拝を繰り返す私どもが、マリアと共に聞かなければならない言葉がもうひとつあります。「わたしにすがりつくのはよしなさい」と主イエスは言われました。これは何を意味するのでしょうか。
なぜマリアはすがりつこうとしたのか、これは私どもにもよく分かります。そもそも、マリアがこの墓の前で泣いていたのは、主イエスの遺体が消えたからです。すがりつく対象が完全に消えてしまったからです。たいへん奇妙なことに、主イエスご自身に、「あのお方の体はどこですか。わたしが引き取ります」と言っています。主イエスの遺体を愛していたのです。私どももこのマリアの気持ちをよく理解できると思います。死んでも、私どもはその愛する者の体を愛するのです。その骨をも愛するのです。
かつて、私とほぼ同い年で亡くなったという方の納骨をしました。そのご両親にとっても、納骨をするということ自体、一大決心であったと思います。家に骨壺があれば、まだ何となく慰められるものです。けれども、やっとのことで決心をして、納骨をすることになった。しかし当日、墓地で私が短い説教をし、讃美歌を歌い、さあ納骨しましょうというときに、やはりお母さんは、骨壺を抱きしめながらしばらく泣いていました。その気持ちに共感できない人はいないと思います。それでも、墓に行けば娘の骨が残っていると思えば、まだ心が支えられるものですが、マリアの場合には、その体もなくなってしまったのです。恐ろしかったと思います。空っぽになった墓と同じように、自分の心にまで、ぽっかりと大きな穴が開いたような思いではなかったか。自分で抱きしめることのできるものが、完全に姿を消したのです。
そのマリアの背後に、しかし、主イエスが立っておられた。うれしかったと思います。ああ、わたしのイエスさま、わたしの先生。もうわたしはあなたのことを放しません。けれどもそこで、マリアは思いがけない言葉を聞かなければなりませんでした。「わたしにすがりつくのはよしなさい」。なぜでしょうか。ひとつの明確な理由は、福音書が書いているとおりです。
「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」。
あなたのすべきことは、わたしにすがりつくことではない。もっと他に、するべきことがあるだろう。兄弟たちのところに行きなさい。そして、伝えるべきことを伝えなさい。マリアは、主イエスにすがりつく代わりに、弟子たちのところに遣わされるのです。
この記事について、ひとりならず、こういうことを指摘する人がいます。最初、墓の中にふたりの天使が見えた。ふと後ろを振り返ると、そこに主イエスが立っておられた。ところで、このふたりの天使はどこへ行ったのか。いつの間にか、完全に姿を消しております。言われてみれば確かにそうです。私も、なぜだろうかと思いながら聖書を読んでいたら、はっと気づいたことがありました。ギリシア語の原文で読むと、一二節の「天使」という言葉にそのまま動詞の語尾をつけると、一八節の「告げ」、「伝えた」という言葉になるのです。
マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と〈告げ〉、また、主から言われたことを〈伝えた〉。
最初のふたりの天使は、いつの間にか姿を消します。けれども、その代わりにマリアがひとりの天使のようになって、ほかの弟子たちのところへ遣わされるのです。
マリアは、本当にうれしかったと思います。喜びの涙が止まらないほどの思いで、弟子たちのところに飛んで行ったと思います。そして、主のご命令に従って、地上でのいのちの続く限り、伝えるべき言葉を伝え続けました。まさに天使として生き続けた。そのようにして、教会の歴史が始まったのです。
言うまでもなく、その時、マリアの心の中から、主のお体にすがりつきたいなどという思いは消えていたと思います。その必要もなくなりました。後ろを振り向けば、いつも主が自分の名を呼んでくださるような思いで、このマリアは生き続けたと私は思う。私どもの物語、皆さんの物語であります。このような教会の歴史を作らせていただいていることを、改めて感謝をもって受け入れたいと思います。
特に今、悲しみの中にある方、墓穴の暗さの中に吸い込まれそうな思いの中にある方のために、私もまた、ひとりの天使として心から告げます。主はお甦りになりました。いつでも、振り向けば必ず、主のお姿を見出すことができるのです。
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