2014年2月23日 主日礼拝

「今、ここに見える神の支配」 川﨑 公平 牧師

ルカによる福音書第17章20-21節

 
皆さまの中で、どのくらいの方がそういうことをしておられるかな、と思いますが、私が、また私ども夫婦が結婚以来10年続けていることは、『ローズンゲン・日々の聖句』という聖書日課を読み続けるということです。先週の説教でも、このローズンゲンによって与えられた聖句を紹介するということをいたしましたが、今日もこのローズンゲンの紹介から説教を始めさせていただきたいと思います。一昨日、金曜日に与えられた聖書の言葉で、エレミヤ書第14章8節です。エレミヤという預言者が、神に呼びかけている言葉です。
イスラエルの希望、苦難のときの救い主よ。
なぜあなたは、この地に身を寄せている人
宿を求める旅人のようになっておられるのか。
この第14章の最初のところを読みますと、どうもその時、干ばつが起こったらしい。国中捜しても水がない。食べ物もない。しかもそのような悲劇は、われわれの罪のために起こったのだということをエレミヤははっきり認めております。そこで神を呼ぶのです。神よ、助けてください。けれども、その呼び方がたいへん興味深い。神よ、なぜあなたは、肩身の狭い外国人のような姿を見せておられるのですか。宿を求めてさまよい歩く人のような姿なのですか。……不思議な言葉ではないでしょうか。その先の9節も読んでみます。
なぜあなたは、とまどい
人を救いえない勇士のようになっておられるのか。
主よ、あなたは我々の中におられます。
我々は御名によって呼ばれています。
我々を見捨てないでください。
神よ、なぜあなたの姿は、そんなに弱々しいのですか。どうしてもっと力強い姿を見せてくださらないのですか。神よ、見捨てないでください。どこにあなたの力強いみわざが見えますか。われわれには見えません。そう言うのです。
私が一昨日、このローズンゲンという聖書日課を読みました時に深くこころを打たれたのは、この旧約聖書の言葉に添えて、ルカによる福音書第24章15節以下が記されていたことです。ローズンゲンという聖書日課は、このように毎日、旧約聖書と新約聖書から一か所ずつ、短い聖書の言葉が与えられる。そのふたつの聖句の関係を考えるだけでも、深い黙想に導かれることしばしばです。先ほどのエレミヤ書に添えられた新約聖書の言葉であるルカ福音書第24章というのは、主イエスがお甦りになった、その後のことを伝える最後の章です。お甦りになった主イエスが、エマオという村に向かって歩いていたふたりの弟子のそばに現れ、一緒に歩き始められた。「しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」というのであります。これも興味深い言葉です。手を伸ばせば触ることさえできたのです。けれども、目が遮られていて、イエスだとは分からなかった。そのために、ふたりは暗い顔をしていたとルカは伝えます。頼りにしていたイエスさまは、もういない。殺されておしまいになった。それこそ、「人を救いえない勇士のようになって」しまわれた。神よ、なぜですか。なぜ助けてくださらないのですか。われわれを見捨てないでください。……けれどもその時、ふたりの目は遮られていたのだと、聖書は語るのです。
ウィークデイには毎朝9時に、教会の事務室に牧師たち、また主事の皆さんも集まって、このローズンゲンを読み、祈りをします。一昨日の金曜日には私が祈りをしました。この聖書の言葉を読みながら、もちろんそこで、教会の仲間たちのために祈らざるを得ません。特に苦しんでいる兄弟、姉妹のために。しかしそこで、何を祈るのでしょうか。「神よ、なぜあなたは、宿を求める旅人のようになっておられるのか」。しかしお甦りになった主は、このふたりの弟子と共に、エマオの村に宿ってくださったのであります。そこでふたりの弟子の目を開いてくださった。そのことを思い起こしながら、あの人、この人のために祈ります。その苦しみのために祈ります。「神よ、もしあの人の目が遮られているならば、その目を開けてください。甦りの主が目の前におられることを、どうぞ今すぐに悟ることができますように」。それ以外にどういう祈りをするのだろうかと思います。
少し長すぎる前置きをいたしました。今日は、ルカによる福音書の第24章ではなくて、第17章の20節以下を読みました。ファリサイ派の人びとが主イエスに尋ねた。「神の国はいつ来るのか」。そしてこのファリサイ派の問いの背後にも、深い悲しみ、苦しみを読み取ることができると思います。
少々おかしなことですが、多くの人が、このファリサイ派の質問の言葉にコメントをして、この言葉の裏を読む必要はない、とわざわざ言っています。なぜかと言うと、聖書に親しむようになると、私どもはすぐにファリサイ派という言葉を覚えるようになる。そして福音書にこの名前が出てくると、決まってこの人たちは、主イエスを試そうと、試して罠にかけようと、いろいろなことを言ってくる。ですからここでも、ファリサイ派がイエスさまに質問をしたなどと書いてあると、ほーら、また来た、あの悪いやつらが、と読んでしまいそうだけれども、ここは違うと言うのです。「神の国はいつ来るのですか」。その問いの背後には、彼らなりの誠実な思いがあったに違いない。深い悩みがあったに違いない。祈りがあったに違いない。
「神の国、それは、いつ来るのですか。いつまで待てばよいのですか」。神の国は、まだ来ていないと思っているから、そう問うたということでしょう。神の国、つまり、神がこの地上を支配してくださるということです。けれども、神よ、まだ見えません。この地上の現実を見る限り、どんなに目を凝らしてもあなたの支配は見えません。いつまで待てばいいのですか。いつ神の国は来るのですか。その思いが切実であればあるほど、それだけ苦しかったと思います。
主イエスが地上に生きておられた時代は、ローマ帝国の占領下にありました。他の国に占領されて生きるということが、どれほど苦しいことなのか、もしかしたら私ども日本人には分からないほどのものがあるのかもしれません。神よ、なぜですか。神よ、どうぞあなたが、真実の、あなたらしいご支配を行ってください。いつまで待てばよいのですか。そのことを、誰よりも真剣に問うたのが、このファリサイ派と呼ばれる人びとです。他の人が神を忘れても、自分たちは神さまのことを忘れまいとした。しかし、繰り返しますが、だからこそ、その神が生きておられる現実が見えないことを、誰よりも深く悲しんだのです。つらかったと思います。そのファリサイ派の苦しみ、悲しみを、主イエスもまた無視したり、軽蔑したりはなさらなかったと私は思う。
神よ、なぜあなたは、この地に身を寄せている人
宿を求める旅人のようになっておられるのか。……
我々を見捨てないでください。
ひとつの言い方をすれば、私どもキリスト者に近い心を持っていたのが、このファリサイ派だと言えるかもしれません。しかし、むしろ私はこうも思います。ただひたすらに神のご支配を求めて、私どもはファリサイ派ほどにも熱心な祈りをなし得ていないのではないか。主イエスは、私どもに「このように祈りなさい」と、主の祈りを教えてくださいました。その前半の部分で、あなたのみ名があがめられるように、あなたの御国、あなたのご支配が来るようにと祈るのです。私の縄張りが大きくなることを願うのではないのです。神のみ国です。私どもの願いなんかどうでもいいのです。神よ、わたしの願いではなく、あなたのみ心が行われますように。そのような祈りが、しかし、いつしか、白々しいもののように思えてくることは、稀ではないと思います。
けれども、このファリサイ派は、揺らぐことなく、神の支配を祈り求め続けた。他のことは何もいりません。どうぞ、あなたがみ心を行ってください。あなたのご支配がここに来ますように。いつですか。まだですか。そう祈り続けたのです。
その関連で、こういうことを知っておいてもよいと思います。このファリサイ派の問いに答えて、主イエスは、「神の国は、見える形では来ない」とまず答えられました。この「見える形で」と訳されている言葉、これはもちろん新約聖書ですから原文はギリシア語ですが、その言葉をさらにさかのぼって、ヘブライ語で書かれた旧約聖書ではどのような言葉と関連を持つであろうかということを調べると、そこで浮かび上がってくるひとつの箇所は、出エジプト記第12章42節であります。イスラエルの人びとが遂に、430年という年月にわたる奴隷状態から解放された。まさに〈出エジプト〉という出来事が起こったことを語り始めるのが第12章です。そこに、こういう言葉があるのです。
その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた。それゆえ、イスラエルの人々は代々にわたって、この夜、主のために寝ずの番をするのである。
ここに「寝ずの番」という言葉が出てくる。それが、ルカ福音書に出てくる「見える形で」という言葉につながっていくと言われるのです。つまり、神の国は、寝ずの番をして、徹夜でしっかりと見張っていることによって観察できるようなものではないということです。なぜでしょうか。
「その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた」と言われます。神さまが、徹夜をしてイスラエルの人びとを守ってくださったというのです。そのことを記念して、ユダヤの人たちは過越祭という祭りをするようになりました。その祭りが行なわれる夜、ユダヤの人たちもまた、主のために寝ずの番をするようになったと言います。あの記念すべき夜、主が徹夜でわれわれを守ってくださったではないか。そのことを覚えて、神の民もまた、一睡もせずに夜を過ごす。神の救いのみわざを、とくとこの目で見るためであります。
そのようなことを、誰よりも真剣に考えたのが、このファリサイ派でした。同じ時代の人たちが皆眠りこけて、誰もかも神さまのことなんか忘れてしまって、いいかげんな生活をしている時に、自分たちだけは違う、われわれは眠らないで、寝ずの番をするような思いで、神の支配を待ち続ける。それが自分たちの役目だと自任していたのです。
繰り返しますが、主イエスは、こういうファリサイ派の問いの中にある、神の支配を待ち続ける切実な思いを、軽蔑なさることはなかったと思いますが、けれどもそれだけに、主イエスが、「神の国は、見える形では来ない」と言われたことの意味は深いと思います。「神の国は、見える形では来ない」。あなたがたファリサイ派が、寝ずの番をして、一所懸命見張っているつもりだろうけれども、そのようなあなたがたの見張りによって観察されるような姿で神の国が来るわけではない。なぜでしょうか。事柄はまことに単純だと思います。目が遮られていたために、目の前に主イエス・キリストがおられたのに、その事実を見事に見過ごしたのです。
神の国は、見える形では来ない。「ここにある」「あそこにある」と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」。
このルカによる福音書の言葉は、とてもよく知られている言葉だと思います。そして、よく知られているだけ、その意味をめぐって多くの議論が生じたところでもあります。ひとつ問題になったことは、「見える形では来ない」と言われていることです。神の国は目に見えない。そこで生まれたひとつの解釈は、神の国というのは、要するに、人間の心の内面に関わること、精神的なことだ、ということです。
特に21節で、「神の国はあなたがたの間にある」と新共同訳は訳しましたけれども、たとえばかつての文語訳聖書は、「神の國は汝らの中(うち)にあるなり」と訳しました。汝らのうち、それは胃袋のことだと考える人はいない。もちろん、人間の内面のこと、心の中に神をお迎えするということであろう、ということになると思います。下手をすると、神の国とは、心の持ちようだということにさえなりかねない。もちろん聖書の中には、われわれの心の中に神が住んでくださると告げる言葉もありますけれども、それがこのルカによる福音書第17章21節の正しい理解であるかということは、たえず問い返されてまいりました。
その点で、新共同訳は注意深く訳したと思います。「神の国はあなたがたの間にある」。これは明確な解釈に基づく翻訳です。あなたがたの内面、精神の中に神の国が宿るなどとは言わない。あなたがたの間、複数の人間が集まっている、その間に、その中心に、主イエスがおられるということです。あなたがたの間に、今、わたしがいるではないか。けれども、そこでまた問題になることは、「神の国は、見える形では来ない」と言われているのは、いったいどういうことなのだろうか。言うまでもなく、イエスさまは、目に見える存在であったのです。
今日の説教題を、「今、ここに見える神の支配」といたしました。先週に引き続き、自分で決めた説教題について反省するところがある。1か月以上前に決めた説教題ですが、その説教題が先週になって教会堂の前に張り出されて、一瞬、「しまった」と思いました。皆さんはお気づきになったでしょうか。「神の国は、見える形では来ない」とはっきり言われているのに、「今、ここに見える神の支配」。おやおや、見えちゃったらだめじゃないか。少なくとも、ちょっと配慮に欠ける説教題であったことは確かだと思います。しかし、100パーセント間違っているわけでもないと、今は思い直しています。ファリサイ派の人びとの目の前に、主イエスは見える姿で立っておられたのです。けれども問題は、見えているのに、見事に見過ごした。見えているのに、目が遮られていたのです。だからこそ、先ほど丁寧に説明をいたしましたように、「神の国は、あなたがたが観察しようと思っている、その観察の対象になるような形で姿を現すことはない」と言われたのです。そのように言われた主のこころの内には、深い悲しみがあったのではないかと私は思います。
「神の国は、見える形では来ない」。肉眼で見えるか見えないか、物質的なことか精神的なことか、という次元の問題ではないのです。ほとんど飢え渇くように神のご支配を求めながら、徹夜をしてでも神のみわざを見ようと備えをしていた人たちが、しかし、見事にそれを見過ごしたのです。それどころか、その救いを殺したのです。ここで本当は、21節までで切らずに、22節以下も合わせて読むべきであったかもしれません。しかしその部分は、来週の礼拝で改めて読みたいと思います。ただひとつ、25節にこういう言葉があります。
しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。
「神の国は、あなたがたの間にある」。今、わたしがここにいるではないか。けれども、そのわたしを、あなたがたは見過ごし、捨てるであろうと言われたのです。
20節の「見える形で」という言葉は、過越の祭りと関係があると申しました。徹夜をして、自分たちを救ってくださった神のみわざを見ようとした。けれども、福音書の伝えるところによれば、まさにその過越の祭りの最中に、人びとは神の救いそのものであるイエスを捨て、十字架につけて呪い殺したのであります。ここに救いはない。ここに神の支配は見えない。そう考えた。
けれども、そのお方を、神は死者の中から甦らせてくださいました。それでもなお、そのお方がエマオへの道を共に歩いていてくださったのに、「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」ということさえ起こったのです。
けれども、事実、神のご支配は、「あなたがたの間にある」。私どもの間に、主イエスがおられるのであります。あのふたりの弟子の間にも、主イエスが一緒に歩いてくださったのです。その事実に揺らぐところはないのです。
昨年のイースターに、ルカによる福音書第24章が伝える、エマオという村に向かう道の途上の出来事について説教をした時、こういう話をしたと思います。ふたりの弟子がエマオという村に向かって、暗い顔をしてとぼとぼと歩いていた。ところがそこにお甦りになったイエスが加わり、一緒に歩いてくださった。その場面を描いた絵が、私どもの家の玄関に飾ってあります。妻の親戚からもらったものです。ふたりの弟子がイエスさまをはさむようにして、夕暮れの道を一緒に歩いている。ああ、そうだ、そのように、今もイエスさまが一緒に歩いているんだなあ。このふたりは幸せだなあ、などと、のんきにその絵を見ておりましたけれども、ある時はっと気づいた。当たり前のことですけれども、しかし私はその絵をもらって何年も気づかなかったことがあった。それは、イエスさまと一緒に歩いているこのふたりの目は、遮られていたということであります。イエスさまだと分からずに歩き続けている。そのために、このときのふたりの顔は、実はとても暗かったということです。しかし私は、そのことに気づいた時、むしろ深く感動しました。ああ、そうか。この時、このふたりの目は遮られていたのだ。この時、このふたりの顔は、暗かったのだ。けれども事実、主イエスはこのふたりの間におられたのであります。その事実が揺らぐことはなかったのであります。
そして、そのふたりのために、主ご自身が聖書を説き明かしてくださり、その心を解きほぐしてくださって、遂にふたりにもすべてが理解できた時に、「二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」とルカによる福音書は伝えます。見る必要がないほどに、神のご支配を確信できたとも言えます。まさに、神の国は、見える形では来なかったのです。
そして、後の時代の教会は、ここに自分自身の姿を読み取ってまいりました。「神の国は、あなたがたの間にある」。あなたがたの間って、どこのことか。ここに、私どもが集められています。この私どもの間です。目には見えなくても、ここに主イエスが生きておられる。みわざを続けておられる。遮られている私どもの目を開こうと、いつも心を砕いて、み言葉を説き明かしてくださる。そのことを私どもは信じる。そこに教会の歩みが作られるのです。
この礼拝の後、教会総会をいたします。そのための資料を既に先週配りました。あとで改めて申し上げることですが、長老会で祈って思いを定めたことは、〈祈り〉によって作られる共同体であることを大切にしようということです。互いのために祈る。あの人に祈られているから私は私たり得るということがよく分かるような教会にしたい。そこでも大切なことは、その祈りの交わりの中心に主イエスがおられるということです。誰にもまさって、私どものために主が心を砕いてくださるということです。
神よ、なぜですか。まだわたしには、あなたの救いが見えません。あなたのご支配が見えません。いつまで待てばいいですか。……うめきにしかならない祈りをせざるを得なくなることもあるかもしれません。しかもその時に、神よ、なぜあなたはそんなに無力なのですか。「なぜあなたは、この地に身を寄せている人、宿を求める旅人のようになっておられるのか」、そのような祈りをせざるを得ないこともあるかもしれません。けれどもそこで、私どもの目が実は、遮られているということを、むしろ喜んで認めたいと思います。その私どもの目を開こうと心を砕いていてくださる主のお心を、喜んで受け入れたいと願います。私どもと共に歩いていてくださる主のお姿に、揺らぐことは決してないのです。お祈りをいたします。
今共にいてくださり、私どもの間にあって働き続けていてくださる主のお姿を、肉眼によってではなく、信仰の目をもって、鮮やかに仰ぐことができますように。そこに生まれるさまざまな祈りを、その祈りの心を、どうぞあなたが励ましてくださいますように。そのようにして造られるこの教会の歩みを、心から感謝してあなたにささげます。主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン
 
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