2013年9月8日 主日礼拝

 「嘘は方便ではない」 大澤 正芳 牧師

出エジプト記20章16節

 
主イエス・キリストの父なる神を信じる信仰は、「神様と私だけ」の関係ではなく、必ず、そこには、「神様の元にある私と隣人」の関係が含まれています。
ただ今執り行われました、小児洗礼式、小児洗礼入会式が本当にそのことをよく証していると思います。幼子の信仰ではなく、幼子を支える者の信仰、そして教会の信仰において、その子が神の子であること、神のものであることを私たちは告白するのであります。そのように私たちは信仰者として立たされるのであります。
主なる神様から頂いた10の戒めの構造が既にそのようなものでありました。神様と私たちの関係を語る戒めが4つ続き、その後に、神のもとにある人間同士のふさわしいあり方を語る言葉が、今まで続いて参りました。
主なる神は、奴隷の家から解放されたイスラエルの民が、その後も、この救い主である神と特別な関係で結ばれ続けるために、ご自身と解放された人々がどういう関係を結び続けるべきか、それを保ち続ける必要があるかを問われるだけでなく、解放され神のものとされた人間同士が、どういう関係に入れられ、どういう関係を保つように招かれているのかも語られるのであります。
十戒は、真の神への信仰と、隣人へのふるまいが切っても切れない関係にあることを私たちに教えるのであります。
それは、教会という新しい神の民も同様です。その身も魂も、この世のあらゆる束縛から解放され、本当の主人のものとされた私たちキリスト者たちも、この教会で解放された仲間と共に生きるようにされています。
聖書に記された約束のとおり、今、隣の席に座るキリスト者と共に、キリストの体にして頂いています。そして「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)との主イエスの約束のお言葉通り、主のお名前の語られるキリスト者の集いに、すなわち、キリストの福音を互いに語り聞かせ合う、キリスト者の集いにおいてこそ、私たちはこの主イエスというお方と出会うことができるのです。
キリスト者は、一人で生きることはできません。主イエスのお名前を、その慰めの言葉を語り聞かせてくれる仲間と共に、キリストと出会い、キリストの体として、神の民として生きるのであり、それゆえ、主なる神様は、その民に、ご自身に対してだけではなく、仲間同士にも誠実に仕え合うように、その仲間と共に生きる生き方を大切な10の戒めの後半部で集中的に語っておられるのです。
今日与えられました9番目の戒めも同様です。解放された者同士のあり方を語っています。しかも、この戒めは、直前の三つの戒めと違って、ただ「偽証してはならない」と語るのではなく、「隣人に関して偽証してはならない」と、「隣人」という言葉をはっきりと語ります。
9番目の戒めは、ただ一般的に「嘘を言ってはいけない」と、語るわけではありません。
「隣人に関して」とはっきり語られるように、そこでは、具体的な相手が描き出されています。私と共に生きる、具体的なあの人、この人の顔を、この戒めと共に、思い浮かべるようにと、そのように促されるのであります。
その隣人に関する嘘とは一体どういうものでしょうか? それは言うまでもなく根も葉もない中傷、不当な評価によって、私の隣人に対する周りの評価を低くしてしまうことであります。
しかもそれはただの悪口ではありません。隣人についての、私たちの評価が、決定的な意味を持ってしまう場所での偽りの言葉が問題とされています。
「偽証してはならない」そう言われています。「偽証」という言葉が使われています。日常生活で使う言葉ではありません。裁判、裁判の席で使われる特別な言葉です。
ですから、隣人の毀誉褒貶に関わることがこの戒めにおいて、問題とされているといっても、第一の意味においては、名誉を貶めるために、単に悪意を持って隣人に関して、極端に歪められた噂を親しい者のうちで囁き合うことではありません。
裁判の席でなされる公の証言です。隣人についての偽りの言葉が、具体的で決定的な結果を引き起こしてしまうそのような証言です。裁判において、このような偽りの証言がなされるのならば、場合によっては、その偽証によって、人の命が左右されてしまうのであります。
しかしそのように申し上げますと、この第9の戒めは私たちの日常生活とはかけ離れた言葉のように聞こえてくるかもしれません。
十戒の中で、裁判の席での偽証という非常に限定的な特殊な言葉として語られているとすれば、それは私たちの生涯に一体どういう関係があるのかと思われるかもしれません。
裁判所に引き出されることなど、私たちの一生の内でそうあることではありません。できれば、一生、被告であれ、原告であれ、証人であれ、裁判の席に着くことなどあって欲しくないと私たちは願っております。
だから、私たちの日常生活からかけ離れた戒めのようにも感じられます。けれども、考えてみれば、それでも、裁判が自分たちの手の中にある、自分たちが裁判を起こしたり、または裁判の中で証言することができるということは素晴らしいことであるかもしれません。
奴隷は、裁判を開けません。被征服民の裁判権も制限されています。主イエスの時代、ローマ帝国の支配下にあったユダヤの民には、この裁判権が制限されていました。彼らは自分たちの内で何か犯罪が起こったとしても誰かを自分たちの法律の下で裁き、死刑にする権限はなかったのです。
ですから、自分たちの間で起こった問題を、自分たちの手で裁判を開き、また、法廷で証言し、判決を下すことができるということは、私たちはあまり意識していないかもしれませんが大きな恵みです。それは一つの自由のしるしです。
正しい裁判をすることができるのです。たとえ無実であっても、支配者の都合に合わせて、有罪とされてしまうような不当な判決から自由になっているのです。
だから、「隣人に関して、偽証してはならない。」という約束は、神様に自由にされたイスラエルの民にとって、とても大切な約束となりました。
奴隷の家から自由にされた神の民は、不当な判決を受ける必要がもうないのです。それゆえ裁判における偽りの証言は、非常に大きな罪となります。神が下さった自由を侵害することになるからです。裁判の席において正しいことが語られ、正当に裁かれるその場において偽りの証言がなされるとき、それは、再び自分の隣人を奴隷の状態に引きずり落とすことと同じであります。偽証は、神が下さった隣人の自由を守る法のシステムの中で、隣人を自分の自由に、すなわち、自分の奴隷として扱う行為に他なりません。
しかし、このように考えてみますと、自分の言葉によって、隣人を不利な状態に陥れ、不利な判決を下すように言葉を捻じ曲げてあるいは拡大して加担するという行為が、9番目の戒めが禁じている隣人に関して偽証するなという戒めであるならば、それはもちろん裁判の席においてこそ、最も、厳しく、恐ろしい形で、現れる罪であるとしても、私たちの日常にも関係があり、身に覚えのある罪と言わざるを得ないのではないでしょうか?
私たちは、実際、本当に気軽に他人を評価するものであります。あの人はああいう人だ。この人はこういう人だ。
そして、正直申し上げて、そうやって、私たちが自分の隣人を論評する時、私たちは、なかなか厳しい評価をしてしまっているのです。決定的に仲違いしているわけではない、むしろ外から見れば友人だといわれている仲間に対しても、その人がいない場所では、結構、手厳しい評価になってしまうのではないでしょうか。自分でも、後で、冷静に考えれば、言い過ぎてしまったな、これを知られたら、ちとまずいことになるなとそう思うほどに、隣人の言葉や行動を悪くとらえ、悪く評価してしまいがちな私たちです。
それは、正式な裁判の席での、証言ではありません。けれども、やはり、そこで私たちは、この第9の戒めに直面しているのではないでしょうか?
私たちの教会にも非常に親しい書物であります、教会の信仰の精髄を語る、ハイデルベルク信仰問答という信仰問答がありますが、その書物もまた「隣人に関して偽証してはならない」とのこの戒めを説明してくれていますが、この信仰問答はこの罪が犯される場所を裁判の席に限定せず、私たちの生活の中に、広がっていく戒めであることをはっきりと説明しています。
そこでは、この戒めについて、次のような解説がされています。
問112「第九戒は、何を、求めていますか。」
答「わたしが、誰に対しても、偽りの誓いをなさず、誰に対しても、言葉を曲げず、陰口をきかず、悪口をいわず、誰をも、調べることなく、軽率に、罪に定めることを、助けず、反って、すべての虚言、詐偽を、悪魔自身のわざとして、神の重き怒りをおそれるゆえに、避けて、法廷においても、他のすべての事柄においても、真理を愛し、正直に語りまた告白し、自分の隣人の栄誉と威信とを、自分の力でできるかぎり、救いまた増すように、ということであります。」
悪口も陰口も、この戒めで禁じられていることである。よく調べもせず、軽率に人を罪に定め判断してしまうことそれもまたこの戒めで禁じられていることだと信仰問答は理解しています。
法廷においてだけではなく、他のすべての領域において、日常生活においても正直に語り、隣人の名誉を守り、増すように求められていると御言葉から聴くのです。
このような聴き方は、決して信仰問答が拡大解釈しているわけではありません。既にこの十戒が収められているのと同じ出エジプト記23:1において、裁判における偽証と、日常生活における噂話を結び合わせて語っています。そこには、こうあります。「あなたは根拠のないうわさを流してはならない。悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない。」
またレビ記19:16でも、裁判における偽証と、私たちの身近な罪を結び合わせて次のように語ります。「民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である。」
裁判所以外の場所でも、隣人の根拠のないうわさ話をしたり、中傷をしたり、陰口を言ってはならない、聖書はそう語っています。
このことは、十戒を最初に聴いた人にとっては、むしろ、当然であったかもしれません。旧約聖書を読むと、当時の裁判というものは、特別な裁判所が設けられていたわけではなく、それぞれの町の門の所で、開かれていたことが分かります。また、裁判の判事、裁判官を務める者も専門の職業人ではなくて、町の長老の中からふさわしい人がその都度選ばれ、行われていたようであります。裁判は今の日本よりもずっと日常的な場所で行われ、またあらゆる日常の争い事がこの裁判の席に持ち出されたとそのように言われています。
ですからやはり、私たちの内の誰もが、この戒めを等閑視することは出来ません。陰口、悪口、軽率に隣人を評価し、判断する時は、いつでも、私たちは神の言葉に背き、罪を犯しているのであります。
主なる神様は、神様の者とされた私たちが、不当に評価されることをお喜びにはならないのです。また真実である神の民にふさわしく、生活のあらゆる場面において私たちが真実を語るべきことを求めておられるのです。
けれども、私はさらに踏み込んで問わなければならないと思いました。私たちの語る偽りの言葉、それはいつでも、隣人を貶め、隣人を傷つけるという意図をもって語られているのでありましょうか?
今日の説教題の中にも含みました言葉に、「嘘も方便」という言葉があります。方便というのは、仏教の言葉で、真実の救いに至らせるための、巧みな手段という意味があるそうです。方便は、救いそのものではないけれども、救いにいたらせるための一歩手前に用いられる救いへと導く手段と見做されています。
私たちは日常ですね、決して隣人を救おうなどという気持ちをもって、この言葉を使っているわけではありませんけれども、この「嘘も方便」という言葉に共感する心があるのではないでしょうか。
隣人をそれによって、救おうというのではありません。けれども、人間関係を円滑にするために、直接あからさまに伝えては、相手を傷つけてしまう真実を伝えずに、済ませようとするために、用いる嘘、あるいはあえて語らない言葉、そういうことがあると私たちは思ってはいないでしょうか。
「本音と建て前」という言葉もあります。こちらは、どちらかといえばあまり良い意味で用いることはないかもしれません。けれども、私たちが隣人と共に仲良く暮らしていくためには「それを言っちゃあ、おしめーだよ」という隠された本音があるのではないかなとどこかで思っているのではないでしょうか。
このような意味における嘘、偽りの言葉、隠された本音というのは、今まで見てきた嘘とは少し違った意図を持っているように思います。それは、悪意を持って隣人を傷つけるために語られる偽りの証言ではなくて、隣人を残酷な真実あるいは私たちの本音に直面させないためにつかれる方便だからです。
本音を言えば、私と共に生きる隣人を傷つけてしまう。和を乱してしまう。だから、方便によって、建前によって、私たちの本音という鋭い棘を包み隠すのであります。
隣人に関して偽証してはならないとの神の言葉は、私たちが、私たちの辛口な本音で、隣人に接し、その言葉によって傷つけ傷つきあいながら生きることこそ、そっちのほうが真実な生き方ではないか、そういう生き方へと導く言葉なのでありましょうか?
確かに教会には建前はふさわしくありません。建前だらけの世の中ですから、神様の元では本音で生きたい、教会の中では、本音で生きたい。お互いが本音で語るその言葉に「ありがとう」と笑顔で受け答えができるそういう関係を教会の中で築いていきたい。そういう関係がこの教会の中で築けたら、どんなに素晴らしいかと私たちは心の底から願っていると思います。
けれども、私は思うのです。私たちはただ本音であればいいのか? 私たちの本音はいつでも隣人の徳を高めるものとなるのか? 私たちの本音は傷ついている隣人をいつでも、慰めることができるのか?
むしろ、私たちは、本音で生きようとする時に、思い知らされることは、私たちの本音も本性も病に罹っているということではないでしょうか?
「隣人について偽証してはならない。」という戒めは、単純に建前を捨て、病に罹った本音で生きるようにとの勧めであるとは思えません。
ヨハネ8:44で、主イエスは、ご自身の証を受け入れない人々に向かってこう語りました。「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。」こう主イエスは語られるのでありますけれども、ここで主イエスが悪魔はその本性から偽りを言っているというときの「本性」とは、別の翻訳では、「本音」とも訳される言葉であります。
神は悪魔が本音で生きることを喜ばれてはいない。本音が真実とは限らないからです。そもそも、その本音というものが腐っているならば、その本音は真実ではなく、初めから偽りであるのです。
私たちは、イエス・キリストにあって、神の子であります。悪魔の子ではありません。ですから、私たちの本性も本音も、偽りではありません。けれども、礼拝の度に、私たちは自らの罪を告白せざるを得ない者です。神の子とされているこの私たちの本性をすぐ忘れて、心の内に響いてくる、囁いてくる罪の声こそが、自分の本音ではないかと思い違いをし、時には、その声に促され、その声に従って行動し、語ってしまうことがあります。
ですから、私たちは私たちの本音をよく吟味しなければなりません。それは、罪の声ではないか? それは悪魔のささやきではないか? 私は今、誰の本音に突き動かされているのか?
私たちが共に生きる隣人を見る時、私たちはその心の底で、その方々を、その隣人をどのような存在として見ているでしょうか? どういう存在として評価しているでしょうか?
パウロは、コリントの教会に向けてその冒頭で次のように書き送りました。
「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」と。
パウロの手紙の書き出しで浮かび上がってくるコリントの教会のキリスト者の姿は、まぶしく光り輝く神の民の姿です。キリストに結ばれ、豊かにされ、賜物に欠けるところがなく、将来、キリストの日に非のうちどころのない者にされることが、今はっきりとありありと見えている神の民の姿です。
けれども、パウロは知っています。コリントの教会のキリスト者たちは、問題を抱えた人々です。パウロのどの手紙よりも、厳しい評価をされているのが、コリントの教会の人々でもあります。
ある学者は言います。たとえどんなにひどいキリスト者であっても、そのコリントという町にいたキリストを信じる信仰を持たない人に比べたら、よほど、光り輝いているから、パウロはこのような高い評価を書き送れたのではないかと。
しかし、それは違うと思います。パウロは、コリントの信徒への手紙Ⅰの5:1で、「現に聞くところによると、あなたがたの間に、みだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどの」ものだと。そういう罪があなた方にはある。そうはっきり認識しています。パウロはよく知っていました。コリントの信徒達の欠けを、彼らの傷を、彼らの罪をよく知っていました。
けれども、そのパウロは何よりも最初に言わなければならないのは、コリントの信仰者たちの姿を見て何よりもまず言わなければならないのは「あなた方はキリストと結ばれ、それゆえに賜物に何一つ欠けるところがない」ということ。
私は、このパウロの言葉を思い巡らしながら、自分の牧会した教会を無邪気と言えるほどに、信頼するある引退教師の姿を思い起こします。あるいは単純なほどに、キリスト者になれば、みんなが幸せになる、キリスト者は素晴らしい信仰は素晴らしい、教会は素晴らしいと両手放しで私に語ってくれたあるキリスト者の姿を思い起こします。
その人たちも、罪を知らないわけではなく、教会にどっぷりとつかっているから教会の罪の姿を、信仰者の傷を抱えた姿を、罪をよく知っています。けれども地上を歩むキリスト者と、教会の不完全さを知りながら語られる、これらの人々が見ている教会の美しい姿は、これらの人々の手放しで語られる教会への賞賛の言葉は、疑いもなく建前でなく、本音です。
私たち信仰者には欠けがあり、傷があります。地上を旅するどの教会にも傷があり、欠けがあります。ある時、私たちは、その欠けや傷に注目したいという、そういう誘惑に駆られます。教会は良いことを言ってるかもしれないけど、本当は、どうなんだ? 真実は、どうだ? その群れの実体は、本性は、そういう欠けや傷にこそ罪の中にこそ現れているんじゃないか? そういう風に、思います。
私もそういう評価をしてしまいがちであります。その教会の弱点や、信仰者の欠けを知った時にこそ、その教会とその人の真実の姿を知ったような気になってしまう。本性を知ったような気になる。
しかし、それは違うのではないでしょうか?
キリストにある者の真実の姿は、この世の語る偽りの評価の中にでもなく、あるいは悪魔が告発してくる私たちの罪の姿の中にでもなく、ましてや、傷つけないようにオブラートに包んだ敬虔な宗教者らしい建前の中にも存在していないのです。
では、どこに私たちが共に生きる隣人の真の姿が見いだされるのか。私たちの隣人と私たち自身の真の姿は、他のどこでもない、イエス・キリストの証言の内にこそ見つかるのです。このお方は、罪の私たちを無罪だと言って下さる。このお方は、私たちを傷も皺もない神の子だと言って下さる。
このイエス・キリストの証言の内に私達と隣人の本当の姿が見つかるのです。それは、偽りの証言ではありません。建前でも方便でもありません。イエス・キリストこそ、「誠実」であり、「真実」であり「神の言葉」である。そのように証するヨハネの黙示録は、同時に、このお方の衣は、血で染まっていると言います。
そのお方の証言、血で衣の染まった方の証言です。その血に染まった衣は、私たちが隣人に向かって語る、また、隣人が私たちに向かって語る、有罪の宣告は、全て、わたし主イエス・キリストが、背負った。私がその身に引き受けた、そういう証言です。だから、どんなに私たちを告発する罪が、わたしたちの現実を、真の姿を言い表しているように見えたとしても、それが私たちの本性のように見えたとしても、私たちはイエス・キリストの証言において私たちの罪は十字架につけられて破棄されたということを知るのです。
その罪は、最早、実態を持たず、神の光の前で、消え去る陰に過ぎません。そこには、教会の真実の姿も、キリスト者の本性もありません。
私たちは、神の御子が十字架の血を流して聖められた者として、復活のキリストが世の終わりまでいつも共にいると約束し、キリストの霊がその者の内に生きる者としてのみ、隣人と自分を見ることが出来るのであります。
小児洗礼式、小児洗礼入会式が行われました。この教会に新しい小さな枝が一つ加えられました。幼子は自分が誰で何者であるか、自分でははっきりと知り、語ることは、今はまだ出来ないかもしれません。けれども、この教会に生きる幼子を育てる者と、そして私たちは、この幼子に向かって語られる神の言葉をはっきりと聞いています。
あなたは、神さまの宝物、イエス・キリストは、あなたのためにも、血を流された。あなたは神様の宝物。その言葉こそが、今日洗礼を授けられたあの幼子の真実の姿であります。
しかし、それはその幼子だけのことだけではありません。私たち自身のことです。私たちの隣に座る隣人のことです。
たとえ、私たちの目にはそうは見えなくても、冷静に客観的に、その本音において神の宝物にいかにふさわしく見えなくても、イエス・キリストにおける神の真実は、神の本音は、私も隣人も、ここに座る全ての者は、神の宝であると語るのです。
隣人に関して偽証してはならないと招かれている私たちは、この神のまなざしで隣人を見るようにと招かれています。この世の視点から見れば、あの人に対するそのような評価は過大であり、誤解であり、本音を知らず、真実を知らないとみなされてしまうほどに、私たちは、わたしたちの隣人を良い者として見ることが許されています。
私たちは、イエス・キリストを通して明らかにされた私たちに対する神の本音から、その神の真実に信頼して隣人を見るのです。
私たちは神の本音に生きます。キリストの真実に生きます。神の宝とされている隣人であることを信じます。自分であることを信じます。この教会であることを信じます。
そして主も最後まであなたがたをしっかりと支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にして下さいます。神は真実な方であります。
主イエス・キリストの父なる神に感謝の祈りを捧げましょう。
主イエス・キリストの父なる神様 あなたの御子によって贖いとられ、そしてその物語を聞き信じるまでは、私たちは私たちと隣人の本当の姿を知りませんでした。しかし今は、神の宝とされている私たちの本当の姿を知らされました。このあなたの真実、あなたの本音が、私たちの真実であり本音となることを心から喜びます。
どうぞ、私たちが私たちの隣人と自分自身を、主イエス・キリストに贖われ聖められた者以外の者として知ることがありませんように。そして、まだこの喜びの姿を喜びの福音を知ることがない者たちに、私たちがその方々の本性を語り聞かせていくことができますように。
私たちをいよいよ力づけ送りだして下さい。
主イエス・キリストのお名前によって祈ります。
アーメン
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