2013年9月29日 主日礼拝

「キリストの福音」 大澤 みずき 牧師

ガラテアの信徒への手紙 1章6-10節

 
今、わたくしが、この説教壇に立っていること、そして、皆さんが、礼拝堂に集まっていること、それは、キリストの福音によるもの以外のなにものでもありません。
今日与えられました御言葉から改めて教えられます。今日語るべき聖書の御言葉と向き合ううちに、キリストの福音に生かされている、キリストだけに頼る、パウロの信仰が迫ってきたのです。そこで私は、本日の説教題を「キリストの福音」としました。当たり前の題をつけてしまったかもしれないなと思いました。もっと、道行く人を惹きつけるような説教題に変えたらどうかとも思いました。しかし、教会には、キリストの福音以外に伝えるものはありません。キリストの福音が全てですから、思い直して説教題はそのままにいたしました。
 さて、説教題を聞いて、皆様はどう受け止められたでしょうか?私が最初に感じたように、教会でいつも聞く、当然のことであり、特別な魅力は感じない題であると思った方がいましたら、その方はぜひ説教を聞いて欲しいと思います。説教題を聞いてむしろ聞きたくてしょうがないと思った方は、喜んで聞いていただければと思います。キリストの福音なくして、たった今ここに集う私たちはありません。
パウロはガラテヤの諸教会に対して、伝道を始めたときから、キリストの福音のみを伝えて来ました。キリストの福音とは、神様があらかじめ人間のために定めてくださった救いの手段です。キリストの福音さえ受け入れるならば、誰でも救いに招き入れるという神様の恵みと慈しみに溢れた計らいです。キリストの福音に与るのに、人間的な条件は一切問うことはありません。
パウロは伝道旅行をして、今申し上げた福音を伝えてまわっておりました。ですから、一つの教会にずっと留まって指導を続けるということはしておりません。ガラテヤのいくつかの教会も、パウロの福音伝道によって生まれ、パウロが伝道のために別の土地へ赴いて教会に不在になっても、礼拝を続けていたのです。
しかし、どうも、ガラテヤの教会の人々は次第にパウロという指導者の不在、そして、目で見ることのできないキリストへの信仰に自信がもてなくなっていたようです。パウロが不在のうちに、パウロが伝えたキリストの福音とは異なる教えが福音のような顔をして、ガラテヤの諸教会に入りこむようになっていました。
出来るだけ多くの人が受け入れ易いように、パウロは人間の救いのために、何の条件も要求しなかったけれども、本当は、人間の方から負わなければならないものがあるのだと主張する者が教会の中に現れ、人々を惑わしていたのです。
オリジナルをアレンジするうちに、オリジナルに似ても似つかないものに変質するということは、よく起こることです。少し前に、スペインでキリストの肖像の修復をしたら、オリジナルの肖像画とはかけ離れたものになってしまい、世界中の話題を呼びましたが、あれは、アレンジと言ってよいのかわかりませんが、しかし、オリジナルの肖像画が表現していたものは大方失われていたように思えました。絵ならば、修復も可能かもしれませんが、覆された福音から、オリジナルのキリストの福音に引き戻すことは大変難しいことだったのです。覆された福音を福音と信じ込んでしまっていたからです。
パウロと異なる主張をした人々は、イエス様が現れる以前からの慣習を大切にする者たちでした。彼らが大切にしていた古い慣習とは、かつてパウロも熱心に守っていた律法のことです。
 ガラテヤの教会の人々を惑わし、キリストの福音をひっくり返して無駄にするような教えに対して、パウロは大変な憤りをもって、手紙を書き出しています。手紙としては、まだ導入の部分であるにも関わらず、抑えきれなかったのか、強い言葉が次々と並びます。
パウロの憤りは、手紙のはじめにある、2節のガラテヤの諸教会への呼びかけから既に読み取ることができます。ガラテヤの信徒への手紙と同じように、教会を戒める手紙として書かれたコリントの信徒への手紙においてさえ、神の教会と呼びかけているのに対して、ガラテヤの教会は、もう神の教会と呼ぶことが難しくなっているほどだったのです。ガラテヤの教会の深刻な状態が見えてきます。
そして、神の教会とさえ呼べない状態になってしまった理由が、6節以下で明らかになってきます。神の教会とも呼べない状況とは、先ほども少し触れましたが、教会の命に関わることが、異質なものへと変えられようとしているということでした。ガラテヤの教会の人々は、福音ならざるものを福音と信じて疑わず、主人ならざるものを主人としていたのです。
パウロ自身が受けた福音を伝えられ、伝えられたまま受け入れて生まれたはずの教会において、いつの間にか福音がすり替えられ、神様の恵みから離れていたということに、怒りを通り越して、むしろ落胆するような思いがあったということは、6節の「あきれ果てています」という言葉によく表れています。
ガラテヤの教会にはじめに伝えた福音こそが、キリストの福音であるとの確信をもって、8節では、天使まで引き合いに出して、真の福音に反する偽りの福音を告げ知らせるならば、神様の裁きに委ねなければならない、呪われるように神に願わなければならないとまでいうのです。
さらに9節では神の裁きに委ねなければならない状況に教会が陥ってしまっていることを、繰り返して語っています。神様が恵みとして与えてくださった独り子キリストが、命をかけて私たちのために十字架を担ってくださり、神様と和解の道を開いて神様に近づけてくださったのに、そんな簡単に神様から離れて、十字架がなかったかのごとくに、また、神様の裁きの前に自ら立たなければならない状況を招くなどということは、愕然とするような出来事だったのです。
自ら不幸を招き入れていると言っても過言ではありませんでした。パウロは、キリストの福音だけで、救いは完全であり、キリストを信じるならば、誰でも救われる。誰にとっても良い知らせである福音に何も付け加えるものはないということを、徹底的に信じていたのです。
6-10節の極端とも思えるような言葉の裏に、パウロは、徹底的にキリストの福音を信じ、キリストに従う者の姿勢を示し、キリストの教会もまたキリストのみに従う者の群れであることを明らかにしています。
 教会が創立してから、歴史の浅いガラテヤの諸教会の人々にとって、パウロの敵とみなされた人々の言葉、律法に定められた信じる者の目に見える印である割礼を受けようとの誘いは、自信のない信仰を確かなものにしてくれるかのように映りました。それゆえに、簡単に受け入れ、惑わされてしまったようです。キリストの福音よりも、人の声に従うようになっていた人がガラテヤの諸教会に少なからずいたのです。
 教会が拠り所としているキリストの福音以外のものが、ガラテヤの諸教会の人々の主人となろうとしていたのです。キリストとキリストを送ってくださった神様を主と呼ぶには相応しくない教会になっていたのです。自分が伝えた福音を受け入れてつくられた神の教会が、神の教会と呼べなくなってしまったということは、同じ伝道者としてどれほど辛いことだっただろうかと私は想像いたします。
 しかし、何ともいえない辛さを抱え、怒りと落胆の入り混じる思いの中で、パウロは、6-10節において裁きの言葉を並べ、こんなのはキリストの福音ではない、キリストの僕ではないと語りながら、しかし、一方で、正しいキリストの福音とキリストの僕の姿とはこういうものだとのはっきりした主張が、裁きの言葉の裏側に見えるのです。正しい姿に帰ってきてほしいという切実な思いが伝わって参ります。
パウロが伝えているキリストの福音に従うキリストの僕は、キリストの恵みに招いてくださった方といつも共に歩み、パウロが伝えた福音のみという生き方によって、神様からの祝福に与り続ける人のことです。そして、キリストを主人とし、いつもキリストが私たちのすべてであるということを認めるのです。
パウロは、使徒としての歩みをはじめてから、いつでも人から注目されるような立場におりました。何しろ、迫害するほどに熱心に守っていた律法主義の生活を突然捨て、代わりに、迫害していたはずの律法から自由であると説くキリストの福音を受け入れ、さらに、その福音を熱心に伝えたからです。
そんな急激な変化を見せたパウロに対して、かつての仲間はもちろん、キリストの教会の仲間であるはずの者たちからも批判を浴びることはしばしばでした。多くの人の声、特に批判の声が耳に届く中でそれでも伝道を続けることが出来たのは、パウロが人の声に耳を傾けることよりも、キリストの福音にのみ耳を傾け続け、心を捕えられていたからです。いつでもイエス様の声を聞きたいと願うほどに、心がキリストによって満たされていたのです。
ですから、ガラテヤの諸教会のように、他のものがキリストにとって代わるなどということは、考えられないことでした。まして、パウロ自身が既に捨てた律法主義を主人とすることなどあり得ないことだったのです。
しかし、ガラテヤの諸教会では、残念ながら、パウロが不在の間にパウロが捨てた生き方へ戻ろうとする人々が表れました。パウロがキリストに導かれた道を、反対に突き進もうとしていたのです。しかも、急に教会に広まりだした、福音だけでは足りず、律法も必要であるという教えに大変な憤りを感じ、対決の姿勢で臨みながら、キリストの福音について改めてオリジナルがどのようなものであるのかをパウロは伝えたのです。
ガラテヤの諸教会にはじめに伝えたキリストの福音は、キリストの素晴らしさゆえに私がかつて捨てたような教えなどではないという厳しい思いと、同時に、キリストの福音がどれほど素晴らしいものであるかを思い起こすようにとの熱意のこもった手紙でもありました。
 キリストを主人とし、キリストの僕である者は、キリストがすべてにおいてすべてとなり、責任をもってくださり、必ずよい方向へと導き救い出してくださるものだから、キリスト以外に頼ることはないと一切の付け足し、救いのためのプラスαの介入を断ち切るのです。
 そうして、キリストの福音に身を委ね切ったときに、はじめて、この6-10節の御言葉が新しく響いてきます。人間が神様の救いのご計画に少しでも何か関わることができると考えているうちは、6-10節の裁きの御言葉は不快に感じる言葉でしかないかもしれません。
けれども、これは、徹底的な恵みの言葉です。あなたの努力、あなたの行い、あなたの正しさは関係ない。あるいは、キリスト以外の誰かの努力や行いや正しさもまた、関係ありません。キリストが全て成し遂げてくださり、私たちに仕えきってくださったのです。福音がまさに福音であり、神様の恵み、一方的な贈り物であり、全ての人にとって最高の贈り物であることを知らされるならば、もう他にどんなものも付け足す必要のない、とって変わることができないものなのです。その時、6-10節のパウロの言葉が決して言い過ぎでないことがわかります。
しかし、ガラテヤの教会だけではありません。私たちにもいつの間にか別の主人に仕えてしまう誘惑があります。考えてみれば、私たちの心は、多くのものに占有されてしまいそうになることがよくあります。あらゆるものがわたしたちを誘惑し、知らず知らずのうちに、私たちの主人になろうとしています。
しかし、わたしたちの心をいっぱいにしようとする、あらゆるものはどれも、わたしたちをいつも完全に満足させることはできないのです。例えば、お金を持っていれば大丈夫と思っていても、お金の価値が変わるということがあります。人脈があれば大丈夫、そう思っていても、人は状況によって変わりますし、いずれ死によって別れが訪れます。
知識があれば、あらゆることに対応できるだろうと、学問の道を追求してみても、新しい学説が出てくるたびに、古いものが否定されて、確かなものとならない場合があります。いや誰にも頼れない、信用ならない、最後は結局自分だ、そう思っても、自分ほどうつろいやすいものはなく、やはりやがては死にゆく存在です。この世のどんなものを主人にしたとしても、どこか不完全なのです。
しかし、キリストを主人として迎えるならば、心配は要りません。神様が下さった真の主人だからです。
独り子イエス・キリストを私たちへ送った神様は、私たちが生きる世界を完全にご支配なさっています。神様の支配が完全であることは、キリストの地上の生涯においてこそ表されました。苦難と十字架の死、3日目の復活と昇天は、神様の不可能を可能にすることができるお力を注いでくださり、すべての人を救う道を開かれたのです。他に何か必要でしょうか?
キリストは信じるわたしたちの全てです。この告白がわたしたちの内にあるとき、別の福音や、別の主人は退き、呪いもまた恐れるようなものではなく、ただ、神様の喜びのもとに自分の喜びが一つとなるのです。
 イエス・キリストは私たちの永遠の主人です。私たちキリストの教会の拠り所は、使徒が去って指導者が変わっても、時を経ても、変わらないのです。キリストの福音だけが、今ここで、礼拝する私たちを生かしてくれます。キリストを主人とし、キリストの僕として、ここから、新しい歩みを踏み出したいと願います。
 祈りをささげます。
 主イエスキリストの父なる神さま、私たちを愛するゆえに、キリストの福音が届けられていることを思い感謝いたします。あなたの恵みからこぼれ落ちることのないように、キリストの福音の内にわたしたちをとどめ、生かし続けてください。キリストの僕として相応しい歩みを新しい週もお与えくださいますように。この祈りを尊き主イエスキリストの御名によってお捧げいたします。アーメン
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