2013年12月1日 主日礼拝

「ちっぽけな物差しを捨てて」 川﨑 公平 牧師

ルカによる福音書14章25-35節

 
先ほど、ルカによる福音書第14章の最後の部分を読みました。日曜日の礼拝の中で、私どもは、このルカによる福音書を少しずつ、とにかく順々に読み続けてきて、今日、第14章の最後の部分に至ったのであります。一切の前置きは不要だと思います。いったい、何という言葉かと思います。
もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
家族を憎め。それだけではない、自分の命を憎め。そうでなければ、主イエスの弟子とはなり得ないと言われるのです。今日は、少しいつもよりも率直に、私自身の思いを正直に述べるような、そういう説教をしたいと願っています。ひと月ほど前に、私どもの家に新しい家族が生まれました。長男です。先週一か月検診を終えて、ようやく今日は母親と一緒に、この場所に来ることができております。礼拝の後、改めて前に出て来て、ご挨拶をさせていただきたいと思っています。経験のある方はよく理解してくださると思いますが、このひと月、私もそれなりに忙しくも楽しい日々を過ごしました。その忙しくも楽しい生活の中で、いつも私のこころにかかっていたのは、この主イエスのみ言葉であります。息子のおむつを替えたりしながらも、ずっとこの主イエスの言葉を聞き続けました。「もし、あなたがわたしのもとに来るとしても、あなたの子どもを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」。もちろん、私は、主イエスの弟子であることを選びたいと願います。わが子を憎んででも。そもそも、洗礼を受けるということは、主の弟子になることにほかなりません。しかし、いったい、何ということかと思います。
この主イエスの言葉が私どもにとって分かりにくくなっている、もうひとつの理由は、28節以下がこれに続くことだと思います。ここで主イエスが語られたこと自体は、とても分かりやすい譬え話です。何をするにしても、まず腰を据えて、よく考えることが大事だと言っておられる。自分が損するか、得するか。ちゃんと見通しを立てて、計算をしなさい、計画的にやりなさいと言っておられる。ただそれだけのことです。塔を建てる時。十分な資金も用意せずに、無計画に、その場の勢いだけで工事を始めて、途中で資金が尽きてしまうなんてことでは困るだろう。そんなことになったら、世間の笑い者になるだけだ。これは当たり前のことです。あるいは、王が戦いを始める時。無計画に戦争を始めるなんてことは考えられない。やはり、まず腰を据えて、落ち着いて座って、よく考える。「二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか」。しかしどうもこれは負け戦だと分かったら、さっさと降参するのが賢い人間のすることだと言われる。
このみ言葉からすると、神を信じて生きる、主イエスの弟子となって生きるということは、無計画な、その場の一時の感情に動かされるようなものではなくて、むしろきちんとした計算に基づいた、冷静な生き方、合理的な生き方をする。そういうことになりそうです。しかし分かりにくいのは、この言葉が、先ほど読みました、家族を憎み、自分の命を憎んで主イエスの弟子になれという言葉に続いていることです。そして、33節ではさらにこう続くのです。
だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。
 
どうでしょうか。不思議な言葉ではないでしょうか。腰を据えて、自分が損をしないように、人生の落伍者となって笑い者にならないように、よく計算して、だからこそ、その計算に基づいて、持ち物の一切を捨て、家族を憎み、自分の命を憎み、十字架を背負って、十字架というのは処刑のための道具ですから、つまり自分を殺して、主イエスに従う。それが合理的な計算に基づく生き方だと言われる。これはまことに厳しいということを通り越して、不可解な言葉だと思います。
しかも主イエスは、25節にあるように、「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた」、つまり、一部の特別な弟子たちに向かって言われたのではないのです。群衆のための言葉。それは言い換えれば、すべての人が聴くべき言葉がここにあるということです。ごく一部の、特別な献身者のための言葉ではないのです。およそ人間が、人間としてまともに生きるために、きちんとした見通しをもって生きることができるために、ここで主イエスは振り向き、群衆に向かって言われたのです。
しかしどうも、私どもがする計算は、主イエスの計算とは答えが違っているようです。どこかで計算間違いをしているのです。しかしだからこそ、主イエスがこのように語りかけてくださっているとも言えます。ちょっと、落ち着いて一緒に座ろう。慌てると間違うから。もう一度、わたしと一緒に計算をしてみよう。あなたの人生が、とんでもない失敗にならないように。それは、今日の私の説教の題で言い換えるならば、「ちっぽけな物差しを捨てて」、主イエスが見せてくださる、もっと大きな物差しで、もっと大きな見通しに立って、自分の人生を作るということであります。
そこで改めて、何と言っても分かりにくいのは、「憎む」という言葉だと思います。これが神の教えだと言われると、たとえば少しでも聖書を知っている人間は、それはおかしい、聖書は隣人愛を教えているはずではないかと反論したくなると思います。それは確かにその通りです。ついでにここで、一応、念を押しておくと、ここで主イエスはただ「家族を憎め」と言われたのではなく、「自分の命を憎む」というところまで語っておられる。ということは、たとえば、親を憎んで、親に徹底的に反抗する、わがままな子どもの態度がほめられているわけではありません。自分の命まで憎む。子育てが面倒になって、赤ちゃんを車の中にほっぽり出してパチンコに夢中になっている親の姿を主イエスがほめておられるわけではない。ゆがんだ自己愛が勧められているわけではないのです。自分の命まで憎むのです。しかしそれにしても、分かりにくい言葉です。
そこで、多くの学者が教えてくれることは、この「憎む」という言葉は、たしかにギリシア語ではそのようにしか訳し得ない言葉ですけれども、これは旧約聖書のヘブライ語にさかのぼって理解しなければならないということです。一切の説明を省略せざるを得ませんが、ギリシア語では「憎む」と訳すほかない言葉、しかしその背後にはヘブライ語の言葉があって、そこには必ずしも、悪意があるとは限らないと言われるのです。「憎らしく思う」という意味ではない。たとえば「捨てる」とか、「断念する」とか、「より少なく愛する」とか、さまざまな解釈が提案されます。そのような理解に基づいて、以前の口語訳聖書では、「憎む」の代わりに「捨てる」と訳されました。そうすると、33節の「自分の持ち物を捨てる」という言葉ともつじつまが合います。なるほどと思いました。そこでまた、私の正直な思いを申しますと、私の参照したすべての註解書がそういう説明をしてくれていて、ちょっとほっとしたのです。ああ、よかった、憎まなくていいんだ。これで安心して、子どもと一緒にお風呂に入れる。しかし、それもまたおかしなことです。それこそ、落ち着いてよく考えていただきたい。「子どもを憎みなさい」というのと、「子どもを放棄しなさい」というのと、どちらがきついでしょうか。「奥さんを憎みなさい」というのと、「奥さんと別れなさい」というのと、どちらが厳しいでしょうか。
しかも問題は、憎むか、捨てるか、というようなことではありません。主イエスの弟子になるということです。家族との絆、財産との絆も断ち切って、自分の命との絆まで断ち切って、主イエスの弟子になりきる。ここでは、中途半端は許されない。主イエスも大事だが、家族も大事、財産も大事、何より自分が大事、どっちも大事、それでは困る。すべてを断ち切って、ただ主イエスに従う。それが賢い人間の生き方だ。正しい計算に基づく人生の作り方だ。なぜなのでしょうか。なぜ、ここまで言われるのでしょうか。
創世記第22章を併せて読みました。アブラハムとイサクという、親子の物語であります。アブラハムと、その妻の名はサラと言います。この夫婦には、ふたりが100歳と90歳になるまで子が与えられなかった。子どもがいないことを悲しむ心さえ、忘れていたかもしれません。けれども、そういう時に、突然神の声が聞こえました。「アブラハムよ。あなたの妻は、子どもを産むであろう。その子をイサクと名付けなさい」。「イサクの子どもも、そのまた子どもも、あなたの子孫は、わたしが祝福する」。確かな約束の言葉を聞かせていただいたのであります。そのように与えられたイサクのことを、この夫婦はどんなにかわいがったかと思う。けれども、この創世記第22章で、改めて神の声が聞こえてくる。あなたのひとり息子イサクを、「焼き尽くす献げ物としてささげなさい」。
私は、この1週間、この創世記第22章の朗読の練習を何度もしなければならないと思いつつ、遂に一度もできませんでした。練習でもしないことには、とても礼拝でうまく読めそうもないと思ったからです。けれどもつらくて読み続けることができない物語だからです。もちろん最後には、思いがけない結末が待っていて、イサクは焼き殺されずに済む。しかしアブラハムにとっては、イサクが助かるなどという保証はなかったのであります。そんな保証はないまま、息子を焼くための薪と火と、また息子を切るための刃物を持って、三日間の旅を続けたのです。まことに厳しい話です。アブラハムにとって、子どもを憎み、自分の命までも憎むということは、まことに現実的な意味を持ったのであります。
しかし、私はなお、さらにこの旅の帰り道のことを想像する。この親子は、どういう会話を交わしながら家に帰ったのだろうか。いやあ、あの時はほんとに驚いたねえ、などと、のんきな話はできなかったと思います。ちょっと親子の間が気まずくなりはしなかったかと、心配になるほどです。けれども、それだけに、これが神の出来事だったのだということを、一生忘れることはなかったと思います。
ある神学者がこういうことを言っています。「山を下りるとき、再び以前と変わらないような現実が現われたかに見える。けれども、アブラハムが神から頂いたイサクは、新しい存在となっていた。すべてが新しくなったのだ。この親子の間に、キリストが割り込んで来られたのである」。なぜここに突然、キリストの名が記されるのであろうか。これは旧約聖書の話、まだキリストが登場するのは早いということになりそうです。ここからは私の推測ですが、イサクの代わりに、神が用意してくださった一匹の羊がささげられることになった。その羊とは、イエス・キリスト、十字架につけられた御子キリストのことを意味するのだという解釈が、伝統的に行われてきました。そのことを意味しているのかもしれません。
そのキリストが、私どもの間に割り込んで来られる。それは言い換えれば、一度その絆を断ち切ることを求められた自分の息子を、もう一度、十字架につけられたお方の手から受け取り直すということです。そのことによって、すべては新しくなった。そこで先ほどの神学者は、またこうも言います。アブラハムはもはや、イサクを絶対化することはない。神の約束による子といえども、絶対的な存在にはなり得ない。絶対なのは、神だけ!
その神学者の言葉を読みながら、私はだんだんと、なぜ主イエスが「憎む」とまで言われたのか、そのみ心が分かってきたような気がしました。やはり強烈な言葉です。それを「捨てる」と言い換えようが、どう解釈して見せようが、その厳しさが和らぐことはありません。なぜそこまで言われるのであろうか。私どもが非常にしばしば、間違った仕方で、家族や財産を絶対化するからだと思います。まさにそこで、私どもがとんでもない計算間違いをしてしまうことを、主イエスはよくご存じだったのだと思います。
絶対化するというのは、もっと現代的な言葉で言えば、「依存する」と言ってもよいのです。杖に寄りかかるように、家族や財産に依存するのです。なぜかと言えば、この親、この妻、この子どもがいてこその自分だと思い込むからです。この人との縁が切れたら、自分はどうなってしまうだろうかと思うからです。しかし実際には、依存しようとしてもなかなか自分の思い通りにはいきません。そこでまた苦しみ悩みが深まります。実は、家族に依存しようとしながら、ただそれに捕らわれているだけ、それどころか、実はただ自分の描いた幻の理想の家族に寄りかかっているだけのことだってあるのです。こういう親であればいいのに。こういう息子であればいいのに。それに寄りかかり、依存するところに、たとえば、親が子に暴力を振い、子が親に暴力を振うという悲しいことも起こるのです。その杖を捨てる。そこから手を放す。そうしなければ救われない私どもであることを、主イエスはよくご存じだったのだと私は思います。それが、「憎む」ということです。自分の命までも憎むのです。けれどもそこに、キリストが割り込んで来られる。私どもは、このお方の弟子になるのです。そこに、まことに確かな人生の計算が成り立つ場所があります。
このお方、イエス・キリストというこのお方は、何者なのでしょうか。もう一度申します。このお方は、十字架につけられたお方。イサクの代わりに、神が用意してくださった犠牲の小羊。このお方によって私どもは生きる。そしてこのお方によって私どもの家族をもう一度新しく受け取り直すのです。
このひと月の間、思いがけず、新しく与えられた子どもと過ごしながら、このような聖書の言葉を聴き続けることができたことは、やはり不思議な導きであったと言うほかないと思います。まだ首も座らないような息子のおむつを替えたりしながら……皆さんの中に、川﨑が本当におむつを替えたりするのだろうかというような、疑いの心を抱いておられる方が多いようですが、一応、ひと通りのことはしております。特にお風呂に入れるのは私の役割で、かなり早い段階から、毎日、大人の湯船に一緒に入っています。やっぱりかわいいものです。私の小さい頃にそっくりです。特に、湯船につかっている時のリラックスしきった顔が、いちばん私の小さい頃に似ていると思っています。本当に気持ちよさそうな顔で、時々、湯船の中で、ブクブクブクっと、おならをします。その臭いまでいとおしいものです。
しかし、そこで思うのです。神のみ子イエスもまた、このようなお姿をとられたのだと。今年も、クリスマスが近づいてまいりました。今日からアドヴェントの星、ヘルンフートの星と呼ばれる星がこの建物にも輝き始めました。神が人となられたのです。小さな幼子となられたのです。そのことを祝って、いろんなところに送るクリスマスカードの署名を、皆さんにもお願いしています。そのカードに、いつも私が代表して聖書の言葉を書きます。今年は、ヨハネの手紙Ⅰ第4章10節を書きました。
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
神が御子をお遣わしになった。私どものところに。私どもの罪を償う、いけにえの小羊として。それは何を意味したか。このお方は、馬小屋にお生まれになったのであります。わが家の赤ちゃんが、お腹がすいたと泣いているのを見ながら……「子どもを憎まないなら、わたしの弟子ではあり得ない」。そうか、それなら少し放っておいた方がいいかな、などと考えたことは、もちろん一度もありませんが……しかし考えてみれば、神は、もっとひどいことをなさったのであります。ご自分のひとり子を、この地上に生まれさせられた時に、まさにこのルカによる福音書が印象深く伝えていることは、この幼子イエスとその母マリア、父ヨセフの泊まる部屋はなかったということであります。誰の計画によるでもない。御子イエスの父であられる神が、そうなさったのです。そして、このお方が、やはり父なる神のみ心に従って、十字架につけられて、殺されたのであります。
神は、わが子イエスを憎まれたのだろうか。そう言ってもよいのかもしれません。驚くべきことであります。しかしまさにそこに、神の愛が現れたのであります。「ここに愛がある」と言えるようになったのです。そして、その神が、十字架で殺された主イエスを死者の中から甦らせてくださった時、それは、神の愛の勝利を意味したのであります。この神の愛が、アブラハムとイサクの間に割り込んで来られたように、私どもとその家族の間に割り込んで来る。私と財産の間に、私と私の命の間にさえ、この神の愛が割り込んでくる。この神の愛を、私どもも自分の人生の計算に入れるのです。それにすべてを委ねきるのです。この神の愛を計算に入れないことほど、大きな間違いはないのであります。そのことを、ここで私どもは学び直すのです。
ここでも私どもは、あのハイデルベルク信仰問答、450年前に書かれたあの信仰問答の最初の言葉を思い起こすことができると思います。生きるときにも死ぬときにも、決して変わらないただひとつの慰めがある。それは何か。生きるときも死ぬときも、体も魂も、もうわたしはわたし自身のものではないということです。そこから手を離すのです。わたしはもうイエス・キリストの所有。それがわたしの、ただひとつの慰めです。死を越える慰めであります。死を越える計算が成り立つのです。そこに私どもにとってかけがえのない利益、かけがえのない慰めがあるのです。
まだ34節以下の言葉を読んでおりません。しかしこのところについては、もう多くの言葉を重ねる必要もないと思っています。
確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。
主の弟子になるということは、塩になるということです。あなたがたは、地の塩であるという、マタイによる福音書第5章、あの山上の説教に伝えられている主イエスの言葉を思い起こしてもよいのです。塩とは何か。塩は、自分自身のために生きるのではありません。料理を作るにしても、塩そのものの味が主張するようなことになったら、すべてが台無しです。それと同じように、もう私どもは、自分一人のために生きることをやめました。ただひたすらに、主のために生きる。そしてそのような私どもの存在こそが、この地にあって、確かな慰めをもたらす、役に立つ存在になるのだ。あなたの家族にとっても、あなたの存在がかけがえのない存在になるのだ。そう主イエスは言われるのです。自分の命からも、自分の財産からも、そしてもちろん自分の家族からも自由になって、ただひたすらに主のために生きる。そのような私どもの存在を通して、神は、ここに愛があるということを証し立ててくださる。あの星がまことに麗しい光を放っているように、私どもも、そしてこの教会も、そのような存在とさせていただいていることを、もう一度私どもの確信として受け入れ直したいと願います。お祈りをいたします。
主イエスよ、どうぞあなたの弟子にしてください。あなたの弟子にふさわしい歩みを造ることができますように。すぐに偽りの主人の奴隷になってしまう私どもの心の弱さをどうぞ憐れんでください。必要ならばすべてのものを憎んででも、あなたの御心に従い抜くことができますように。そのようにして今ここに立てられているあなたの教会を、改めて御前にささげます。塩味を失うことなく、確かな光を放つ存在として、ここに生かしていただくことができますように。主イエスの御名によって祈り願います。アーメン
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