2014年1月19日 主日礼拝

「富はあなたを救えるのか」 川﨑 公平 牧師

ルカによる福音書 16章14-31節

 
先ほど読みましたルカによる福音書の記事のうち、19節以下は、〈金持ちとラザロの譬え〉と呼ばれます。主イエスという方は、たくさんの譬え話を創作なさいましたけれども、そのひとつであります。この譬え話が、どのようなところから始まっていたかというと、今日は少し長く、14節からを読みましたけれども、さらにその前、たとえば少なくとも13節の後半までさかのぼらなければならないと思います。
 あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
 神の僕になるのか。富の奴隷になるのか。両方は、無理だよ、と言われたのであります。そのような言葉で結ばれる主イエスのお言葉を聞いて、あざ笑った人たちがいたというのです。「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」。なぜ「あざ笑った」のでしょうか。そしてもうひとつ、このファリサイ派という人たちは、神に対する生活の態度を厳しく律した人たちですけれども、なぜその人たちがここでは「金に執着するファリサイ派」と呼ばれているのでしょうか。いずれにしても、そのようなところで語られた譬え話であります。
譬え話の筋書きそのものは、非常に単純明快であったと思います。ある金持ちがいた。そのお屋敷の門前に、ラザロという名前の、体中できものだらけの病人が横たわり、この金持ちの家から出る食べ残しで何とか生き延びていたというのです。けれども、このラザロが遂に死んでしまう。「天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた」と言います。
「アブラハムのすぐそば」というのは、まあ言ってみれば天国ということでしょうけれども、新共同訳以外のほとんどの日本語訳の聖書は、「アブラハムのふところ」と訳しています。この「ふところ」とも訳される言葉が何を意味するか、ものの本によりますと、座っている人が膝の上に子どもを抱くときに、膝の上から胸までの空間を指す、などという説明を読むことができました。つまりたとえば、なんだまたあの話かと言われそうですが、最近私は以前に比べると、家で仕事をすることが少し増えました。こたつにもぐってあぐらをかいて、パソコンに向かい合っていたりします。そろそろ3か月になるという息子がいますから、ぐずぐず言い出すことがある。そうすると、あぐらをかきながら、その膝の上に寝かせると、たちまちごご機嫌になるということが起こります。けれどもまたしばらくすると、ぐずぐず泣き始める。そうするとパソコンでの作業はあきらめて、縦に抱っこする。そういうことをしながら、ああ、なるほど、このあたりがここで言う「ふところ」か、などと納得しながら聖書の解説を読みました。信仰の父、アブラハムのふところであります。聖書における神の祝福の根っこには、このアブラハムという人がいる。そのふところに抱かれるのであります。
ところが、金持ちの方はというと、「陰府でさいなまれながら」、まあ言ってみれば地獄に落ちたわけであります。おもしろいのは、その地獄から、天国の様子が見えたというのです。アブラハムのふところに、横抱っこか縦抱っこか分かりませんが、抱かれているラザロの顔が見える。ああ、あれはうちの前にいたあいつじゃないか。どうしてあいつがあんな場所に。そこからアブラハムに頼みます。「わたしを憐れんでください」。しかしアブラハムは答える。「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない」。
橋は、架からないのだ。この淵は、超えることができないのだ。この言葉を捉えて、ある神学者がこういうことを言っています。いや、もともとそこには橋が架かっていたのではないか。できものだらけのラザロが、金持ちの家の前で物乞いをしながら、必死に訴えていたのではなかったか。言葉にならない訴えであります。けれどもそのラザロのみじめさそのものが、金持ちに激しく訴えていたのではなかったか。ラザロは、絶望的に待ち続けていたのだ。けれども、誰も自分のところに渡って来てくれる人はいなかった。ただ犬が自分のできものを舐めるためにやって来ただけ……。しかし、だからこそ今は、この金持ちからラザロのところに行くための橋も架からないのだ。そこで、お前はもだえ苦しみ続けるのだ。そう言われるのであります。
厳しいみ言葉であります。こんな厳しい言葉が聖書にあったのかと、いぶかる方があったとしても、不思議ではないと思います。なぜ、主イエスは、このような物語を創作なさったのでしょうか。その主イエスの思いは、いかなるものであったのでしょうか。
そのことについて、ひとつ多くの学者たちが教えてくれることは、実は当時、これに似た物語が、しかもいくつも知られていたということです。その起源をさかのぼると、おそらくエジプト、つまり聖書の世界の外からやってきたおとぎ話ではないかと言われます。それがいつしか聖書の信仰を持ったユダヤの人にも伝えられ、いろんな似たような物語を生むことになった。たとえば、こういう物語があったそうです。金持ちの徴税人と、貧しい律法学者が同じ日に死んだ。徴税人は、生きている間、多くの不正を働き、それだけ多くの財産を築き、その葬儀もたいへん立派なものであった。けれども律法学者は、神の掟に忠実に生きようとしましたから、どうしても徴税人のような財を築くというようなわけにはいかなかった。貧しい生活を強いられた。その葬儀もまた残念ながらたいへん寂しいものであった。けれども天国に行ったら、この律法学者は豊かな川のほとりで、いくらでも水を飲むことができた。しかし徴税人は、その水を目の前にしながら、飲むことができず、渇きに苦しみ続けたというのです。
このような物語を、特にここに出てくるファリサイ派と呼ばれる人たちは、好んで聞いたり語ったりしたに違いない。こうした物語によってもまた、自分たちの正しさを確信していたに違いないのです。私どもはしかし、そういう確信をもってこの物語を読むことができるか、どうか。そういう問いを問いながら、改めてこの主イエスの譬え話に耳を傾けると、主イエスの譬え話には、たとえば今ちょっと紹介した物語にはない特質があることに気づきます。
そのひとつは、なぜ金持ちが地獄に落ちたか。その理由がはっきりしないということです。そして、なぜラザロがアブラハムのすぐそばに行くことができたか、その理由も書かれていないのです。先ほどの話もそうですが、徴税人は不正を働いたから地獄、律法学者は神の掟に忠実だったから天国。私どももそういう話ならいくらでも思いつく。しかしこの主イエスの譬えでは、この金持ちが不正を働いていたなどということはひとつない。主イエスが語られることはもっと単純です。「あなたは生きている間、良いものを受けた。だから、今はもだえ苦しむのだ」。「ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められるのだ」。ただそれだけ。非常に単純です。単純なだけに私どもは戸惑うと思います。たとえば、それならどのくらいの財産までなら許されるのでしょうか。イエスさまが皆さんの預金通帳の額をじーっとご覧になって、このあたりが天国と地獄の線引きかな、などとおっしゃるのだろうか。どうも話がおかしくなってきたと、すぐにお気づきになると思います。
多くの人がそこで考えたもうひとつのことは、この金持ちは愛が足りなかったからこうなったのだ。自分ばっかり贅沢していると地獄が待っているぞ。だから、そういうことにならないように、貧しい人のことも考えましょう、施しをしましょう、募金をしましょう、愛のわざに生きましょう。もちろんそのこと自体は悪いことではありません。むしろ聖書の教えに沿うことでもあります。けれども、それがこのラザロの物語が教えていることだと考えると、やはり少しおかしなことになると思います。どのくらいの金額をささげればよいのでしょうか。全財産をささげなければだめでしょうか。せめて全財産の半分ぐらいで許してもらえないでしょうか。しかし、死んでから初めてイエスさまに、「いやー、ちょっとあなたの施しは足りなかったよ」などと言われたら困ります。しかし、そのことについて、誰も教えてはくれません。そもそも、ラザロが神の掟に忠実に生きたから救われたなどということも、ひとつも書かれていないのです。
そういうことを考えているうちに、私がふと思ったことがある。この金持ちの家の門前に、できものだらけの物乞いがいたと言われます。私どもは、そういう状況を許すでしょうか。「その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと」、つまり、自分の家の前に、我が家の残飯を待ち構えている人が住み込んでいる。そんな人がいたら、あわてて警察に通報するのではないでしょうか。むしろ私どもが願っていることは、こんなラザロのような人間がひとりもいないような高級住宅街に住むことではないでしょうか。しかしこの金持ちは、ラザロと面識があったようです。アブラハムのふところに抱かれているラザロを見て、ああ、あれは、家の前にいたあいつだと、分かったのであります。だから、なかなかこの金持ちにも感心すべきところがある、などと言っている場合ではないことは、もちろん明らかだと思います。
繰り返しますが、主イエスの語られた譬え話はもっと単純なものです。この金持ちは良いものをもらっていた。ラザロは悪いものをもらっていた。だからラザロは慰められ、金持ちは、もだえ苦しむのだ。それだけです。だからこそ、私どもは戸惑うのです。ここで富について語られている主イエスの言葉は、もっと、ずっと厳しいと思う。主イエスよ、なぜこういうことをおっしゃるのですか。こんなこと言われても困ります。
しかし主イエスはこう言われたのであります。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。そのことを、もっとよく考えてほしいと言われたのであります。
14節に「金に執着するファリサイ派の人々」という言葉がありました。直訳すると、「金を愛するファリサイ派」という言葉です。これはまずファリサイ派の人々自身にとって、思いがけない評価であったと思います。誰よりも信心深い、神を愛する人間だと、自他共に認めるところであったと思う。けれどもその人たちを、金を愛するファリサイ派と呼ばれなければならなかったのはなぜか。しかしそこでも私どもは、自分はどうだろうかと問わないわけにはいかないと思います。
こういうことを聞く時に、私どもが実は、心の中ですぐに考え始めることがあると思います。金持ちはこうなる、貧乏人はこうなる、という話が始まる。そうするとすぐに私どもが考えることは、特に教会の礼拝に来るようなわれわれクリスチャンが考え始めることは、欲張りな金持ちだと、人に思われたくないということです。そして冗談半分にでも、いやー、うちの猫の額のような庭が、などということを口にしたりします。自分の財産をそれなりに確保しながら、しかもそれなりに善行に生きているそぶりを見せたがるものです。しかも、このラザロのようにだけは、絶対になりたくないのです。そういう私どもの心をまるで見抜くかのように、15節でこう言われました。
あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。
他の人に欲張りと言われるか、どうか。そんなことは問題にもならないのであって、問題はあなたがたの心だ。しかもその心とは、自分は自分の心を知っている、周りが何と言おうと、自分は自分の良心に恥じることのない生活をしているのだ、というようなことではなくて、神さまが知っておられる自分の心です。神さまは、あなたの心を知っておられる。その神の見ておられるところで、あなたは神を愛していないではないか。やっぱりどこかで金を愛し続けているではないか。そのことを、神は見抜いておられるのだ。ファリサイ派の問題はそこにあると言われる。私どもも同じではないでしょうか。
けれども、神は、それでも、私どもを愛しておられるのです。その事実から目を逸らすな。
ラザロという名前の貧しい人がいた、と主イエスは言われます。何気ない描写のようですが、ここにひとつ際立っていることがあります。主イエスは、たいへん多くの譬え話を創作なさいましたけれども、譬え話の登場人物に名前がついているのはこのラザロだけです。主の譬え話の中には、たとえば兄と弟が出てきたり、主人と召使いが出てきたりしますけれども、ここだけは、この人はこういう名前だったのだと、主が物語の中の人物に命名しておられる。このラザロだけです。なぜこういう名前をつけられたのだろうか。
このラザロという名前は、旧約聖書のヘブライ語で、エルアザルという名前に対応するようです。私はヘブライ語にあまり自信がないのですが、「神は助ける」、あるいは「神は助けた」というのが元の意味だそうです。
親が子に名をつけるとき、それなりの深い思いを込めるものであります。こういう子になってほしいという願い、いや、あるいは、あなたはこういう存在なのだ、という思いを込めて名をつけるものだと思います。主イエスはここで、心からいとおしむような思いで、「その名はラザロ」と、その名をお呼びになったのではないか。「神は、あなたを助ける」。神は、あなたを助けたいのだ。このたとえを聴く、私どもひとりひとりをいとおしむような思いで、親が、まだ小さい子どもを抱きしめるような思いで、「その名はラザロ」と名付けたのではないでしょうか。「あなたはラザロ」と、今、呼びかけられている私どもであることに、気づくべきであります。
主イエスはここで、ほとんど極端なほどに、ラザロの悲惨をお語りになります。恐ろしいほどです。ラザロを助ける者は、ひとりもいなかったのです。けれども、このラザロを、神が助ける。ラザロのことは、わたしイエスが助けるのだ。主イエスの決意がにじみ出ているような譬え話だと私は思います。
そして同じ譬え話に、金持ちが出てくる。この金持ちもまた、どこか私どもの姿に似ているものだと思います。そこでこの金持ちが忘れていたこと、それはただ自分が神の助けによって生かされていること、神の憐れみなしに生きることができない者であることでしかないのです。富というものは、この「神の助け」を忘れさせる力を持っている。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。
この「富」と訳されている言葉は、それに先立つ第16章の9節にも11節にも同じ言葉が出てきますが、元の言葉を発音すると、「マモン」(正確にはマモーナース)という言葉です。ただのお金というよりは、偶像の臭いがします。私どもが持っているお金というものは、いつもどこかそういう力を持っているものだということだと思います。もうひとつ興味深いことは、「神と富とに〈仕える〉ことはできない」と訳されている言葉は、むしろ「奴隷になる」と訳した方がよい言葉です。私どもを奴隷にするのです。
このマモン・富というのは、金銭に限りません。幸せな家族。頼りになる友人。健康な体。豊かな心。このラザロが持っていなかったもの、すべてが、マモンです。そういったもの、すべてをなげうたないと天国に行けないとか、そんな話ではない。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。富の奴隷になるな。なぜかと言えば、あなたを助けるのは神だからだ。神は、あなたを助けたい。神は、あなたを愛しておられるのだ。そのことを忘れさせるような偶像に縛られているならば、どうかそこから解き放たれてほしい。私どものこころに強く迫ってくる主のお姿がそこに浮かび上がってまいります。そして、この神の助けを無視する時、私どもには滅びしか残っていないのだということを、深くわきまえるべきであります。
ところで、この譬え話にはなお続きがありました。もだえ苦しむ金持ちが、なおその苦しみの中から、ひとつの願いをいたします。
父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。
もしかしたら私どもはここまでのところで、自分はラザロの側にいるのだろうか、それとも金持ちの方だろうか、という読み方をしてしまったかもしれません。しかし厳密にはそうではないということに、ここで気づかされます。厳密には、私どもが今立っているのは、この五人の兄弟の場所なのです。なぜかというと、私どもはまだ生きているからです。だからこそ、今警告を聞かされているのです。
この金持ちの願いに対して、しかしアブラハムは答えます。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」。ラザロが行くには及ばない。モーセと預言者が、既に伝えるべきことは全部伝えてあるはずだ。この「モーセと預言者」というのは、言い換えれば、「聖書が与えられているではないか」ということでしょう。改めて思います。この聖書という書物が、何を語っているのか。ただひたすらに、神はあなたを助ける、そのことしか語っていないのではないか。そのために与えられている、神の言葉であります。富の奴隷になるな。富があなたを助けるなどと思うな。神があなたを助けるのだ。聖書を読めば分かるはずではないか。けれどもこの金持ちは食い下がります。
金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう』。アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう』」。
この最後の言葉は、多くの人を戸惑わせてきた言葉だと思います。なぜかと言えば、主イエスはお甦りになったからです。不思議な言葉です。このルカによる福音書がやがて、主イエスはお甦りになったのだということを鮮やかに伝える。けれどもその知らせを聞いたのに、むしろそのためにかえって、途方に暮れてしまったふたりの弟子が、エマオという村に向かってとぼとぼと歩いていく姿をルカは伝えます。そのふたりに主イエスが近づいてくださった。しかしまだ分からない。「死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしな」かったのであります。そのふたりのために、主イエスが何をしてくださったか。「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」。そして、わたしイエスが甦ることは、確かな神の御意志に基づくことだということを明らかにしてくださったのであります。そして、このふたりの目が開かれ、ああ、このお方はお甦りになった主イエスだと分かった時、主イエスのお姿は見えなくなったというのです。そしてこのふたりは、こう語り合いました。「あのお方が聖書を説き明かしてくださった時、われわれの心は、既に熱く燃えていたではないか」。よく分かったのです。聖書が分かったのです。そしてそのときに、「神はわれわれを助けてくださる」という、死を越える望みが与えられていることを心深く刻むことができたのであります。けれども、そのことを権威をもって教えてくださる方は、このお方のほかに誰もいなかったのであります。
お甦りの主が、聖書を説き明かしてくださいました。今は私どもも悟りました。神は、このわたしを助けたいのだ。もう滅びを恐れる必要はありません。富の奴隷になる必要もありません。私どもにもまた、ラザロという名が与えられていることを、確信をもって受け入れたいと思います。お祈りをいたします。
神よ、あなたの御心を、感謝をもって受け入れさせてください。私どもを助けてくださるのは、神よ、マモンではなく、あなたです。どうぞひたすらに、そのあなたに仕える者とならせてください。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン
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