2013年6月16日 主日礼拝

 「恐れの消えるところ」 川﨑 公平 牧師

ルカによる福音書第12章13-34節

 
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか」(22-24節)。
何度でも、そしていつまでも聴いていたいと思わされる主イエスの言葉です。こういう聖書の言葉と出会うことができる。こういう言葉を語りかけてくださるお方と、出会うことができる。さいわいなことだと思います。
「思い悩むな」。「何を食べようか、何を着ようかと思い悩むな」。そう主イエスは言われます。ただ皆さんの中には、この新共同訳聖書が出る前に用いられていた「思いわずらうな」という翻訳に親しんでおられる方も多いと思います。私もそうで、おそらく今日の説教の中でも、よほど注意していないと「思い悩むな」という言葉はとっさには出てこないと思うほどです。そのように私どもの心に染み込んで離れない言葉になっている。それだけの力を持った言葉なのだと思います。
もう10年以上前のことになりますけれども、私が神学校を卒業して、初めて教会の伝道者として赴任してまだ数か月という頃に、この主イエスの言葉を、ただしマタイによる福音書の方で説教したことがありました。礼拝の後で、教会のある方が(念のために申しますけれども、私の説教に対する感謝を述べてくださった上で)、「でも先生、それにしたってやっぱり思い煩いはありますよ」と言われたことがありました。これだけ聞くと、どうも説教の批判のようですけれども、私はいやな気持ちはしませんでした。こういう感想を率直に述べてくださる信頼関係ができていることを、とても嬉しく思いました。「先生、それにしたってやっぱり思い煩いはありますよ」。そう言われた方の表情が本当に明るかったのは、このような言葉を、わたしに語りかけてくださるお方がおられる。思い煩っているこのわたしに。その事実のありがたさに気づいたからだと思いました。たちまち悩みが消えることはないかもしれない。日々の労苦は、相変わらず続くかもしれません。けれども、主イエスは生きておられます。今、皆さんにも語りかけてくださいます。「あなたは、思い煩っているね。わたしには分かっているよ」。そのように私どもの思い煩いについて慮ってくださる方が、おられるのです。私が説教の初めに改めて思うこと、改めて願うことは、このお方との新しい出会いが、今日ここでも起こるように、ということであります。
ところで、先ほども申しましたように、このルカによる福音書第12章22節以下の主イエスのお言葉は、新共同訳ではますますはっきりしますけれども、マタイによる福音書第6章にも同じような言葉が記されています。むしろ、マタイ福音書のほうが有名かもしれません。〈山上の説教〉と呼ばれる有名な主のお言葉のひとつとして覚えられています。実は、先週の木曜日に婦人会の例会があり、そこではマタイによる福音書第6章のほうで、この「思い悩むな」という主イエスのお言葉を説きました。その意味では、私はこの一週間、マタイによる福音書、ルカによる福音書とふたつの福音書を通して同じような主の言葉を聴き続けていたようなところがあります。読み比べると分かりますが、かなりの度合いで似た言葉が記されています。しかしまったく同じではありません。ルカだけが伝えている言葉もあります。それだけにルカが、心を込めて伝えたかったに違いない言葉、それが32節です。
小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
これも言い換えれば、「あなたは恐れているね」と聞き取ることができる言葉です。主イエスが心を込めて、何としても私どもに言わなければならないと思われたこと、それは〈恐れ〉です。「あなたは恐れているね」。「恐れるな、小さな群れよ」。あなたが小さいことを恐れるな、あなたが弱いことを恐れるな、あなたが貧しいことを恐れるな、と言い換えていくこともできると思います。そして主イエスは既に、この第12章の前半の方でも、同じようなことを言われました。
友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない(4節)。
それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている(7節)。
主イエスという方は、いろんなことを語られました。けれども、主イエスの語られた言葉の中で、何と言ってもいちばん多く繰り返されたことのひとつは(こういうことはなかなか統計を取りにくいものですけれども)、「恐れるな」ということであったと思うのです。いったい福音書の中に、何度この言葉が繰り返されることでしょうか。主イエスはよくご存じだったのだと思います。恐れというものが、人間をどんなに損なってしまうことか。人間をどんなに駄目にしてしまうか。「あなたは恐れているね、怖がっているね」。「恐れるな」。このわたしが、あなたの恐れを取り除く、という宣言の言葉としても聴き取ることができると思います。この恐れというものを癒すことこそ、人間にとって最も大切なことのひとつだとお考えになったに違いない。
そしてここで、主イエスが「恐れるな、小さな群れよ」と言われたときに、もちろんそこにいるすべての人にそう語られたのだと思います。第12章1節に、「群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった」と言われる、そのすべての人にお語りになったのだと思います。しかし他方から言えば、おそらく主イエスは、ひとりの人の心を目指してこの言葉をお語りになったとも言えると思います。「わたしは、あなたに語りたいのだ。恐れるな」。そういう主の強い思いがあったに違いないと私は思っています。そのひとりの人というのは、13節に出てくる人のことです。もともと主イエスがこのような言葉をお語りになったのには、13節で、ひとりの人がこういうきっかけを作ってくれたことによるのです。
群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。
遺産分配のことで悩んでいる人がいた。それこそ、思い煩っている人がいた。事柄としては、説明抜きに分かります。昔も今も変わらないのだなと思います。財産をどう分けるか。そのために、それまで仲の良かった兄弟がたちまち決裂してしまうという悲しい現実を、昔も今も私どもは知り続けているのです。そしてこういう問題は、はたから見ると実に愚かな姿を見せるもので、兄弟と決裂してまで得る財産に、どれほどの価値があるかと第三者は思いますけれども、いざそういう問題が自分の身に降りかかって来ると、たちまち夜も眠れないほどの悩みとなって自分の心を支配するものです。それにしてもこの人は、よく思い切って、こんな相談を主イエスにしたものだと思います。主イエスの話を何となく聞きながら、もしかしたら、「恐れるな」という言葉がふっと心に入って来たのかもしれません。ああ、この人になら自分の悩みを理解してもらえるかもしれない。そして思い切って申しました。「先生、遺産をわたしにも分けてくれるように、わたしの兄弟に、先生からおっしゃってくださいませんか」。
なぜこういう相談事が主イエスのところに持ち込まれたか、そのこと自体を不思議に思われる方もあるかもしれません。しかし、当時としては特に珍しいことでもなかったようです。主イエスもここで「先生」と呼ばれていますから、律法の教師、宗教的な指導者と目された方でした。そして当時は、遺産の分配とか、離婚の相談とか、そういうことを、こういう律法の教師に相談するというのが、ごく普通のことであったと言われます。けれどもそれだけに、この人がびっくりしたに違いないことは、その律法の教師である主イエスが、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」と、実に厳しい態度でその依頼をお断りになった。けれどもそこで主イエスは、その人の依頼は断りながら、その人の存在を拒絶するようなことはなさらず、もっと根本的な解決を与えようとしたのだと思います。そこでひとつのたとえを語られました。
15節で、「そして、一同に言われた」と言います。もちろんその「一同」の中に、財産問題で悩んでいたこの男も含まれています。そして、もちろん、主イエスはこのひとりの人の心に届くことを何よりも願って、この「愚かな金持ちのたとえ」と呼ばれる話をお語りになったのだと思います。そして最後に言われるのです。「小さな群れよ、恐れるな」。主イエスが、相続のことで悩んでいた男の心の内にも見ておられたのは、恐れであった。「あなたも恐れているね。財産を兄弟に取られることを恐れているね」。「小さな群れよ、恐れるな」。自分が小さいことを恐れるな、軽んじられることを恐れるな、財産を取られることを恐れるな、貧しくなることを恐れるな。そう言い換えていくことができると思います。
そこで語られたのが、「愚かな金持ちのたとえ」と呼ばれる物語です。その内容については、改めて説明の必要はないと思います。自分の畑が思いがけない豊作であったことを喜んで、さあ、これでしばらくは遊んで暮らせるぞ、ばんざい、と言っていたところに、神の声が聞こえてくる。「愚か者よ。今夜、お前は死ぬ」。ある意味で、とても分かりやすい話です。分かりやすすぎて、逆に分かりにくいとも言えると思います。ここで、多くの説明は必要ないと思います。「愚かな者よ、今夜お前は死ぬ」。ああ、なるほど、それはそうだ。財産を貯め込んでも何になるか。でも、どうすればいいのか。なぜこの話が分かりやすく、また同時に分かりにくいかと言うと、ひとつの理由は明らかに、この愚かな金持ちが、私どもによく似ているからだと思います。この男は、何も悪いことをしていません。愚かなことも、しておりません。何の不正も働いておりません。たまたま自分の畑が豊作だっただけです。それを喜んだだけです。だから新しい倉を建て十分な蓄えを築いて……私どもであれば、老後のためにこつこつ貯蓄をするようなものです。何が悪いのか。けれども、痛いほどによく分かるのは、「もし今夜死ぬとしたら」。けれどもなお問いが残ります。じゃあ、どうすればいいのか。貯金なんかしないでさっさと遊んで使い果たした方がいいのか。もちろんそんなことは誰も考えません。主イエスもそんなことを勧めてはおられません。そこで私どもは途方に暮れるのだと思います。
この主イエスのたとえの中に出て来る人間は、私どもにそっくりだと言いました。それをもう少し言い換えると、主イエスはここで、ごくごく普通の人間の姿を描いて見せているだけなのです。蓄えが十分にあるから、安心した。ただそれだけのことです。そういう普通の人間の、心の深いところに潜む恐れを描き出しておられるのです。皆、その恐れを知っているのです。
主イエスの語られたこのたとえ話は、たいへん興味深いことに、教会の暦の中で、収穫感謝祭と呼ばれる日に読まれるようになったことがあります。あまりこの教会では馴染みがないかもしれませんが、たとえば『日々の聖句・ローズンゲン』を見ると、今年は11月24日にそういう暦を見つけることができます。興味深いことだと思いませんか? 毎年秋になると豊かな収穫を喜びながら、その収穫を新しい倉に納めようとしたところで突然命を奪われた男の物語を読むのです。なぜでしょうか。豊かな収穫を前にして、愚かになってはいけない、ということであろうと思います。
その関連でもうひとつ、先週、説教の準備をしていて、おもしろいことに気づきました。よく知られた主イエスの言葉ですから、私自身、いったい何回この聖書の言葉を人前でお話ししたことかと思うほどですが、聖書というのは不思議なもので、何度読んでも新しい発見があるものです。17節の最後に、「思い巡らした」という言葉があります。この原文のギリシア語は、ほとんどそのまま英語のダイアローグという言葉になります。つまり、対話です。この金持ちは対話をしている。ただし、そこにもうひとつ、「自分の中で」という言葉がくっついています。自分で、自分と対話をしている。「どうしよう。作物をしまっておく場所がない」「そうだ、こうしよう」。「こう自分に言ってやるのだ」。ずっと独り言を言っている。
けれどもそこに、もうひとり、本当の対話の相手が割り込んで来ます。頼んでもいないのに、「わたしとも話をしないか」と、神が割り込んで来る。「しかし神は、言われた」。何をぶつぶつひとりごとを言っているのか。
収穫感謝祭の時にこの言葉が読まれるというのは、こういうことだと思います。豊かな収穫を得て、しかしそこで独り言を言うな。対話すべき相手と対話しなさい。既にあなたに語りかけてくださる、神がいらっしゃるはずだ。そのことを忘れるな。神さまと対話をしながら何を言うのでしょうか。感謝をするのです。
私どもが、毎週毎週、何度でも飽きることなく礼拝に来る意味は、ここにあると思うのです。ひとりで生きて、ひとりで喜んで、またひとりで思い煩って……そうではないのです。神の語りかけを聞き、また神に感謝をして生きている。神さまと、対話をする。私どもの生活は決して独りごとでは成り立ちません。神よ、どうぞ私に語りかけてください。そうでないと私どもはすぐに愚かになってしまうのだと思います。
貧しくても、豊かであっても、例外なく恐れているのが私どもではないかと思います。しかし考えてみれば、このたとえの中に出てくる金持ちは、何も恐れてはいなかったのです。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」。一度でいいから、こういうことを言ってみたいなと、私どもも思ってしまいます。そう思いながら、他方で、その深いところにある、死の恐れを、私どもは皆知っているのです。普段は忘れているだけです。
けれども、そういう私どものところに、神が割り込んで来られたのは、おかしな言い方かもしれませんが、死神として割り込んで来られるのではない。この私どもの恐れを癒すために、わたしの前に神が立ちはだかってくださる。死神として神は私どもの前に現われるわけではない。この私どもの恐れを癒すために来られる。恐れるな。ここに、あなたと共に、わたしがいるではないか。だから、思い煩うな。恐れるな。鳥を見なさい、花を見なさいと……そう言われるのです。
昔、こういう説教を聴いて、心を打たれたことがあります。22節以下に、「だから、思い悩むな」と言われる。不思議な言葉ではないか、と言うのです。ふつうに考えたら、「だから、思い悩め」という言葉が続くべきではないか。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」。あなただって、どんなにきちんと将来設計をしても、いつ死ぬか分からないではないか。「だから、思い悩め」。けれども主イエスは、「思い悩むな」と言われた。不思議な言葉です。25節でも、「あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」。これも厳しい言葉です。だから、思い悩め、という言葉が当然続きそうです。けれども、そうではないのです。わたしたちを生かしてくださるのは神さまだから。「だから、思い悩むな」。その主イエスの言葉は、何と言っても、死の恐れから私どもを解き放とう、解き放ってあげたいという願いから生まれた言葉である。そのことにここで気づきます。
また別の説教者の言葉を引用するようで恐縮ですが、先週、厳密にはルカによる福音書ではなくて、マタイによる福音書の言葉に基づく、こういう説教を読みました。厳密には、ルカには同じ言葉が出て来ないのでけれども、マタイによる福音書の方には、「空の鳥を見なさい」という言葉があります。おそらく皆さんの多くが暗唱しておられる言葉ではないかと思う。「空の鳥を見なさい」。それをこの説教者はちょっと言い換えて、今風に言えばバードウォッチングのことですね、と言います。若い頃に田舎から東京に出てきて、初めてこの言葉を聞いたとき、意味が分からなかったというのです。いやもちろん、バードをウォッチすることだろうな、というくらいのことは分かる。けれどもなぜそんなことをするのか。東京の鳥は、何か芸でもしてくれるのか。そんなことはない。ただ、ふつうの鳥を見るだけ。どうも都会の人は不思議なことをすると思ったそうです。けれどもいつの間にか東京暮らしも40年。自分も鳥を見る楽しみが分かってきた。繰り返しますが、鳥が何か変わったことをしてくれるわけでもない。ただ鳥を見るだけです。彼らがすることは、食べること、寝ること、子孫を残すこと。要するに、生きているだけ。しかも、与えられたものだけで生きている。そういう鳥を見て私ども人間が心を癒されるのはなぜか。人間様の方が、ずっと知恵を絞って、できるだけ充実した、意味のある人生を送りたいと努力をしているのに、そういう人間が、バードをウォッチすることに熱中している。なぜだ。そこでこの牧師はこう言うのです。「本当は、私たちも、自分は何もできなくたって、生きているだけで価値があるのだと、思いたいのではないでしょうか。この自分はこの自分のままで、それでいいのだと、思いたいのではないでしょうか」。
この牧師はそこで、鳥を見ればそれに気づくはずだ、というような安易な説教をするわけでもないのです。もしそうなら聖書を読む必要はない。イエスさまもいらない。「あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか」。24節にそういう言葉がありました。当たり前のことを言っているようです。人間は鳥よりも価値がある。それはそうだ。けれども、当たり前のことでしょうか。こういう当たり前のことを言ってくれる人が、皆さんの周りにいるでしょうか。イエスさま以外に、そういう人はいたでしょうか。
そこで、私がはっと気づいたことがありました。「あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか」。しかし、誰にとって価値があるのでしょうか。自分で自分の価値をそのように見積もるということでしょうか。あの金持ちのように、自分で自分に言ってやるのでしょうか。「おい、お前は鳥よりも価値があるぞ」。そうではありません。神にとって、価値のある自分であることを、主イエスに教えていただくのです。
23節の言葉も同じです。「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」。誰にとって大切なのでしょうか。もちろん、私にとっても大切な私の命、私の体です。けれども、まず神にとって大切な、私の命なのです。そのことを、主イエスはここで心を込めて教えてくださるのです。だからこそ最後に、「恐れるな、わたしがいるではないか」。その言葉を聞く時に、「思い煩うな」という主の言葉は、死を越える望みの言葉となるのです。だからこそ、私どもは、ごくごく普通の人間として、「今夜、お前は死ぬ」という神の言葉さえも、今は、望みの言葉として聴くことができるようになりました。
ある親しい牧師が、こういうことを言いました。「実は今、自分は本当に説教者として立ち続けていいのか悩んでいる。問われている。自分の弱さを知りながら、もう倒れるのではないかと思いながら、けれども今自分は、表面的に強く見せることで、何とか踏みとどまっているだけだ」。厳しい言葉だと思いました。しかし、もちろんこの牧師は、そのように語りながら、そんなことをする必要はない、わたしはこのままで神に生かされているということを、受け入れ始めているのだと思いました。
私は、この牧師の言葉を聞いた時、共感せざるを得ませんでした。とても悲しいことですけれども、そういう自分であることを、認めざるを得ませんでした。「表面的に強く見せることで、何とか踏みとどまっている」。そういう人に出会ったことはないでしょうか。自分自身、そういう人になってしまったことはないでしょうか。大きな声を出して、強そうな姿を見せて、相手を圧倒するようにして……けれどもその人自身がいちばん怖がっているのです。私自身、悲しみをもって反省せざるを得ないことがいくらでもあります。そこで忘れていることは本当に単純なことです。神に大切にされている、神に価値あるものとして見られているこの自分であるという、単純な事実です。
主イエスというお方は、大きな声を出して、人を恐れさせることによって人を支配したことのないお方です。そんな悲しいことをする必要はない。神を信じている人間は、本当は、そんなことをする必要はないのです。
先週、この場所に大澤正芳牧師が立って、「殺すな」という十戒のうちの第6の戒めについて説教をなさいました。皆さんはその説教についてどういう感想をお持ちになったか。私はいくつもの言葉が深く心に残りました。
たとえばひとつ、こういう言葉が心に残った。「殺すな、という戒めは、おそらく一生われわれが破らずにすむものではないか。だいたい、多くの人にとって、人を殺したいと思うほどのことは、めったにないのではないか。けれどもそれは、人を殺したい、あいつを殺してやりたいと思うほどに、侮辱されたことがないだけのことではないか」。心に刺さる言葉です。しかもそこからこう語って行かれました。「そこで気づくことがある。殺すとまではいかなくても、やはり自分にも、『やられたらやり返したい』という思いはある」。「殺すな」という戒めが問題にするのはその思いだ、という主旨の説教だったと思います。そして私は思いました。やられたらやり返す。ののしられたらののしり返す。そこにある私どもの心というのは、結局恐れでしかないのではないか。主イエスはその恐れから私どもを解き放ってくださる。
先週の礼拝で「殺すな」という旧約聖書の言葉と共に読まれたのは、新約聖書ペトロの手紙Ⅰ第2章の18節以下でした。不当な苦しみを受けている召し使いたちに、けれどもその苦しみに耐えることこそ神の御心だと教える、これもまた非常に厳しい言葉です。私は、大澤牧師の説教を聞くまで、なぜ「殺すな」という言葉と、ペトロの手紙Ⅰの召し使いたちに対する教えが結びつくのか、よく分かりませんでした。召し使いの受ける不当な苦しみを語りながら、けれどもこのペトロの手紙は、そこから主イエスの十字架を思い起こさせるような言葉を語っていきます。あなたがたはこのお方に従う者にされたのだ。「このお方は、ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、ただ正しい裁きをなさる神に、すべてをゆだねておられました」。殺さずに生きるとは、こういうことだということを教えてくださったのであります。
私はその大澤牧師の説教を聴きながら思いました。「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず」。やっぱり難しいですよ。「先生、やっぱり思い煩いはありますよ」と言ったあの人の思いに似ているかもしれません。けれども、十字架につけられたあのお方が、その存在をかけて、あなたももう恐れる必要はないのだ、と語りかけてくださいます。
この教会は恐れを知らない群れです。その群れの先頭に主イエスが立っておられます。だれよりも小さくなってくださったお方です。絶対に、人を恐れによって支配しようとはなさらなかったお方です。ののしられてもののしり返さない自由を持っておられたお方です。そのお方に愛されているわたしであることに気づく時、もう、自分の小ささを恐れる必要はありません。無理に自分を強そうに見せる必要もありません。神に愛された者として、そのままで生きていけばいいのです。そのような私どもが、今この地にあって、野の花にも、空の鳥にもまさる、神の恵みを証しする存在として立たされているのです。「あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか」。お祈りをいたします。
主イエス・キリストの父なる御神、今、新しい思いであなたの御前に立ちます。もう一度、既に恐れから解き放たれたわたしであることに気づかせてください。恐れに囚われるあまり、愛に生きることができず、赦すことができず、ののしられたらののしり返してしまう私どもの愚かさを、どうぞ今、あなたが癒してくださいますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
 
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