2013年6月2日 主日礼拝

「イエスの仲間には恐れがない」 川﨑 公平 牧師

ルカによる福音書第12章1-12節

 
今日は、月の最初の日曜日ですから、このように皆さんの前に、聖餐の食卓が整えられています。私どもの教会で聖餐を祝う時に、これはもう何十年と続いている慣習のようですけれども、礼拝への招きの言葉として、ほとんど必ず詩編の第34篇を読みます。その言葉の一部が、週報の表紙にも毎週印刷されています。私もこの場所に立ち続けながら、いくたびこの詩編の言葉を読んできたか、これから読み続けることか。ほとんど暗唱してしまったようなところがあります。
主を仰ぎ見る人は光と輝き
辱めに顔を伏せることはない。
この貧しい人が呼び求める声を主は聞き
苦難から常に救ってくださった。
主の使いはその周りに陣を敷き
主を畏れる人を守り助けてくださった。
味わい、見よ、主の恵み深さを。
いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。
礼拝の最初にこの詩編を読む時に、私はよく、特別な思い、感極まるような思いに捉えられることがあります。「この貧しい人が呼び求める声を主は聞き 苦難から常に救ってくださった」。たとえばこの「苦難」という言葉を、ここにいる皆さんはどのように聞き取るかな、ということを思うからです。先週1週間のことを振り返っても、本当にいろんな出会いがありました。いろんな別れもありました。ひとりの教会の仲間の葬儀をここでしなければなりませんでした。教会員のご家族の、納骨の祈りをした日もありました。ふだんさまざまな事情が重なり日曜日の礼拝に来られない方を訪ねて、ご自宅で聖餐を祝ったこともありました。その時に、玄関から上がらせていただいて、挨拶を交わしながら、思うところがあって、あらかじめ用意していた説教の言葉を捨てて、この詩編第34篇の言葉を説きました。そういう牧師としての生活をしている中でも、またさらにいろんな人たちの消息が入ってきます。
しかも、ここに集まる人たちの悲しみを、牧師がすべて知っているわけではありません。牧師の知らないところで苦しんでいる人のほうがずっと多いでしょう。「この貧しい人が呼び求める声を主は聞き 苦難から常に救ってくださった」。この言葉を、あの人は、この人は、どういう思いで聞くであろうか。10年前のこと、20年前のこと、30年前のこと、いまだ癒されることのない悲しみにじっと耐えながらここに座っている人たちもいるかもしれないと思いながら、そして、ここに来ることさえできていない人たちのことをも、この場所で思い起こしながら……そういう思いの中で、オルガンの奏楽が終わり、礼拝が始まると、皆さんが立ち上がって、その皆さんの心に語り込むように、心を込めてこの詩編を読みます。それだけで、胸がいっぱいになって、正直に言えば、眼がしらが熱くなるようなことさえ稀ではありません。
けれども、私の胸が、本当の意味でいっぱいになるのは、そのような皆さんを、神がここに連れて来てくださったことを思うからです。ひとりひとり、神が招いてくださった。そして、心を込めて、主イエスがここでも語りかけてくださる。
ルカによる福音書第12章6節以下にこういう言葉がありました。
五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。
このような主イエスのお言葉は、おそらく私のような者がくどくどと説明をする必要もない言葉だと思います。余計な解説なんかせずに、じっと味わうべき言葉です。イエスさまが、どんなに深い思いを込めて、この言葉を私どものために語ってくださったか。その主イエスの思いを、深く思うべきであります。私どもをここに今生かしていてくださる主のみ心です。神の愛と言ってもいい。主イエスはそれを、言葉を尽して、思いを尽して、切々たる思いで語っておられる。今私がここに立ってお話をさせていただいているのも、この主イエスの切々たる思いに促されてのことなのです。
ただ、もしかしたら言葉の説明が必要かもしれないと思いますのは、「五羽の雀が二アサリオンで売られている」。こういう「アサリオン」などという言葉は、特に私どもが今使っている新共同訳聖書の場合、巻末にこういう単位の説明がありますので、それを参照すればよいわけですが、たとえば今から約100年前に訳された文語訳と呼ばれる聖書では、「五羽の雀は二銭にて売るにあらずや」と訳されました。ただ「二銭」などと言われても、皆さんのようなお若い方たちにはピンと来ないわけで……たとえば、これはもちろん最近の説教舎ですが、「ワンコインで売られている」と言い換えてみせた人がありました。いずれにしても、高い値段ではありません。ところでさらに、ある説教者が、こういうことを言っています。「五羽の雀が二アサリオン」。けれどもマタイによる福音書を読みますと、「二羽の雀が一アサリオンで売られている」とあります。ということは、どうもルカの方がちょっと安い。しかしこの説教者はこう説明するのです。「雀を二羽ください。一アサリオンですね」。「だったら二アサリオンで四羽買いませんか。もう一羽おまけしますよ」。おまけの一羽です。そのおまけの一羽さえ神はお忘れになるようなことはないんだ。学問的な根拠はゼロだと思いますが、こういう聖書の読み方は、私はとても好きです。主イエスの御心をよく読み取った聖書の読み方だと思います。このわたしも、おまけのような存在ではないか。けれども神がわたしのことを忘れるようなことはない。
そのように語りかけてくださった主イエスの御心の深さを思いますときに、さらに少し遡って4節を読みますと、こういう言葉があります。
友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。
これも、とても力強い言葉です。力強い言葉ですけれども、同時にとても恐ろしい言葉だと私は思いました。私のような者が口にすることは許されない言葉だと思いました。「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れるな」。たとえば愛する人を失った、そういう悲しみを経験した人の前に立ちながら、こういうことが自分に言えるか。主イエスだけが、語り得る言葉だと思います。自分の体が滅びる。いちばん恐ろしいことではないか。けれどもどんな人も、「体を殺しても、その後、それ以上何もできない」ではないか。ある聖書学者がこの言葉にコメントをつけて、「彼らは人間のいのちの本質に触れることができない」と言いました。私は本を読むとき、あまりそういうことをしないのですが、この言葉には赤いボールペンでぐっとアンダーラインを引きました。慰め深い言葉だと思いました。「彼らは人間のいのちの本質に触れることができない」。つまり、いのちは神によって存在させられたものだとすれば、そのいのちの本質に指一本でも触れることができるのは神以外にない。しかもそこで、主イエスはこう語っていかれるのです。
だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。
もちろん主イエスは、このお方を恐れる人間は、他のいかなる恐れからも解き放たれるはずだとおっしゃっているのです。
主イエスがこういうことをお語りになったときに、私どもひとりひとりの心の中をじーっとご覧になって……そこで主が見ておられたものは、〈恐れ〉だと思います。あなたは怖がっているね。落ち着いて考えてみますと、私も説教の準備をしながら落ち着いて考えてみましたけれども、私どもはふつう、自分が何を怖がっているかということを、めったなことでは人に知られたくないと思っています。もし教会の誰かに、「先生、何をそんなに怖がっているんですか」なんてことを何かの拍子に言われたら、それはもう慌てて取り繕うと思います。けれどもまたそれだけに、恐怖というものは、私どもの心を深いところで病気にさせてしまうものだと思います。それを主イエスは見ておられた。その怖がっている私どもの心というのは、しかし、何を怖がっているのだろうか。
そこで改めて、1節から読んでみますと、こういう言葉があります。
とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である」。
このファリサイ派と呼ばれる人たちについては、ここに先立つ第11章の後半で、主イエスがずいぶん厳しい批判の言葉を述べておられます。そこでも主題になったのは、〈偽善〉ということでした。熱心に神を信じているようでありながら、いつの間にか、人に見られることがいちばん切実な問題になってしまう。ただそこでもうひとつ興味深いのは、「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」。なぜ「パン種」なのか。ふつうに、「ファリサイ派のようになってはいけないよ」と言ってもよさそうなものです。
このパン種という言葉から、当時のユダヤの人たちが間違いなくイメージしたことは、ユダヤの人たちが今でも大事にしている過越の祭りというものです。別名、除酵祭とも言われます。旧約聖書の出エジプト記に記録されている、それこそ出・エジプトという出来事を体験した。奴隷であったところから導き出された。それがわれわれのアイデンティテイであるということを記念する祭りです。なぜそこで酵母を除くのかというと、かつてエジプトを脱出した時に、急いで逃げなくてはいけなかった。旅の間の食事を用意も急がないといけない。ですからパン種を入れて、パンが膨らむのをのんびり待っている時間はなかったのだと説明されます。種を入れない、まったくふわふわ感のないパンを作って脱出した。そのことを記念して、ユダヤの人は今でもこの除酵祭というのを大事にします。その祭りの期間は、今でも、パン種の入ったパンを決して口にしない。現在でもその伝統が生きているのです。伝え聞いただけの話ですけれども、日本からイスラエルに旅行したら、それがたまたま過越の祭りの季節であった。どこに行ってもおいしいパンは食べられない。お米のご飯があるわけでもない。しかし自分はユダヤ人でもないし、どこかでふかふかのパンを食べられないものかと思っていたら、マクドナルド発見。よし、ここだと思って入ってみたら、マクドナルドハンバーガーのパンまで、パサパサの種なしパン。それが案外おいしかった、などという話を聞いたことがあるのですが……。ただ食べないというだけでなく、家の中からもその地域からも、時代によってはその国中からパン種を取り除いた。主イエスはそういうことをもイメージしながら、「徹底的に、偽善のパン種を取り除け、ひとかけらもあってはいけない」と言われる。それほどに、偽善というものは、恐ろしいのだ。
偽善というのは、簡単に言えば、表と裏が違うということでしょう。表向きはニコニコしていても、心の中ではこんちくしょうとか思っている。あまりこういうことは牧師として言わないほうがいいのかもしれませんけれども、私にもそういうところがあるということを、やはり正直に認めないわけにはいかないと思います。そして、なぜそういうことが起こるのかというと、やっぱり、怖いのです。神でないものを恐れるから。だから、ここはちょっと取り繕って。主イエスは私どものそういう恐れのこころをよくご存じだったと思います。少しでも偽善のパン種が入らないように、少しでも恐れのこころが入り込んで来ないように、そのために主イエスは心を込めて、言われるのです。「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか」。こういう話をなさったそのそばで、ちょうど雀が売られていたのでしょうか。ほら、あれをご覧。「だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない」。「それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」。こんなに神さまに知られているではないか。愛されているではないか。だから、人を恐れるな。偽善のパン種を徹底的に捨てなさい。
なぜそのことを、こんなに厳しく言わなければならなかったか。2節以下では、こうも言われました。
覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。
なぜこういう言葉がここに続くのでしょうか。8節以下も読んでみます。
言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。
だんだんとお気づきになると思いますけれども、ここでの大切なひとつの主題は、伝道であります。キリストの恵み、神の愛を人びとに伝えていく。そのために、この弟子たちは遣わされる。その準備のための言葉だと読むことができます。そして、主イエスが弟子たちをお遣わしになるにあたって、いちばん心遣いをなさったことが、弟子たちの心の中に生まれる恐れの心であったと思うのです。怖がって伝道できなくなる。その恐れを取り除いてやらないといけない。徹底的に。
「しかし、人々の前でわたし(イエス)を知らないと言う者は」。主イエスもずいぶん率直なことをおっしゃったものだと思います。そして案外多くの人が痛みをもって聞かなければならない言葉ではないかとも思います。言い換えれば、本当は、心の中では信じているということです。けれども人びとを恐れて、わたしはイエスさまを知らないと言ってしまう。けれども、そのように言う人は、「神の天使たちの前で、その人のことを知らないと言われる」。わたしもイエスもまた、「あなたのことなんか知らない」と言わざるを得なくなるだろう。厳しい言葉です。
特にこのルカによる福音書は、この福音書だけで筆を止めずに、使徒言行録を第二巻として、この弟子たちが実際に遣わされて伝道をした歩みを記録しています。そこでも最初から問題になったことは、人びとの迫害です。弟子たちは問われる。あなたはイエスを信じているのか。愛しているのか。そうだ、わたしはイエスを信じていると言えば、命さえ危険にさらされたのです。最も深いところでは、私どもも知っているはずの恐れです。そこにも、人に対する恐れがあります。それをまず徹底的に癒しておかなければ、という主イエスの思いは、しかし一体、何を意味するのでしょうか。
こういうことを考えてくださってもいいと思います。今日の説教の題を、「イエスの仲間には恐れがない」といたしました。それなりの思いを込めてつけたつもりの説教題です。そして先週の月曜日から、この説教題が、奉仕者の手によって墨字で書かれ、教会堂の前に張り出される。道行く人がどういう思いでこの説教の題をお読みになるかなということをずっと思っていました。「イエスの仲間には恐れがない」。もちろん、この「イエスの仲間」というのは、洗礼を受け、主イエスに対する信仰を言い表した私どものことです。道行く人びとが、そのことに気づいてくださるだろうかと思いました。「イエスの仲間には恐れがない」。いったい誰のことだろう。イエスの仲間って。この鎌倉雪ノ下教会に集まる人たちのことだろうか。ここには、恐れを知らない人びとが集まるのだろうか。ここに来ると、恐れから解き放たれるのだろうか。たとえば、そういう思いを誰かが抱いてくれたとして、そういう人が、日曜日の朝になると続々ここに集まってくる私どもの顔を見て、ああ、この人たちか。恐れを知らない人たちというのは。見たところ、どうということのない人たちだな、どうということのないおばさんたちだな。けれども、この人たちには、恐れがないのだろうか。
教会の伝道というのは、そういうところから始まるものだと思います。誰かに尋ねられるかもしれません。「へーえ、あなたはひとつも怖いことがないんですか。この人は怖いなあとか、そういうこともないんですか」。「そうです」。「死ぬのも怖くないんですか」。「そうです」。けれどももっと恐るべき方を知っている。それは、殺したあとで、地獄に投げ込む権威を持っている方。けれども、このお方が、一羽の雀さえも大切にしていてくださることを知っているから。しかもその雀よりも、はるかに重んじられている自分であることを知っているから……
そのように、神に重んじられている私どもの存在そのものが、神の愛の証し、そのものになるのです。恐れるな。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりも、はるかにまさっているではないか。そのような者としてあなたは立つのだ。主がそのように私どもに語りかけてくださったのは、まさにあの弟子たちと同じように、この私どもも、神の愛の生き証人として立つためであったのです。そのような私どもが、どこででも言い表すのです。わたしはイエスの仲間です。イエスさまの仲間にさせていただいた者です。だからこんなに解き放たれて生きています。
ところで、8節の「仲間であると言い表す」という言葉は、ずいぶん工夫された翻訳です。うるさいことを言えば、「仲間」などという言葉は原文にはありません。もっと単純に、「わたしに対する信仰を言い表す者は」という言葉です。私どもが礼拝の中で使徒信条を唱えるときに、司式者はいつも丁寧に、「使徒信条によって私どもの教会の信仰を言い表します」と言いますが、たとえばその文言をギリシア語に訳すようなことがあれば、ここで用いられている言葉が使われるところです。けれどもそうすると、8節の後半が少し面倒なことになります。「人の子(イエス)も神の天使たちの前で、その人に対する信仰を言い表す」。どうも、そうは訳しにくい。そういう意味でもこの新共同訳聖書の翻訳は、なかなかよく工夫されたものだと思います。
「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は」、そのようにわたしイエスに対する信仰を言い表す者は、「人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す」。「その人に対する信仰を言い表す」とは言いにくいかもしれません。しかしそれほどに、重みのある言葉です。心躍るような言葉ではないでしょうか。いつか私どもが神の天使たちの前に立って、「お前は誰だ」と言われる時に、イエスさまが証言してくださる。「わたしは、この人を知っている。この人は、わたしイエスの仲間」。その主イエスの語りかけの重みを知っているから、弟子たちは立つことができました。
しかもこれは、天国に行って初めて聞こえてくる言葉でもありません。今ここで、主イエスは語りかけてくださいます。4節の言葉も忘れがたいものです。「友人であるあなたがたに言っておく」。畏れ多い言葉です。ヨハネによる福音書第15章にもそういう言葉があったなと思い起こされる方もあると思います。けれどもそんなにしょっちゅう出てくる言葉ではありません。それだけに主イエスが、どんなに深い思いを込めてこの言葉を語ってくださったかと思います。あなたはわたしの友。だから、恐れるな。それに対して私どもも言うのです。イエスさま、そうです。わたしもあなたの友です。あなたはわたしの友です。そのように主イエスを受け入れる。それ以外に、私どもになし得ることがあるであろうかと思います。
10節以下には、こういう言葉が続いておりました。
人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は赦されない。会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。
何を言おうか心配するな。神の霊が、あなたを守る。何を言うべきか、聖霊が教えてくださる。それだけに大切なことは、この聖霊を冒瀆するな、と言われるのですけれども、そこで私どもがたじろぐような思いにさせられますことは、「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は赦されない」。人の子、つまりイエスさまの悪口を言いながら、それでも赦されるとはいったいどういうことでしょうか。「あの人のことは知らない」と三度繰り返して言ってしまった一番弟子のペトロのことを、既に思い起こされる方もあると思います。そのペトロも赦される、と読めそうですけれども、不思議なのは、その直前の9節で「しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる」と言われていることです。不思議な言葉だと思います。
主イエスは、私どもの弱さをよくご存じであったと思います。われわれが、われわれ自身の力で、自分の信仰の力で、主に対する忠誠を全うできるなんてことは考えておられなかったと思います。だからこそ、「聖霊を冒瀆するな」と言われるのです。もしかしたら、自分の信仰の力で主に対する信仰を全うするのだと言い張るところでこそ、既に聖霊に対する冒瀆を犯し始めているかもしれないのです。使徒言行録が伝えていることも、聖霊がどんなに確かな力でこの弟子たちを支えてくださったかということでしかない。
その聖霊が、きちんと「言うべきことを教えてくださる」。何を教えてくださるのか。その「言うべきこと」を、今既に、主イエスが教えてくださっていると思います。五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。その雀よりもまさっているあなたではないか。あなたがたの髪の毛の一本までも数えられているではないか。このわたしの存在、皆さんの存在が、神の恵みの証しとして立つのです。聖霊を冒瀆するというのは、そういう自分であることを否定することです。聖霊が心を込めて教えてくださっているのに、こんなに神に愛されているわたしであることを教えてくださるのに……。
悩みは尽きないかもしれません。痛みは去らないかも知れません。けれども、私どもは、神に愛されている神の子、神の子らです。恐れるな、恐れるな、と、どんなに深い思いを込めて、主が今ここでも語りかけてくださるか。その事実の前にひざまずくような思いで、今共に聖餐の食卓にあずかります。祈りをいたします。
主イエス・キリストの父なる御神、もう二度とあなたの聖霊を冒瀆することがありませんように。あなたに愛されている自分自身を否定することがありませんように。そのためにも今、聖霊が聴かせてくださるあなたの言葉を心深く刻み込むことができますように。悲しんでいる者、疲れている者、重荷を負っている者は、皆わたしのもとに来なさいと呼びかけてくださる主イエスが分け与えてくださる恵みの食卓に、感謝をもってあずかることができますように。そこに献げるべき悔い砕けた心を、御前に供えさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン
 
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