2013年5月19日 主日礼拝

「天の声を聴こう」 川﨑 公平 牧師

マルコによる福音書1:9-11

今朝の礼拝はペンテコステ、神の霊が新しく教会に注がれたことを記念しながら、特別な思いで礼拝をささげております。その朝に、最もふさわしいことを、今ここですることができました。3人の子どもたちに、洗礼を授けたのであります。
大人であろうと赤ちゃんであろうと、洗礼を受ける人が生まれると、私どもは同時に、自分の洗礼の時を思い起こします。皆さんは、ご自身の洗礼の時のことを覚えておられるでしょうか。何年の、何月何日だったでしょうか。洗礼を授けた牧師は、泣いていたでしょうか。笑っていたでしょうか。自分自身は、何を思ったでしょうか。教会の人たちの様子は、どうだったでしょうか。もう忘れちゃった、という方もおられるでしょうか。
私自身も、自分の洗礼のことを思い起こしながら、この礼拝に備えました。本日発行された雪ノ下通信の5月号にも書きましたけれども、私も1歳の時に、ちょうど今洗礼を受けた子どもたちと同じように、小児洗礼を受けました。けれども、これも通信に書いたことですが、10年以上牧師をしていながら、自分の手で小児洗礼を授けるのは、今日が初めてなのです。そしてついでに言えば、鎌倉雪ノ下教会にとっても、実に6年ぶりの小児洗礼となります。やっぱり小児洗礼っていいものだなと思います。大人であろうと子どもであろうと変わらないという主旨のことを申しましたけれども、小児洗礼というものは、特別な恵みを私どもに神が見せてくださるために定めてくださったものだと思います。
皆さんの中にも、小児洗礼をお受けになった方があると思います。そのあと大人になって信仰告白をなさった者もあれば、まだ小児洗礼を受けただけでうろうろしていらっしゃる方もあると思います。大人になってから洗礼を受けた方のほうが多いでしょうか。けれどもここで私どもは知ります。お父さんに、お母さんに抱っこされて、あるいは手を引かれるようにして洗礼を受ける子どもたちを見ながら……私どもはここで悟るのです。「わたしは、神さまの子どもなんだ。わたしも、神さまの子どもなんだ」。何歳であろうと変わらない。その恵みを今、見せていただいたのであります。
今日はペンテコステ、神の聖霊が私ども教会に注がれたことを記念しながら礼拝をしています。いったい聖霊とは何でしょうか。聖霊が与えられると何が起こるのでしょうか。伝道者パウロは、ガラテヤの信徒への手紙において、「キリストに結ばれて洗礼を受けたわたしたちは」という言い方をします。洗礼を受けると、神の霊を受けて、われわれはキリストに結ばれて、神の子になる。そして、こう言うのです。第4章6節であります。
あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。
神の霊を受けると何が起こるか。神をアッバ、父よと呼ぶようになる。アッバという言葉は、「お父さん」と呼ぶ呼びかけの言葉ですね。アラム語という古い言語の言葉だと言われますが、そんな難しい説明をする必要もないのです。1歳になった大澤先生ご夫妻のお子さんが、アバアバ言い始めています。そういうことです。アバアバ言っているKちゃんを見ながら、「ええ? お前、何言ってんの?」などと問う人はいません。ああ、お母さんを呼んでいるんだな。あれ、お父さんじゃいやか。やっぱりお母さんがいいのか。と、アバアバ言っているKちゃんの口の動きを見ているだけで、そのことを悟るのです。「神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった」。そして、少なくとも今日は、そういう赤ちゃんを見ながら、「まあ、かわいい」ではすまないのであって、「これがわたしだ」と悟ることが大切です。
救われて生きるということは、神の子として生きるということです。神を父と呼ぶ、神の子のこころを与えていただくということです。
その意味では、私は今日、そんなに長い説教をする必要もないのであって、今日洗礼を受けた子どもたちの姿を見て、悟るべきことを悟ればよいのであります。そこで悟るべきこととは何か。今日洗礼を受けた子どもたち、そして既に洗礼を受けた、ここに集まる私どもの先頭に立って、まず最初に洗礼を受けてくださったお方が、主イエス・キリストだということです。
今日は、この日行われました小児洗礼入会式のために祈りながら、いつも私はここでルカによる福音書を順番に説き明かしておりますけれど、それを一時中断して、特別な思いで聖書の言葉を選びました。主イエス・キリストが、バプテスマのヨハネから洗礼をお受けになった記事であります。このバプテスマのヨハネと呼ばれる人がしていたことは、このマルコによる福音書を最初から読めば明らかなように、罪の悔い改めのための洗礼であります。ずいぶん激しく人びとの罪を責めながら、もう一度神さまのもとに戻ろう、悔い改めようと呼びかけました。そのヨハネの言葉に応えて、国中から人びとが集まってきて洗礼を受けた。その、言ってみれば罪人の群れの中に立ち混じるようにして、神のひとり子である主イエスが立っておられたのです。
これは、ひとつの見方からすれば、とても分かりにくいことだと思います。なぜ主イエスが洗礼を受けなければならなかったか。罪のないお方であります。主イエスというお方にも、悔い改めなければならない罪があったということでは、ないのであります。マタイによる福音書を読みますと、そこで洗礼を授けていたヨハネがびっくりして、いやいや、とんでもない、わたしなどがあなたに洗礼を授けるわけにはいかないでしょう。むしろわたしの方があなたから洗礼を受けなければならないのに、と洗礼を一度は断ったという記事があります。分かりにくいことです。
けれども、たとえばカルヴァンという、宗教改革と呼ばれるたいへん大きな教会の改革をした神学者は、主イエスの洗礼の記事を説き明かしながら、こう言いました。「ここでキリストは、ご自身の体の中で、洗礼を清めてくださった。私たちがキリストと共に洗礼を受けることができるようになるためである」。主イエスが洗礼を受けられたのは、私どもの受ける洗礼を聖化するため。「ご自身の体の中で」というのも興味深い表現です。言ってみれば、身をもって、教会がする洗礼を清めてくださった。そしてその時以来、われわれは洗礼を受けるときに、キリストと共に洗礼を受けることができるようになったのだと。
私どもが洗礼を受ける時に、その洗礼が、誰によって清められた洗礼であるか、誰と一緒に受ける洗礼か、それが大事だ、ということであります。ひとりでバシャバシャ水をかぶって、「神よ、わたしを清めてくさい」と叫んでも何にもならないのであります。私どもは、主イエスと共に洗礼を受ける。だからこそ、私どもが洗礼を受ける時にも、主イエスと共に、ここに書いてあるとおりのことが起こるのです。私自身、38年前に洗礼を受けた時のことを思い起こす。父親に抱かれて、女性の牧師から、洗礼を受けました。牧師の手から、私の頭に水が注がれ、その時何が起こったかというと、わたしの頭の上で天がパーッと開けて、神の霊が注がれ、そしてそこに、天からの声が聞こえました。
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。
洗礼を受けるとは、主イエスと共に、この神からの声を聞かせていただくことです。
2年前にも、ルカによる福音書が伝える主イエスの受洗の記事を説教したことがありました。そのときにも紹介したと思います。私が説教の準備をする時に、ひとつ大切にしていることは、ただ原文のギリシア語を調べるだけでなくて、さまざまな、特に日本語のいろんな翻訳の聖書を読み比べるということです。今日のところで何と言っても私が圧倒的な感銘を受けましたのは文語訳聖書です。「なんぢは我が愛しむ子なり、我なんぢを悦ぶ」。これを読んだ時、ずいぶん印象が変わりました。「我なんぢを悦ぶ」。ギリシア語の原典を調べると、確かに主語は「私」であって、「あなたは、わたしの心に適う者」というよりはむしろ、「わたしは、あなたのことが嬉しい!」 そういう言葉です。そのことに気づいた時に、私は、それこそとても嬉しい思いになりました。ああ、神さまは喜んでおられるんだ。このわたしのことを。
洗礼を受けるってどういうことか。洗礼を受けると、どういういいことがあるのか。今日の説教の題を「天の声を聴こう」といたしました。洗礼を受けると、天から声が聞こえる。「あなたのことが嬉しい」と呼びかけてくださる、神の声です。皆さんはその天の声を聴き取ったでしょうか。聞こえたはずであります。
洗礼を受ける人が生まれますと、私どもは自然に「おめでとう」と言います。今日の礼拝の後にも、荒木先生、大澤先生のご家族には玄関に立っていただいて、教会の皆さんから「おめでとう、おめでとう」と言われ続けることになります。そして、これは私がいつも申し上げることですけれども、この洗礼を受けたあとの、「おめでとうございます」という祝福のあいさつをすること、あるいはそういうあいさつをされることを、やはりおろそかにせず、大切にしたいと思うのです。そしてなぜ私どもが「おめでとう」と言うかというと、誰よりも神ご自身が、この小さな子どもたちに洗礼を授けられたことを喜んでいてくださると信じるからです。「Kちゃん、Sくん、Yくん。わたしは、あなたのことが嬉しい」。
「あなたはわたしの愛する子」。天から聞こえてくるこの声は、たとえば、教会の交わりの中で生まれる「おめでとう」という言葉に反映し、響いています。私はそう確信しています。その声が今日もこの教会堂に響きます。そこで私どもも、新しい思いで悟るのです。わたしも、神さまの子どもなのだ。
その関連で、もうひとつ、これはマルコによる福音書だけが伝えていることで、私が興味深いと思ったことがあります。主イエスが洗礼を受けられた時、天が裂けて神の霊が降った。それを、ヨハネや他の人びとが見たというのではないのです。新共同訳は「ご覧になった」という敬語表現を用いていますけれども、そのことからもすぐに気づきますように、これをご覧になったのは、主イエスおひとりです。言ってみれば、ここで主イエスは、他の人には見えないものを見ていてくださった。「ああ、天が開いた」と。そうしますと、その天から響いてきた神の声もまた、皆が聴き取ったというのではなくて、主イエスだけが信仰の耳をもってただひとりで聴き取ってくださったと言うことができると思います。
そして多くの人が想像します。後に主イエスが、弟子たちと共に歩み始められた時に、たくさん大切なことをお話しになった。そのときに最も大切なこととして、「わたしはかつて、あのヨハネから洗礼を受けたのだ」ということを弟子たちに語ってくださったに違いない。その時に天で何が起こったかということをも、弟子たちに教えてくださったに違いないのです。しかもその時に主イエスは、これはわたしだけの特別な経験だとおっしゃったのではなくて、「これは、あなたがたのことでもあるのだ」と、心を込めて語ってくださったのではないか。そこでこそ、なぜ主イエスが洗礼をお受けになったのか、その理由が明らかになってまいります。ご自分ひとりだけ、わたしは神に愛された神の子なのだと、孤高の歩みを始められたというのではないのです。私どもを神の子として救い取るための救い主としての歩みを、ここから始められたのであります。私どもが聴き取らなければならない神の声、けれども主イエスしか聴き取ることができなかった神の声を、私どもに先立って聴き取ってくださった。マルコによる福音書はそのようにして主イエスの救い主としての歩みが始まったのだと語り始めるのであります。
主イエスがここで聴き取ったのは、そのような神の御旨であります。「わたしはあなたのことが嬉しい。そのわたしのこころを、あの人にも、あの人にも聞かせたいのだ。そのために、まずわが子イエスよ、わたしの声を聞きながら、洗礼を受けてほしい」。そこで主イエスが聴き取ってくださった神の御旨は、たとえば今日洗礼を受けた3人の子どもたちのための神の御旨でもあったのです。
カルヴァンが言ったのはそういうことでしょう。今日行われたこの子どもたちの洗礼を聖めるために、そこで神の声が聞こえてくるようになるために、主イエスは洗礼を受けてくださった。そこで聞こえる神の声を、今私どもも聴くのであります。
この主イエスの受洗の記事は、そのような意味で、主イエスが特別な務めを神から委託されて、キリスト、救い主としての歩みを始められた、そういう主旨の出来事だと多くの人が理解します。その通りだと思います。しかしこれはまことに不思議なことだと思います。考えてみれば、主イエスは30歳まで他の人と何も変わらない生活をしておられたのであります。ベツレヘムに生まれ、ガリラヤのナザレで、大工の息子として育ち、ご自身もまた大工として成長なさった。少し前に、やはり大工をしているという私の弟がこの教会の礼拝に姿を現したことがありました。全然似ていないようで、よく見ると実はけっこう似ているという弟です。私のような者が弟を見ていると、特にまだ結婚する前の弟を見ていた時には、ああ、イエスさまもこんな感じだったのかな、などということを思ったものです。何も特別なところはない。主イエスもまた、他の大工仲間と何も変わらないような生活をなさりながら、けれどもある日、突然、神からのお召しを受けました。自分は神の子として、神のわざをするのだということを、どこでお考えになったのでしょうか。それこそ、主イエスと父なる神との間に、誰も知ることのできないやり取りがあったに違いないのです。主イエスが大工の仕事をしているときに、遠くからのうわさが聞こえてくる。あのヨハネがヨルダン川のほとりで、洗礼活動をしているらしい。罪を悔い改めようと呼びかけているらしい。先ほども申しましたように、罪のないお方が、けれども、やむにやまれぬ思いでヨルダン川に向かい、洗礼をお受けになった。
もちろん、主イエスがそう決心なさったのでしょう。けれども、主イエスがただお一人でそうお決めになったのではなくて、父なる神のお召しがあったのであります。「イエスよ、ヨハネのところに行って洗礼を受けなさい」。「父よ、なぜですか、なぜわたしが洗礼を受けなければなりませんか」。「お前はあの人たちの仲間になるのだ。そのためにイエスよ、お前もあの人たちと一緒に洗礼を受けなさい。わたしにとって、お前が大事であるのと同じくらい、あの人たちも、かけがえのない存在なんだ」。そのような神の御旨を、それこそ胸に秘めて、主イエスがヨハネのもとで洗礼をお受けになった時、既にその周りに大勢の人たちがいたでしょう。その人たちの顔を見ながら、このお方は、今ここにある私どもの顔も名前も全部、今日洗礼を受けた3人の子どもたちのことも、御心のうちに留めていてくださったのであります。
そして、主イエスが洗礼をお受けになった時、「天が裂けた」とマルコは伝えます。ある人はこれを簡潔に、「神の地上への徹底的な介入」と言い表しました。神が天を破るようにしてこの地上に介入を始められた。私どもひとりひとりを捕らえて離さない神のみこころが、天を裂いたのであります。
そして、そこから神の霊が、鳩のように降った。その時以来、この地は新しくなりました。神の御旨が行われる地になったのであります。そのための主イエスの、キリストとしての歩みであります。
先週の木曜日、教会祈祷会で、『雪ノ下カテキズム』の学びをしながら、「キリスト」という主の呼び名について学びました。なぜこのお方を「キリスト」と呼ぶのか。キリストとは、もともと「油を注がれた者」という意味の言葉です。油を注がれて、特別な務めを神から頂いた人、そういう人たちのことを、一般に(つまり固有名詞ではなく)「キリスト」と呼んだのです。主イエスはいつ油を注がれたのか。そんな福音書の記事はどこにもない。けれどもここで、聖霊を注がれておられます。そこに、主イエスのキリスト、油注がれた者としての務めが始まったのです。それは言い換えれば、主イエスがまさに救い主としての務めを果たすために、神の霊によって武装されてその歩みを始められたということです。その時に、神が主イエスに聞かせてくださった声が、愛を告げる言葉であったということに、私は言いようのない感動を覚えました。主イエスというお方は、聖霊を受けて、神の霊によって武装されて、私どもの救い主としてお立ちになりました。しかしそれは、主イエスが特別な腕力をお持ちになったとか、誰も抵抗できないような権力をお持ちになったということではなくて、ただひたすらに、神の愛に支えられてその歩みを始められたということです。
その祈祷会で、『雪ノ下カテキズム』を読みながら、こういうことを学びました。このお方は「キリスト」と呼ばれるけれども、実は主イエスご自身は、キリストと自称したことはほとんどない。むしろこのお方は、ご自分のことを「人の子」という言葉で呼ぶことを常となさった。なぜであろうか。この「人の子」という言葉は、おそらく皆さんが聖書をお読みになる時に、どうも分かりにくいと思うに違いない言葉だと思います。簡単に言えば、ただの人間ということです。主イエスは、ただの人間として、しかしキリストとしての働きをなさる。それは一体どういうことか。そこで『雪ノ下カテキズム』も引用いたしますのは、旧約聖書のダニエル書第7章の言葉であります。預言者ダニエルが神から幻を見せていただいた。恐ろしい獣のようなものが現われて、われこそは地上の支配者であるという顔をして、けれどもその獣たちの支配が次々と失敗する中で、最後に神が、〈人の子〉のような者をお遣わしになり、そこにご自分の支配を打ち立ててくださる。そういう幻です。
人間に本当に救いをもたらす権力とは、いったい何かということです。おかしなことですが、人間が作る権力というのは、いつも人間らしさを失い、獣のような姿を見せてしまうものです。なぜであろうかと問いつつ、今この国の姿もそうなっているではないかと、胸を打ちながら思い起こす方も多いと思います。本当に人間らしい支配がこの地上に打ち立てられるためには、神が、人の子イエスを遣わしてくださらなければならなかったのです。その「人間らしい支配」のことを、私はここでただ一言、「愛」と申したく思います。剣も何も持たず、強力な軍馬に乗るのでもなく、主イエスはたとえばマタイによる福音書第21章が伝えるところによれば、ろばの子に乗って救い主としての姿をお現わしになりました。そこに、神が打ち立てようとなさった人間らしい支配の姿が現れている。このお方は、剣も持たず、いかなる暴力も用いず……けれどもこのお方は、神に愛されていたのであります。それだけを支えとして主イエスはお立ちになりました。主イエスはここで、神の愛のみによって武装されてその歩みを始められるのであります。あなたがたもそうだ。あなたがたも、ただ神の愛によってのみ立つ。そう主イエスは言われるのです。
私どもも、洗礼を受けて気づくことがあります。なぜわたしはわたしであり得るのか。なぜわたしは、わたしとして生きることができるのか。神に愛されているからです。神に愛された神の子だから、だからわたしは生きることができる。
恐れている方はいらっしゃるでしょうか。疲れた人、重荷を負っている方はいらっしゃるでしょうか。私は牧師として、ひとつの言い方をすれば、そういう皆さんに対して、何もすることができません。けれどもひとつだけできることがある。神の愛を告げるだけです。あなたは神に愛されている。喜ばれている。大切にされている。天から聞こえてくる、この神の声を伝えることだけです。そのために、神は今日、何にもまさるしるしを与えてくださいました。つらいとき、恐れから自由になれないと思う時……けれどもそこで、たとえば、お母さんに抱っこされているKちゃんの顔でも思い出せばよいのです。肩にお父さんの手を置かれた、Sくんの顔を思い出せばいいのです。KちゃんだってSくんだってYくんだって、お母さんと一緒にいるからっていつも安らかな顔をしているわけでもないですよ。泣いてばかりの時もある。「罪のかたまりだな」と、思うような時さえあります(すみません)。けれどもだからと言って、お母さんの愛が変わるわけじゃない、お父さんの愛が変わるわけじゃない。そういうものです。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたのことが嬉しい」という、天の声が揺らぐことはないのです。けれども私どもにとって切実なことは、この神の愛によって立とうとはしないことであります。私どもの罪というものは、そんなに複雑なものではない、この神の愛を忘れることでしかないのです。
もう一度新たな思いで神の愛に立ち返ることができるように、そのために神が今日見せてくださった貴いしるしを胸に刻み、もう一度幼子の心を新しくさせていただきながら、今、聖餐の食卓にあずかりたいと思います。私どもは神に愛されている、神の子なのであります。お祈りをいたします。
主イエス・キリストの父なる御神、今そのように、あなたのことをお呼びしている私どもの声を、既にあなたが清めていてくださることを心から感謝いたします。私どもの全存在が、あなたの愛に対する感謝となり、賛美となることができますように。あなたに愛された者としての姿勢を新しくさせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン
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