2013年6月23日 主日礼拝  

「神の権威に従って生きる」  大澤 みずき 牧師

ガラテヤの信徒への手紙 1:1-5

先週の水曜日、わたしは、シオン会の特別例会に出席させていただき、深い学びと楽しい食事の交わりの時を過ごさせていただきました。御存知のように、教会の高齢の方々を中心とした会です。
そこで、お互いを知り合うために、おもには初めて出席し、次回から新しく担当するわたしのために、自分の隣の方を紹介する自己紹介ならぬ、他己紹介をしていただきました。こういう機会を設けていただくと、名前を覚えやすくなり、大変助かります。とてもいい機会をいただいたと思っています。そこで、出席者全員の紹介が楽しくなされました。
その時すぐには、気に留めなかったのですが、しばらくたってから、ふと他己紹介のことを思い出して、わたしは、あることに気が付かされました。
普通、自己紹介や誰かを紹介するというと、どこに生まれ、どんな家で育ち、どんな学校を出て、どんな会社に行って、どんな功績をあげてというようなことを語ることが多いのですが、シオン会のみなさんの紹介はそういう紹介が中心的なことではなかったということに気が付かされたのです。
年を重ねられ、人生経験も多く、語ることはたくさんあるはずのみなさんですが、よく聞くような紹介とは明らかに異なっていました。とにかく、主なテーマは、教会にいつからいるか、教会でどう過ごしてきたかといった信仰歴に関わることが中心的に紹介されていきました。
それを聞きながら、自分と教会は切り離せない、キリストがわたしたちのうちに生きていると言える姿とは、こういうものなのかもしれないと思わされた貴重な一時を過ごしました。
イエス様によって、わたしは生きている、わたしの今がある。わたしたちは、そんな自己紹介がいつでも、どこでもできるでしょうか。
パウロは、手紙の冒頭で、“パウロが使徒として働くことができるのは、エルサレム教会の指導者たちに後ろ盾になってもらっているからに過ぎない”と述べるガラテヤの諸教会の人たちに対して、はっきりと自分が何者かを紹介しています。
自分は、「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」だと紹介するのです。
聖書に収められているパウロの手紙の中で、冒頭から、キリストの復活について語りはじめる手紙は、ガラテヤの信徒への手紙を除いて他にはありません。ここに、ガラテヤの諸教会、つまり、手紙の宛先であるガラテヤにあるいくつかの教会の共通の問題が見えてきます。
パウロという伝道者は、福音の伝道者になるまでに、人生の大転換を経験した人です。その次第は、使徒言行録のステファノの殉教からサウロの回心に至るところをお読みになればわかります。
パウロは、イエス様と出会う以前、律法を熱心に守り実行していました。それは、キリスト者を迫害し時には殺害に賛成するほどであったと記されています。それが、イエス様と出会って、180度人生の転換が起きました。
イエス様を救い主として生きるキリスト者としての生き方に目が開かれ、しかも、ただちに福音を証する伝道者としての歩みを始めました。
しかしそのような経歴ゆえに、伝道を開始したときから、迫害者であり、弟子の一人ではなかったパウロを疑う人が教会の中に多くいたのです。そういう中で、パウロが設立した、ガラテヤの諸教会もまた、パウロは本当に使徒なのかという疑いに惑わされていたのです。
そこで、ガラテヤの諸教会の人々は、指導者であるパウロが、主の弟子がいた、エルサレム教会によって任命された使徒だと言い出したのです。パウロが正統な使徒であることを証明しようと、その拠り所をエルサレムの使徒に結びつけたのです。
自分たちの指導者が、確かな人であると証明することによって、自分たちの身分も保証されるように考えたのでしょう。
わたしたちも、この思いが全くわからないわけではないと思うのです。確かだと思えるものに自分を結びつけていたいという思いがわたしたちにもあるからです。
目に見えるものに、自分を結びつけて、自分の存在を確認したい、自分が何ものなのかをはっきりさせたい。そういう願いがあります。特に、自分が存在をかけて過ごしている場所であるなら、なおさらでしょう。安心して過ごすために、自分をどこかに結びつけておきたいのです。
だから、どんな家柄に生まれたか、どんな学校を卒業したか、どんな会社で働いているか、どんなことをして社会に貢献したかということが自己紹介で、自然と出てくるのです。
そのような思いに縛られることは、教会の外だけのことではなく、教会においても見ないわけではありません。名の知れた牧師から洗礼を授けていただいた、あるいは、名の知れた教会の出身だということにこだわるということも同じなのです。
どの牧師も、神様によって立てられた牧者であり、どの教会も神様によって立てられた教会でしかないはずなのに、牧師・教会そのものに権威を求めてしまうことがないわけではないのです。
ガラテヤの信徒への手紙で、パウロの敵となった人々は、使徒としての系統を純粋にたどることのできるエルサレムの使徒がパウロの後ろ盾であると主張した人々であることはすでにお話しましたが、彼らの主張はそれだけではありませんでした。
目に見える保証を求めて、福音に律法の行いを追加し、救いに必要なものとして付け足したのです。この事情は、さらに手紙を読み進めていきますとわかってまいります。
そうして、ガラテヤの諸教会は神様の権威によって立つ伝道者に対して、人間的な保証を求めるようになったのです。神様は何の条件もいらないと、恵みによって救いを与えてくださったのに、そのまま頂くだけでよい人間の側から神様が求めもしない条件を付け加えてしまったのです。
しかし、それは、救い出される以前の状態に逆戻りすることに他ならないとパウロは語ります。4節でキリストが「この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をささげてくださった」とは、まさに、人間の価値を神様以外のものが決めるような悪しき世界から人間を救い出すために、イエス様は十字架にかかってくださったのではなかったかと迫る言葉です。
神様は、あなたが何をしたから、何をしなかったからと言って、救うか救わないかを決めたりはしない。人間のあらゆる力に頼って生きることから解放し、神様のみに信頼して生きるようになるためにイエス様は、十字架にかかってくださった、それだけが、わたしたちにとって福音なのだということを人に惑わされていたガラテヤの諸教会の人々に伝えたのです。
わたしたちも、神様の権威を最高の権威であると思っているようで、案外、神様の権威よりも、人間の権威に従っていることがあります。自分がキリスト者であると公言することが憚られる気持ち、何か奉仕をしていなければ教会に居づらいと感じる気持ち、いつも誰かに認められたいと思う気持ちがあります。
しかし、わたしたちは、この世のどんな権威でもなく、神様の権威、それも、最上の権威によって救い出されました。ですから、わたしたちは、自分のことを神様以外の誰かの権威によって、保証してもらう必要はもうありません。
わたしたちの身分は、血筋や行いという人間的な要素に根拠を置く権威に基づくものではなく、神が恵みとしてくださるキリストの十字架と復活において自分が何者であるかがはっきりするからです。
どんな家柄、どんな親の元に生まれたのか、また、どんな学校を卒業し、どんな会社に勤めたのか、そんなことは、わたしたちの価値を決めません。
大切なことは、この世の最上の権威を持っておられる方が、このわたしを救うために、御子をささげてくださった、それほどまでに、価値のあるわたしたちであるということです。
これまで何をしてきたのか、どんな功績をあげてきたのか、人からどんな褒められることをしていきたのか、そんなことがわたしたちの本当の価値を決めるのではないのです。
これ以上ない方が、わたしたちの価値を保証してくださっており、御子キリストによって神の子としての身分を保証してくださっているのです。他に付け加えるものなど何も必要ありません。
使徒パウロは、徹底的にこの事実に生きた伝道者でした。キリストと神によって、遣わされ、使徒として教会を導き、伝道しているということを大切にしていたのです。目に見えない神様とキリストが、自分の身分の保証をしてくれていると主張することは、大変難しいことでした。
けれども、パウロは、たとえキリストと神様によって使徒とされたという証明をすることに困難が伴ったとしても、それを曲げることは、福音を曲げることになるゆえにできなかったのです。このことをないがしろにして、自分が福音を告げ知らせるならば、なんの意味もないと考えていました。
それは、福音の内容そのものに関わることだからです。キリスト者は、何から救われたのか、このことが間違っていたら、福音が台無しになってしまいかねません。福音が台無しになる危機に直面して、パウロは、厳しい思いで、ガラテヤの諸教会に語らざるを得なかったのです。
パウロは自分が使徒であるということがいったい何の権威によるのかをはっきりさせることが、同時に、教会に集う者が何者であるかをも明らかにすると考えました。だからパウロは、自分がキリストと神によって立てられた伝道者として生きていると手紙の最初でのべたのです。
この戦いは、何もパウロに限った戦いではありません。教会の歴史の中で、繰り返し起こってきた戦いです。人間の罪ゆえに、神様にとって代わる力の支配が現れることは、いつの時代にもあります。
宗教改革者ルターの戦いもまたパウロの戦いと重なるものです。教皇制のもとに、人間によってつくられた制度が、福音を福音として知ることの妨げになっているということを巡るものでした。ガラテヤ書は、そんなルターの戦いを支えた書物でもあります。
いつの時代にも、神様の権威を人の権威の下に置こうとすることは起こってくるのです。今も、わたしたちの毎日の中に、神様の権威よりも人間の権威に従う誘惑は多くあります。
日々、あなたは誰なのか?何ものなのかということを問われます。そこで、人間的な権威を求めたら、いつまでも、わたしたちは、不安な気持ちでいるしかありません。
なぜなら、人間の権威は、変わるものですし、廃れることもあるからです。この世の価値観は目まぐるしく変わって行きます。昨日よかったことが、今日はもうそうではないということも起こるのです。簡単に変化するようなものに、自分の価値の保証を求めたらいつも心配していなければなりません。
しかし、神様の権威は違います。神様は変わることのないお方だからです。このお方こそが、本当のわたしたちの身分、すなわち神の子としての身分を保証してくださり、わたしたちがいつどんなところにあってもしっかりと生きることを支えてくださるのです。神様の権威のもとに生きるとき、わたしたちは正しく自分が何者であるかを知ることが出来るのです。
パウロは、キリストの十字架と復活によって正しく自分の姿を知ったとき、感謝をもって福音を伝える歩みを始めました。わたしたちも、洗礼を受けて、自分の本当の姿を知ったときから、同じ歩みが始めています。お気づきでしょうか。もう、このお方以外にわたしたちを救える方はいないのです。福音を伝える仕事以上にわたしたちにとってよい仕事はありません。
今、わたしたちの教会では、新たな伝道に踏み出そうと祈りをもって、既に動きはじめています。先月には教会フェスタを行い、また今月は新しい伝道の試みを考える委員会がもたれています。何とかして福音を伝えるために、あの手この手を考え、幻を描いています。いろんなアイディアに期待しております。
しかし、同時に、この時だからこそ、わたしたちは、伝道者として先を歩んだパウロの言葉にしっかりと耳を傾けたいと思います。
福音に覆いをかけることのないように、まず、自らが、そのままで、価値のあるものとして救い出されていることを覚え、多くの問いかけをもって、自分の価値の証明を求めるこの世界に、わたしは、キリストの者ですと言えることの喜びを確かめたいと思います。
それが、わたしたちの真の自己紹介となるまでになりたいと願います。わたしたちが、いつでもどこでも、キリストの者ですとの真の自己紹介をすることが出来たならば、そこではもう福音が告げられ、伝道がなされるのですから。 祈りをささげましょう。
主イエス・キリストの父なる神様。御子の十字架と復活によって、わたしたちは正しく自分を知ることができます。あなたが認めてくださったわたしたちの価値をそのまま受け入れ、喜ぶことができるようにしてください。わたしはキリストの者ですと語ることがいつでも、どこでもできるようにしてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によっておささげします。アーメン
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