聖暦一九五七年十月三十一日
この小史を
主キリストにありて
鎌倉雪ノ下教会につながる
凡ての兄弟姉妹に
捧げる
聖暦一九五七年十月卅一日
鎌倉雪ノ下教会
私たちの雪ノ下教会はこの十月卅一日を以て四十年の記念の年、記念の日を迎えます。私どもがまだ何んにも知らぬとき、湘南の地を選んで、居をここに定めていた数名の聖徒らが互いに語り合い、ひたすら教会の与えられんことを希い、宗教改革四百年記念、十月卅一日を卜して、最初の礼拝を守つたこと、今にして顧みれば、その意義まことに重大であつたことを感ぜずにはおられません。私どもはその当時を追想する度に感謝の念を深うする者であります。爾来四十年人は変り世は移つても、また暑いとき寒いとき、雨の日も風の夜もです、常に変わることなく、ここに讃美が声高らかに合唱せられ、主の祈りが静かにささげられて遂に今日に到つたものであります。
四十という数字は聖書的に意味深きものがある。イエスの誘惑四十日、イエスの復活四十日、モーセの祈り、エリヤの祈り等も四十日という、イスラエルが荒野にさすらつたのが四十年、ダビデ王の治世がまた四十年、使徒行伝もまず初代教会四十年の歴史という所、私どもがここに創始以来四十年を記念すること決して只の思い付きではありません。
四十年、短いというてもそんなに短かくはない。日本伝道史的には宣教百年の後半を占める時期、世界史的には世界第一戦争前後から世界第二戦争の終結する処までの四十年間、関東大震火災そしてその再建設より空襲爆撃による戦災そしてその再度の建設時代、郷土的見地よりいえば人口二万足らずの町か村か、古風を帯びた史都にして静養地といつた鎌倉から人口十万にもなろうという、そして大東京の衛星都市天下の鎌倉へと発展の途上、容易でない四十年の星霜、そこにキリストの体なる教会が次第に形成されて来た教会の歩み、たどり来た過去を顧みると感慨無量、手を胸に当てて徐ろになで下す気持になるのは自然の数であります。
指折り数うる程の聖徒たちより発足して今は六、七百名の教会員を数うるまでに成長してはいますが、その巡礼の旅路に於て、地上より天のすまいに移きれていつた同志同信のもの、どんなに数多きかを想う、その度に涙を新たにするものであります。でもいづれの日に於てか再会を期してまちましょう。主の約束を見ずして逝きしものの祈りを無にしてはなりません。
出エジプトもその終りに近づき、約束の地を遠望してモーセの語つた言葉を二つ三つ思い起します。
“エホバの汝らを愛し汝らを選び給ひしは汝らがよろづの民よりも数多かりしに因にあらず、汝らは民のうちにて最も小さき者なればなり。”
“汝記念すべし汝の神エホバがこの四十年の間汝をして荒野の路に歩ましめ給へり是汝を苦しめて汝を試み汝の心の如何なるか、汝がその誡命を守るや否やを知らんためなりき。汝を苦しめ、汝を飢しめまた汝も知らず汝の先祖等も知らざる所のマナを汝らに食はせ給へり、是人はパンのみにて生るものにあらず、人はエホバの口より出づる言によりて生るものなりと汝に知らしめんがためなり、この四十年の間、汝また念ふべし、人の其の子を戒しむる如く汝の神エホバも汝を懲め給ふなり。”
“汝ら是等のわが言を汝らの心のうちにをさめ、之を汝らの子等に教へ家に坐する時も路を歩む時も寝る時も起る時も、これを語りまた汝の家の柱と汝の門に之を書きしるすべし。”(申命記旧訳による)
こういう聖言に励まされて当教会の小史を編述するの志を与えられ、四十年の記念とし度いことに教会員一同賛成し、藤掛先生を煩わして執筆を願うた次第であります。かくて小なりと云えども、当教会の伝統というか遺産というか、願う事ならこん後尚之を保存し之を生かして福音の使者としての使命を完うし、万難と戦いつつ、十字架を負うて立つ所の教会となり、イエスの期待し給う通り、この曲れる時代にあつて世の光の如く輝き、地の塩ともなつて栄光を神に帰し奉るものであつてほしいのであります。敢えてここに四十年教会行伝を発行する所以であります。
教会創立四十年を記念するに当り、年余に亘つて百五十万円という多額の献金を頂きましたが、そのうち百三十万円は会堂の改造増築修理に当てたものであります。従前よりズット立派な会堂になりました。鎌倉市の中央、交通の中心地に会堂が毅然として高く立つて聳え、宣教の任を負うこと感謝感激の至りであります。忘れてならぬのは聖パウロの言葉の如く「わたしの求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなた自身なのだから」と。宗教改革の精神は常に絶えず何時までも改革してゆく精神である。四十年の歴史ある鎌倉教会は更に延長発達することを望みつつ。
牧師 松尾 造酒蔵
雪ノ下教会四十年史
鎌倉に日本基督教会を建設することが最初に協議されたのは一九一七年(大正六年)十月十六日であつた。
それより前、鎌倉には日本基督横須賀教会の信徒の家庭が十軒程あり、一九一五年(大正四年)北海道より横須賀に着任された山本喜蔵牧師(現、日本基督教団長原教会)が聖日の午後鎌倉に来られて家庭訪問をしておられた。それらの家庭の内に、清水侯忠夫妻(注l)中台順吉夫妻(注2)寺島大浩(注3)沖本幸子(注4)等の諸兄姉があつた。
一方横浜海岸教会の長老石井政次郎兄とその令女三浦安子姉の家庭が鎌倉に移つて来られてからは、海岸教会の笹倉弥吉牧師(注5)も鎌倉を訪問される様になり、日曜の礼拝の事を気にしておられた。之等の信者の内には、鎌倉メソヂスト教会(現、日本基督教団鎌倉教会)の礼拝に出席している人々もあつたが、その会員にはなりきれずにいた。
笹倉、山本両牧師が交互に来鎌されること三年位、日本基督教会を鎌倉の地にも建てようとの祈りは、ようやく熱し深められていつた。
かくして、清水侯忠夫妻、寺島大浩、沖本幸子、石井政次郎等七、八名の信徒諸兄姉が扇谷の中台兄の家に集り、前述の如く日本基督鎌倉教会の建設を協議するに至つた。
この年の十月三十一日はマルテイン・ルターがウィッテンベルクの城教会の扉に九十五ケ条の提題を揚げて、教会改革の意志を明にした日(一五一七年十月三十一日)の四百年記念日であると共に、大正天皇の天長祝日でもある聖日であつた。
この日東京では、日本基督教会同盟主催の宗教改革四百年記念会が催され、小崎弘道牧師、井深梶之助牧師等によつて、現代日本に於て、宗教改革の精神が高揚される必要が説かれている。
この記念すべき日に、我が教会は、東京より富士見町教会植村正久牧師を迎え、笹倉、山本の両牧師並に中会其の他の牧師等が相集い、大町名越通り石井政次郎兄宅で礼拝を守つた。これが我が教会最初の礼拝である。集る者は三、四十名であつたという。
その後、毎聖日の午後、笹倉、山本両牧師が交互に出張されて礼拝が石井家に於て行われた。当時の信徒は僅に十数人であつた。
五月十二日東京中会は当教会を自給伝道教会として公認し、委員をつかわして宣言をなし、伝道教会の設立式が行われた。
伝道教会委員として清水侯忠、石井政次郎、片山愛子(注6)石井さよ子、山口多津子(注7)三浦安子の諸兄姉が選出され、六月九日第一回委員会が開かれた。十月三十一日には創立満一週年を記念して、植村正久、笹倉弥吉両牧師による伝道集会が鎌倉クラブを会場として行われた。
一月二十六日の献金は全部、日曜学校に寄附されている。この春より、指路教会の伝道者松山昌三郎先生も、当教会を援けられた。五月十二日は伝道教会となつてより満一年となるので、之を記念して、日蓮宗の僧侶より牧師となられた今井革氏を招き、鎌倉の町内に広告張出等、多くの準備を以て伝道集会をなした。イースターに、日曜学校生徒との合同礼拝が初めてなされている。十月十日新入会員歓迎の会が、当時教職者の保養施設となつていた稲村ケ崎の静養館を会場として開かれた。
昨秋留学の為に去られた山本牧師の後任として横須賀教会の牧師となられた、吉本一良牧師(現、上諏訪教会)が春から夏まで当教会を応援された、この春、婦人会は誕生した。
二月、委員会に於て、教会堂建築に関する協議がなされ、清水侯忠、山口多津子、三浦安子、山崎えりさの諸兄姉が建築委員として選出された。
六月、三浦安子姉が死去されてから、集会は清水家に移つたが、八月の臨時総会に於て教会を小町三百四十五番地山口多津子姉宅に移すことになり、爾来、新会堂建築まで、ここで礼拝がなされた。この家は、現教会所在地(雪ノ下三百四十五番地)に近く、蛭子神社の隣り(現、浜口邸のところ)で、草葺屋根の家であつた。札幌教会を辞して東京神学社の教授となる為に上京された高倉徳太郎先生(注8)を当教会の伝道者として招聘することが、委員会に於て決議されたのも八月である。之より先、静養の為に朝鮮より鎌倉に来られ当教会の委員となられていた、枡富安左衛門、照子の夫妻(注9)また相続いで朝鮮より引越しになつた秋山真男夫妻等が加わつて、高倉先生を当教会にお迎えするのに力となつた。この時からこれまで午後二時であつた礼拝を、午前十時にすることになつた。
十月になると、これまで月二回鎌倉に出張されていた高倉牧師が、毎聖日礼拝の説教をなさるようになる。この頃信徒は日々に加わり、内又、信仰の充実を覚えた。
春、高倉先生は英国留学の準備の為、鎌倉を辞され、その後に、当時東京中渋谷教会の伝道委員であられた本間誠農学士(現日本基督教団目白町教会牧師、東京神学大学教授)が出張応援されることになた。七月になると本間先生は約束期日が満ちたので辞任され、後任者の選定が委員会で議された。そして、植村正久、高倉徳太郎、森明の諸先生方の尽力を乞い定めることとなつた。
神の御恵みにより、松尾造酒蔵先生を当教会の牧師として招聘することが決定されたのは八月二十八日の臨時総会に於てであつた。
松尾先生は、八月中旬、数年間の外遊生活を終えてスコットランドより帰国され、同じ船で高倉徳太郎先生は旅立たれた。
九月一日松尾先生は当教会の主任伝道者として、赴任された。松尾先生は、明治学院神学部及び東京神学社の講師ともなられ、牧会と同時に、神学生の教育にも力を尽されることになる。(一九三一年―昭和六年―まで日本神学校の講師をつとめられた)当時、先生御一家は、横浜市中区南太田町千九百八十四番地に居住して居られ、生活費月百円を要する時代に、教会の先生への謝礼は、三十五円であつた。当時の会員数は現住会員は二十四名、他住会員七名、準会員七名である。
新年、初週祈祷会を以てこの年は開かれる。二月になると教会に同居されていた山口多津子姉が転居、現在の家は何時第三者に売渡されるか不安の状態となる。委員会は会堂に関する件を協議し、祈り更に祈り熟考の上、全員一致を以て、「新会堂は新築する事、土地は借りる事、建築は約三千円とす。各委員は分担して個人毎に説得理解せしめる事、他の教会にみだりに助力を乞わざる事、特別の有志者の賛成を乞う事」を決議する。その後相集りて、連日連夜の祈りをなし、更に犠牲と克己献金の実行を期し、三月十九日臨時総会に於ける全体一致の決議によつて、大町蔵屋敷七百八十八番地を選定し、新会堂を建築することとなつた。この地は、鎌倉御用邸(現御成小・中学校)の斜め前にあり、周囲は一面畑となつていた。八月二十六日新会堂の献堂式と共に教会建設式が挙行され、一九一七年(大正六年)以来祈り続けられて来た日本基督鎌倉教会(今日の第一種教会)は五年目に建設されたのである。当時五年にして独立自給の教会となつたのは、余程の発展であるとされ、信徒の喜びと感謝とは大いなるものがあつた。
この秋、(九月二十八日)前年秋より祈りの中に計画されて来た金森通倫氏の特別伝道集会が、全教会員の感謝と決意の中に、由比ケ浜通りの劇場に於て開かれた。この為に、鎌倉町内の各小・中学校、高等女学校、師範学校に集会案内のビラを配布し、鎌倉、片瀬、逗子、大船に三万枚の宣伝ビラを配布、教会員は戸別訪問をし、各種大小の広告札、二十八日の朝は新聞差入広告、などの準備の外に、教会ではその為の連続祈祷会が開かれた。そして伝道後の求道者会の準備もなり、当日を迎えた。会場は上、下階とも満員となり、不思議な神の御力を拝する集会であつた。
この頃、教会は内側からも整い、独立教会となると共に伝道教会当時の委員会は小会(長老会)となる。十月の小会に於て「以後毎月の教勢及会計報告をなすこと、兄弟会、婦人会等の各会より毎月の集会報告を月末までに小会に提出すること、個人の消息も特別の必要あるかぎり各自より小会に報告すること」など決められた。当時の兄弟会は会員十二名(他住六名)、第一日曜日に集会していた。聖日礼拝の報告もこの頃兄弟会員の奉仕により印刷される様になつた。十一月十日女子青年会は、集会者九名をもつて発会した。
十一月二十六日には、松尾先生の教師任職と牧師就任式が井探梶之助、植村正久、郷司慥爾の諸先生によつて行われ、教勢はいよいよ充実していつた。この頃信徒の総数は大人三十三名、小児三名であり、聖日礼拝出席平均は四十一名、祈祷会は九名、日曜学校は男生徒三十四名、女生徒六十五名、計九十九名、平均出席七十三名であつた。クリスマスには、大人十三名、幼児四名の受洗者があつた。落合義貞(注10)朝永米子の諸兄姉、幼児としては松尾巌、朝永良夫等が含まれている。尚このとき松尾きく子姉(海岸教会より)岡田正夫兄(指路教会より)メリ・ホール姉(注11)(米国カリフォルニヤより)等が当教会に転入した。
二月の定期総会に於て、新に岡田正夫、結城兎鹿子の二氏が執事として選出された。この執事の制度は、一九四二年(昭和十七年)まで続く。三月、兄弟会は青年会と改称された。又、この月の小会記録には、
「事後毎月第二日曜日をもつて日曜学校献金補助安息日に定め、一般にその都度趣旨を広告して、献金の意義を徹底せしめること」
とある。又、この小会に於て、逗子に毎月第四聖日の午後伝道集会を開くことが決められたが、之が当教会の出張伝道の第一歩である。この年より、五月十二日を教会設立記念日として、爾後毎年親睦会が開かれることになつた。岡田正夫執事(現、日本基督教団御坊教会牧師)は、この春東京神学社入学のため辞任した。七月には、三名の受洗者が与えられ、青木寿代姉(現、県立箱根養老院長夫人)、亀井政一兄(現、日本基督教団水戸教会本阿弥政一牧師)等が含まれている。
このように教会は、会堂の新築と相待つて、内外ともに充実発展の途上にあつたが、この年(一九二三年―大正十二年)九月一日の関東大震火災によつて、突如として第一回目の苦難の道を歩むことになつた。新築満一年を経たばかり、緑の壁に赤屋銀の美しい会堂は、倒壊し、自家の壊めつの内からも、教会の安否を気遣つて飛んで来た、日曜学校生徒山崎松代さん(現、御殿山教会牧師村中常信氏未亡人)一人に見守られて焼失した。
横浜の松尾牧師宅も又大災の中にあつたが、九月四日、牧師は交通機関の全くとだえた鎌倉に徒歩にて到着され、途中大船にて買入れられたさつまいもを、食料不足の信徒の家にくばり、一軒一軒すべての家庭を訪問された。その結果、九月七日に謄写印刷で出された「日本基督鎌倉教会の状報第一報」によると、信徒の罹災も又甚だしく、教会に関係ある七十二軒の中、全焼八、破壊三十九、破損十一軒を数え、十三名の死亡者が出た。そうした中にも、死傷のあつた家族や特に難儀の状態にある人々を、互に見舞い、相互に助け合いが行われた。地域社会の救済事業に教会として援助が行われた。聖日礼拝は、二回休み、九月十六日扇谷の渋田見栄子姉(現田園調布教会員、毛利官治牧師の親戚)方にて再開され、日曜学校は次の聖日から開かれた。この年の中会への教勢報告の中に次のような記録がある。
「本年初より、教状順調と言ふ可く、会員、客員増加し来りたるも、九月一日震災により死亡又は他へ移転せし者ありて、就中客員、会友に多きを認む。日曜学校生徒は震災後も減少を来さず。会員は震害を蒙らざる者なく、為に諸状況は困難を感ず。九月一日の震火災にて諸帳簿記録、会計簿等の焼失散逸せるもの多くありて統計を得ること不可能のもの多きを遺憾とす。」
しかし、まだ震火災の余塵おさまらない十月七日、震火災後初めての小会を守り、次の聖日礼拝後、臨時総会を開き、附近の復興事業のさきがけとして、焼跡に少し離れた空地を利用してニ重大天幕を張り、諸集会を復活した。この幕屋に於ける礼拝は、翌年二月十日まで続く。この秋、亀井政一兄は留学の為渡米された。クリスマスには、十数名の受洗者があり、山崎松代さんもその一人である。
一月、六千六百円の予算で、建坪五十坪の新会堂が建設され始める。二月十七日より(大天幕は大雪のため破損)雪ノ下清水氏邸にて集会を守つていた教会は、三月十六日以降新築の教会堂にて聖日礼拝を守るようになつた。その直前、三月十四日、五日の二日間、賀川豊彦先生を迎えて、講演会が開かれた。五月十日(土)旧会堂敷地の隣に建てられた会堂の献堂式が挙げられた。この建物は、バラック建築であつたが、半永久的なものであつた。
八月になると、一日より二週間にわたつて、小学校四年から中学校二年まで、二十八名の生徒と、教師十二名で夏期聖書学校が開かれた。当時の日曜学校校長は、後に福音教会の伝道者となつた木山勇司兄である。九月、これまで毎聖日礼拝前、バイブルクラスを開いて、教会によき奉仕をされていたミス、メリー・ホールが帰米され、小会に於て、今後横浜市山手にある共立女子神学校に伝道の応援を依頼することが決められた。この年の教勢は、礼拝出席三十二名、祈祷会八名日曜学校在籍生徒百十六名、平均出席八十名となつている。なお、この数字は一九二九年(昭和四年)まで大差なかつた。
一月、教会の為に後援を惜しまれなかつた植村正久牧師は逝去された。この春、榊原巌兄(神戸神港教会より)藤原藤男兄(シンガポール教会より)静養館の館長稲沢謙一、慶子夫妻(注12)が当教会に転入した。しかし、英国より帰朝、戸山教会(信濃町教会の前身)を建てて伝道中の高倉徳太郎先生の下に、長老の枡富安左衛門、照子夫妻(七月)及岡田正夫兄(九月)は居を東京に移して転出するに至つた。日曜学校は、花の日(子供の日)礼拝を、大人と共に守り、又、定期の日曜学校教師会が毎月開かれるようになる。夏期学校は午前と午後二回に分けて、聖書讃美歌の外に学習指導、体育等も行われた。
この春より、漸次湘南地方一帯に、伝道が活溌に行われるようになり、再開された逗子方面の伝道礼拝は、毎回八名位の集会となり、稲村ケ崎方面の伝道礼拝には十名位が集るようになつた。日曜学校もこれと共に出張し、七月には稲村ケ崎分校に二十三名の出席者を記録している。ここでは、稲沢文子姉などが中心となり子供達をみちびかれた。九月になると、逗子にも日曜学校が開かれるようになつた。爾来出張伝道は盛に行われ、次期の当教会の一つの特色を形造るが、その基礎はこの頃出来たといつてもよいであろう。
教会堂新築の為の負債残金千百円については、前年八月の臨時総会に於いて特別会計委員を定め、その始末に努力中であつたが、六月、ニューヨーク、エリコットビル長老教会(WebMaster註:おそらくthe First Presbyterian church of Ellicottville、今日のUnited Church Of Ellicottvilleの前身であろう)の日曜学校の生徒が、教会復興の為にと、祈りをこめて四十五ドル(百七円四十六銭)を送つて来たことには、一同感激を与えられた。九月には、教会堂の為に婦人会主催の音楽会が大竹千里氏を迎えて会堂にて開かれた。九月より当分の間、朝夕礼拝の案内を印刷し、新聞に差入れて、町民に教会を紹介することとなる。この頃、教会の経常費は不足勝ちであり、十一月の小会記録には、次の如くある。
「経常費不足につき、募集法最も難問題なりし故、長時間を要したるも、御恵みの下に望みを以て閉会することを得て一同感謝に満ちたり。熱祷もて閉会す」。
この年のクリスマスには、教会より老人・嬰児・病人等へ、心をこめた贈物をなすこととなり、その後もこの美風は育てられた。
教会設立記念日の前後に、春季特別伝道集会が、田川大吉郎氏によつて開かれた。六月、当教会は、財団法人として登記を完了。この夏、藤原藤男兄は、市ヶ谷教会に転出。磐井ひろ子姉が、力行会基督教会より転入した。又、小会相談役榊原巌兄を、福島高商教授としてかの地に送り出すこととなる。十一月二十四日、中会問安使として来られた金井為一郎先生を迎え、秋季特別伝道会が開かれ、集る者六十五名、感激に満ちた集会であつた。この集会の蔭には、前日の大暴風雨を冒して牧師始め教会員が戸別訪問の準備をなしていたことが覚えられる。
この年、男女青年会が再建された。震災以来第一回目の青年会は事実上中止の状態にあつたが、八月十五日先ず女子青年会が再建、第一回の集会を開き、九月には男子青年会が再建された。山崎松代、田丸郁子(現、宝蘭工業大学長大賀博士夫人)、牧野淑子(野畑長老夫人)、井上伊曾子(現、白金教会長老)、田丸房義(現、フェリス短大講師)、瀬谷重治(現、東北横手教会牧師)(webmaster註:瀬谷寛牧師の祖父)、佐竹斉吉(鎌倉保育園)、牧野敏成(音楽家)等の諸兄姉がそれぞれその中心であつた。十月になると日本基督鎌倉教会報「聖(せい)の暁」が青年会によつて発行された。これは当教会最初の機関誌であり、数年続いて、一九三〇年(昭和五年)八月から、「鎌倉教報」に引継がれた。爾来、数年の断続があつたが、戦争末期「かまくら」の廃刊まで、よき教会報は、当教会の一特色となり、他住会員との連絡に、病者の慰問に.又教会員相互の交りに、大きな役割を果した。創刊当時の「聖の暁」は、半紙半折大、五十頁の謄写印刷によるものであつたが、第六号(一九二七年六月)より活版印刷三十頁のものとなつた。
「日基系に属する教会報としての本誌は、少くとも第一流に属している。小教会ではあるが、その点会員諸兄姉と共に誇り欣ぶ所である。」(第八号)
との編輯氏の言葉通り立派なものである。教会報の指導精神は、松尾牧師の創刊の辞の中に明示された。
「或るとき、イエスが身を屈めて、指にて地に物書き給ふたといふが、その外に我等は、イエスが筆とり給ひしや否やを知らない。然しやがてイエスは、多くの人をして筆とらしめ給ふた。それが後世基督教の聖典となつたのである。英国の清教徒は当時の文芸がその信仰生活に有害なるを痛感し、極力これに反対しこれを破壊せんとしたるに、バンヤンの天路歴程やミルトンの失楽園の如きは、芸術破壊者清教徒が我等に残した不朽の聖文学となつている。そこに矛盾がある。然し生活のある所、必定文学もあるわけで、やはり神は父、人はその子、芸術は神の孫に当ると言ひ得よう。鎌倉の地に基督教が体験せられつつある以上、ここに文芸の産れ生ずるも決して不思議ではない。これ鎌倉教報の発刊される次第である。鎌倉教報は、先ず当地方の基督者の真正直な生活記録であるべき筈で、決して無理して書いた論文集や、形容詞豊な美文撰の類たらんとしてはならぬ。教会生活を映す鏡を以て自ら任じ、どこまでも真実をその旨としたい。或は伝道の悪戦苦闘を書き、或は病床に恩寵あふるるの記、或は家庭に於ける信仰美談、或は救の実験談等を伝へたい。或は又神の国の理想を論ずるも可、湘南の天地自然に反映する神の栄光を歌ふも可なり。時に又信仰の友より来る手紙等を公開するのも甚だ興味深いことであらう。思ふに、この教会報は、われわれの力となり、慰めとなり、数多の人々に歓迎せらるるばかりでなく、時と共に、将来貴重な証書となるに相違あるまい。これ鎌倉教会報の発刊を祝す所以である。(以下略)」。
当時の日曜学校の様子を、「聖の暁」(第一号)より引用してみよう。
「最近の様子をお知らせ致します。今年の毎月の生徒出席数は平均五十人位です。そして九月の出席数を申上ぐれば平均四十七人で、男生十五人、女生三十二人です。教師は八人で、男教師二人、女教師六人です。生徒は、八つの組に分れて居ます。幼稚科は二つに、一二年男女、三年男女、四年男女、五六年男女、中等科、女学部に分れています。幼稚科には星取表を用いています。又生徒各自にノートを与えて金言を記しカードを張る為に用いています。時々家庭に持ち帰り、父兄に見せ、各自の感想、絵画等を書いて居ります。誕生日には、誕生日カードを与えノートに張つて置きます。クリスマス、復活節、花の日の外に、時々お話会、親睦会等を致します。毎月第一の土曜には教師の宅で教師の研究会を致します。只今では日曜学校の教材の研究をして居ります。又毎月の終りの日曜日の礼拝後には教師会をいたして居ります。」
十二月七日、教会に於て、男子青年会の第一回例会が開かれ、暴風雨をついて七名の者が集つた。十二月十五日「聖上陛下御病気の為の祈祷会。」十二月二十五日、大正天皇崩御。昭和を迎える。
「神は又新年の渡りに際し、われらのために必ずや途なき途を開き給うべし」、とは昭和の最初の春、「ヨルダンの渡り」と題する松尾牧師の説教の結びである。昔、イスラエルがヨルダンを渡らんとして、「身を清めよ、契約の箱に従え」との神の声に、新に聞き従つた如くに、我が教会も御言葉に従つて、祈りと決意の内に、カルバリもゲッセマネもある新しき地へと進んで行つた。
この春、バクストン宣教師の感化を受けた野畑啓二郎兄(現長老)が神田ホーリネス教会より転入した。兄は早くより病気静養の為に鎌倉の地に来られていたが、一度当教会に来り、その礼拝に祈りのみち又会堂にまで祈りがしみこんでいる事を体感して、当教会を礼拝すべきところとして決められたという。新しい時代を迎えて、教会の祈りは深かつた。
一月、京都室町教会日高善一牧師を迎えて、三日間、七回にわたる講演会が開かれ、之によつて数人の求道者が起され、教会の信仰が燃されたのは感謝であつた。この月、児童に対する伝道として、野辺地天馬氏によるお話し会があつたが、その為には、市内三小学校の校長を訪問、教師、児童の来聴をうながすなどの準備がなされた。四月五、六日には、東京中会(今日の教区総会にあたるもの)が当教会で開かれ、教会をあげて歓迎の態制が整えられた。五日の夕は中会主催の特別講演会が、芝教会富田満牧師、貴族院議員渡辺暢氏によつてなされ、教会全体の祈りと奉仕による準備の上に神の祝福は豊に、来会者は堂に満つる盛会であつた。この春から青年会に読書会が設けられ、毎月一回会員が順番に自分の愛読書の一つを紹介し、共に批評し思索し、相互の思想を豊富にしようと云うことになつた。第一回は瀬谷重治氏が「ゼーレン。キエルケゴール」(和辻哲郎著)に就て話しをした。五月十二日には朝の礼拝後、教友鎌田氏の斡旋で、一の鳥居の島津公別荘(現在の婦人子供会館の附近)に於て、親睦会が開かれた。南風がひどく、空模様が険悪であつた為、五十名位の参集者であつた。三時半頃残つた一同芝生に集つて記念写真を撮つたのが、前掲の写真である。七月二十四日二名の洗礼式があり、野川群鳳氏(注13)もその一人である。
十月の小会に於て、之まで葉山方面に開かれて来た「もよりの会」を発展させて、毎日曜日の午後、牧師が聖書講義に行く事になり、いよいよ葉山に講義所が設立されることになる。翌一九二八年(昭和三年)一月二十日の小会に於て「当教会の所属伝道所として現在ある講義所を、親子の関係に於て助け、将来は独立教会とする意味に於て助力すること」になり、名称を、日本基督葉山講義所とした。之が今日の、日本基督教団葉山教会の前身である。
一月二十九日に開かれた、第六回定期総会に於て、本年五月十二日に、当教会創立満十年を迎えるに際して、教会土地の買入れ、及会堂牧師舘の建設を十週年記念事業として始めたいとの動議が出された。一九二四年(大正十三年)来の会堂は半永久的建築ではあつたが、バラック式であつたので、献堂と同時に、借地に建てられた仮会堂が、本会堂へ改められる事への祈りが始められていたが、この年創立満十年を迎えるにあたり具体化されたわけである。総会に於ては、計画の考案を小会に委任することを議決し、その後、役員以外の十二名をも加えた、十八名の創立十週年記念事業委員会に於て、祝賀会、伝道集会等と共に、土地及会堂の件が熟議された。四月一日、十週年記念事業の為の臨時総会が開かれ、本年中、春、夏、秋三回記念伝道集会を催す事、五月十二日には、設立第十週年記念祝賀会を開く事と共に、向う三カ年間に会堂建築募金二万円を募集する事が議決された。この頃、当教会の年間収入合計は千百五十三円であり、当時の会堂(第二回目の会堂)の為の負債が未だ完済していない時である。
五月十二日、原田友太牧師、山本喜蔵牧師、中渋谷教会今泉源吉長老、鎌倉メソヂスト教会美山貫一牧師其他数十名が来会され、記念祝賀会が開かれた。そして、記念伝道として工学博士山本忠興、救世軍少将山室軍平(春期)、海軍中将波多野貞夫(夏期)等の方々の集会と共に、十月二十八日には創立十週年記念礼拝が感謝の中に献げられ、その前後三日間、横須賀教会出身の日本組合芦屋教会長谷川敞牧師による秋期特別伝道会が行われた。十一月に入ると基督教徒御大典記念奉祝大会が合同にて、メソヂスト教会で開かれた。
この年、榊原巌兄は福島教会へ転出、藤室松次郎兄夫妻(注14)は受洗して当教会に加つた。
創立十週年記念事業として始められた会堂建築募金は、その後、十年記念建築委員会によつて推進され、募金に土地の物色に活動が続けられた。当時は丁度不景気のどん底にあつて五銭、十銭と血の出るような献金が献げられて行つた。この後十五年間、会堂建築は、教会員一同のたえざる祈りの課題努力の目標となつて来る。この年、会堂の一部が増築され、磐井ひろ子姉(注15)が留守番として入られた。爾来約十五年、何時行つても教会員は自分の家に帰つた如く暖かく迎えられ、姉は「磐井のおばさん」の愛称をもつて皆に親しまれた。この頃から鎌倉の各所に最寄り会が開かれる様になる。名越方面(寺島兄宅)、扇ケ谷方面(田丸姉宅)、由比ケ浜方面(鈴木幸子姉宅)などがそれである。この年の春は、村田四郎先生からロマ書の連続講演をうかがった。
なお対外的には、前年来の宗教団体法案に反対する運動が続けられ、反対委員会への送金を盛んに行う様になつた。
この春、日本全国にイエス宣教千九百年記念神の国運動が基督教各派連合にて起された。神奈川県でも県下全教会連合で、向う二ケ年間この運動は推進される事になり、松尾牧師が湘南地方神の国運動のために働かれる事になつた。四月には、連合神の国運動修養会が開かれ、当教会より二十数名が之に参加。五月十九、二十日の両日、第一回の集会として、賀川豊彦氏の伝道会が開かれ、六月一日より三日間、外村義郎氏が講演会をなされた。この頃、鎌倉は人口二万六千人であつたが、之を神にささげる大なる幻を持つて、熱祷が続けられた。夏になると、ここ二、三年来「唯名のみとなつていて何等の働きもしないで過して来た」(鎌倉教報第一号より)男子青年会が、追々人を得、機熟して活溌に動き出すことになつた。野畑啓二郎、牧野敏成、野川群鳳、大塚孝、北村省三(在南米)等の諸兄である。当時の青年会は、既婚、未婚をとわず、教会内の若き層の集りであつた。この群によつて、八月十五日、「鎌倉教報」の第一号が発刊された。編集委員は野畑啓二郎長老、牧野敏成兄、野川群鳳兄である。「鎌倉教報」という名前は、高知教会の「海南教報」大森教会の「大森教報」などを参照として付けられたもので、飽くまで「教会報」としての使命を全うする事を目的とし、永続的なものとする為に、内容、外見も質実に出発した。半紙半切大、謄写十八頁のものである。一九三二年(昭和七年)四月に十九号が出て、しばらく休み、一九三四年(昭和九年)九月には復刊二十号が出された。この時は野畑啓二郎長老、渥美清枝伝道師等が編集にあたり、一九三七年(昭和十二年)二月、四十五号を以て、翌三月より「かまくら」に引継がれる。「かまくら」は、児島三郎長老が編集の任を引受けられた。
さて、この年発刊された「鎌倉教報」であるが、編集委員の細かい注意によつて、個人的色彩がのぞかれ、「教会報」としての使命に忠実であらんとしたあとが明であり、当教会の機関紙として最もよく、その使命をはたしたものといえよう。特に野川兄による謄写印刷は、すぐれたもので之を見て一言一句に「彫心縷骨」の感があると、いつた人がある程である。こうしたよき奉仕が祈りによつてのみ支えられる事は、この頃、毎土曜日の早朝六時より、青年達が教会に集つて祈祷会を開いている事実によつても明である。
さて日曜学校に眼を転ずると、山崎松代姉は共立女子神学校を卒業、七年間育てて来た会員十数名のシオンクラブ(女学生の会)を残して結婚、東京御殿山教会に去られた。
この夏になると、松尾牧師を始め、有志の方々からの献本二百部を基にして、図書部が青年会によつて開設され、次第に整備されて終戦の時にまでおよんだ。この内には我が教会員の著書、訳書も次第に加えられて行つた。川村勝子歌集「郭公」、児島三郎「古稀選集」、「そぞろ言」、松尾武・野川群鳳共訳、パターソン原著「聖パウロの神学思想」、鈴木文治著「労働運動二〇年」、中村明著「病床受洗」等々である。
この年の教勢の諸統計を見ると、次の通りである。信徒百五十七名、聖日礼拝出席平均朝五十名、夕二十名、祈祷会十三名、日曜学校生徒五十五名、出席平均三十八名。聖日朝礼拝の出席平均が五十名というのは、一九二三年(大正十二年)震火災前以来初めてのことであつた。
震災以来の第一の苦難の時をのりこえて、内的にも充実して来た教会員の心構えを現すものとして、この年の「鎌倉教報」にある「教会員の心得」を引用して見よう。
- 教会員の心得
- 一、教会の集会には聖日の朝夕の礼拝は言うまでもなく、毎水曜日夜の祈祷会、その他の特別諸集会にも、病気の外は万障を繰合せて参加出席すべきこと、
- 一、聖書は神の言葉として新旧約共に日夜これを精読し、又機会ある毎にその研究にいそしむこと。
- 一、家庭の信仰生活を重んじ、毎日揃うた時、礼拝をなし、又様々の思出の日を活用して、或は親戚を迎え友人を招きて、少くとも年一回は家庭の集りを持つこと。
- 一、教会員はその消息を教会に知らせること。殊にその移転の時事故の時、何事によらずその身の上に変化のありし場合には、早く通知すること。
- 一、教会を愛し、牧師役員を大切にし信仰の友とよく交り、喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しみ、内兄弟愛を盛にし、外伝道に熱心であるべきこと。(以下略)
十月十九日、富士見町教会牧師三好務先生をお招きして、神の国運動秋季伝道が行われ、六十三名の来会者があつた。十月二十四日より笹倉弥吉先生は、同運動の一環として三日間、十二回に及ぶ、実に献身的な働をされた。これ等の伝道によつて、多数の決心者、求道者を生じたことは感謝であつた。「顧みて、本年は恵まれた一年でした。その中には懺悔すべきことの多くを含むのも否めませんが、尚数え切れない感謝を思はずにはいられません。その中でも神の国運動を通じて私達は多くの兄弟姉妹と共に新なる希望に進んだことであります。御国を来らせ給への祈りが現実となつて、感謝すべき収獲を与えられたことであります。」とは、年末の全教会員の思いであつた。
この年は満洲事変の起きた年であり、上海方面へ飛火したのは翌昭和七年である。
然し神の国運動第二年目を迎えて、教勢は鎌倉を中心として、三浦半島一帯に順調にのびつつあつた。葉山、逗子、七里ケ浜、片瀬の伝道は、次第に実りつつあり、この年春、地理的にも偏在し、漁村に過ぎない為今まで省みられなかつた小坪にも小坪サナトリウムの関係の山崎、金田、長尾、河野の諸兄姉や、当時小坪小学校の教師であつた伊奈きぬ子姉の家を挙げての協力によつて、日曜学校の分校が生れ、生徒も五十名を数えた。これ等の諸集会はそれぞれ恵まれて充実発展して行つたけれども、かなりの妨害もあり、決して平坦な道を歩んだのではなかつた。それにも拘らず、逐次進展して行つたことは、全く神の御恩寵と、熱心な教会員一同の努力というより外はないであろう。この頃になると、こうした出張伝道が当教会の一つの特色となつている。この間の消息につき「鎌倉教報」第三十二号(一九三五年―昭和十年―十二月二〇日発行)の一部を引用してみよう。
「鎌倉教会の一つの特色は出張伝道である。鎌倉教会それ自体がその起源に溯つて考ふれば横須賀及横浜海岸教会の出張伝道の成果である。かくして建設された鎌倉教会が或は葉山に或は鵠沼(編者註=鵠沼湘南学園にて一九三四年―昭和九年―六月より日曜学校及礼拝を始めた)に早くより出張伝道を試みたことは決して偶然ではない。色々な変遷はあつたけれど今日葉山では宮崎小八郎教師(編者註=葉山伝道には宮崎教師以前に松山昌三郎教師築山左門教師が伝道をなし、一九三六年―昭和十一年―一月より杉田虎獅狼教師が就任した)が、鵠沼では永橋卓介教師が専心その伝道の衝に当つていられることは喜ばしき限りである。鎌倉教会は今一つ横浜弘明寺に出張伝道地を有している。(編者註=現在の横浜大岡教会の前身)ここにも既に五、六年の歴史がある。最初は会員青木寿代姉宅での家庭集会であつた。(後略)」。
さて五月には、創立十三週年記念と神の国運動を併せた三日間の連続伝道が、当教会創立当時哺育の労をとられた山本喜蔵牧師をお招きして開かれた。早天祈祷会、家庭集会、各家庭の訪問、夜は一般の伝道会、又日曜朝の礼拝、日曜学校の大会と殆んど寸暇なく、三日間早朝より夜晩くまで、凡そ拾数回の集会であつた。何れの集会にも出席多く、且又求道者をも多く与えられ、充分の成果を収めたことは感謝であつた。
五月二十四日、創立十年記念会堂建築の件につき臨時総会が開かれた。一九二八年(昭和三年)に、向う三ケ年間、二万円の募金を目標に出発して以来、教会員一同の祈りと努力にもかかわらず、満三ケ年を経た今、予約金千七百七十円五十銭、その内既に納められた額は八百七十五円十五銭に過ぎなかつた。この総会に於て、今後引続き満五ケ年を期し金二万五千円(既往の金高を含む)を募集してこの計画を続けることとなつた。
六月七日、当時基督者として知られた結核専門の大家、医学博士村尾圭介先生を迎え御講話を伺つた。鎌倉は病気保養者の多い地であり、当教会の会員及家族で病床にある方は少くなかつたし、教会の祈りの中に、絶えずこれ等の方々は覚えられて来た。又病床にある求道者、病床受洗の方も少からず、病床伝道は当教会の一特色をなして来た。村尾博士は、結核療養の要領を述べられ、治療の為に尽す万全の方法と、その根本に尊き精神生活の存すること、暗きを光に向ける力は一に信仰にあり、病床生活に於て受けるよりも与える生活が始まることを教えられた。
この地方に病む多くの人々が、肉体と共にその心をもいやされるようにとの祈りは、その後、自ら重き病床にあつて受けるよりも与える生活をなし、信仰により病に勝利した矢沢鶴松(現長老、白十字会専務理事)夫妻が七里ケ浜に来住されることにより、又戦後の事になるけれど当教会員木村良夫兄(元長老・現衣笠病院長)と黒沢良臣兄(現市川国府台国立精神病院長)の教会に於ける健康相談や、衣笠病院の成立等によつて次第にみたされることとなつたのは、当地方の伝道の為にも神の大なる祝福といわねばならない。
この年、眼を教会の外に向ければ、浜口首相の狙撃事件が起きて、いよいよ右翼の直接行動が表面化し、九・一八事件(満洲事変)となる。翌一九三二年(昭和七年)には上海事変、五・一五事件が起り、夏には、基督教青年会同盟の夏期学校に於て、基督教学生社会運動(SCM)のため検挙事件が起つた。国外ではドイツでナチスが第一党となり、一九三三年(昭和八年)ヒトラーが政権を掌握する。世界的にファッショ化の風潮にあつた。
時局は教界にも大いなる覚醒を与え、八月には県下の日基全教会(海岸、指路、鷺山、鶴見、横須賀、鎌倉、平塚等)が一致協力して伝道を展開する計画が協議され、九月二十四日フェリス女学校に於て、県下日基教会男女青年連合大会が開かれた。栗原久雄、赤岩栄、渡辺一高、山本忠興、毛利官治、松尾造酒蔵、河井道子、桑田秀延の諸先生指導の下に、研究、討議、祈祷、熟談し、危機の時代に処するキリスト者の在り方を探究し、覚悟を新にした。この集会は沈滞気味であつた当教会女子青年会を活溌にすることとなり、シオンクラブを中心として十五名位の者が働き出した。
尚この頃各教会は、祈祷会の相互応援をなしつつあつた。十二月十三日、教会の青年会に入らない男子及客員求道者等の家族で、家長であるものを以て組織される家長会が生れ、翌一月十五日教友会と命名された。この間にも会堂委員は二十一名を以て組織され、殆ど総動員の形で、専念実行に進み、十銭袋、克己袋等も現れることになる。
ここでこの時代の教会の悩みを「教会と日曜学校」という松尾牧師の講演に聞いてみよう。
教会の蔭に必ず日曜学校あり、日曜学校の背後には必ず教会がありその関係は恰も親子の如く密接である故、実際事実上互に仲良く相助け助けられ、幸な関係にあるべき筈でありながら、「今日私の見聞きする所ではこの教会と日曜学校との関係は残念乍ら思う様になつていない様である」とされ、ルカ伝十五章にある放蕩息子の如く、日曜学校は母教会の監督下にあることを喜ばず、家出を試みて遠国にその故郷を離れて独立自由気儘な経営をなさんとし、或は放蕩息子の兄の如く、同じ家に同居はしていても所属教会との間に意志の疎通を欠く場合もある。然し、この、教会と日曜学校との関係の気まずさについて、非は日曜学校にのみなく、寧ろ教会の方が本当はその責任の大半を負わねばならぬ。日曜学校を放蕩息子の兄弟に例えても、それを以てそのまま今日の教会がその二人の息子の慈悲深き父の如しとは決して言えず、ホゼア書にあるその子女を養育すべくして養育せず、家を留守にして常に外に遊ぼうとした放蕩の妻ゴメルにも似て、今日の教会は日曜学校の大切なことをも省みないで、外社会問題に忙殺されて、内に子女の教育訓練を怠つているようである。日曜学校も教会も、共にもつと理解し合い、又改むべき所を改むべきである。と言われている。
この年の総会に於ける松尾牧師の教勢報告は「本年(一九三二年―昭和七年―)は、昨年に勝つて更に主のわざにはげみたい。一面に教会を愛し、一面に聖書に親しみ、新讃美歌(編者注=一九三一年に讃美歌は改訂された)の練習につとめたいものであります。殊に日曜学校の充実発展には一層努力せねばならぬと思われます。」と結んでいる。
児島三郎兄(注17)がその家族と共に転入したのは新年早々であつた。
当教会には当時共立女子神学校及び明治学院神学部の生徒や卒業直後の兄姉が伝道に来ていられ、(時代は前後するが、吉武つるよ、中村さと子、李慶珠の諸姉がおぼえられる)この春より夏にかけて渥美清枝姉が実地伝道に来られた。姉は秋以後も土、日曜日には鎌倉に来られて伝道を助けられ、翌春神学校卒業と共に、神の御召によつて当教会の伝道師として残られたのは真に感謝すべきことであつた。
時に世界の状勢はますます暗くなる。昭和八年日本は国際連盟を脱退し、国内では京大の滝川事件が起る。十年には美濃部達吉博士の天皇機関説が問題になり、政府は国体明徴声明を出す。十一年には二・二六事件が起つている。キリスト教会の中でも九年には高倉徳太郎先生が亡くなられ、ドイツでは一九三五年(昭和十年)カール・バルトがボン大学を追われる様な事件が生じている。
当教会に於ても、深められた危機の自覚の下に、教会が暗き世の光として立つべく、祈りと伝道は強化された。この困難の中にも教会は内に外に充実した頃と言つてよく、一九三五年(昭和十年)には一九三一年以来五十名を割つていた聖日朝礼拝出席人数が再び五十三名となり、信徒数大人二百六十一名、小児十六名、日曜学校は分校二つを持ち、教師八名、在籍百五十名、出席平均百十名となつている。この年(一九三五年―昭和十年―)の中会への報告には、溢れるばかりの感謝に満ちて「当教会は年と共に成長発展しつつあり、殊に本年度は恩寵の豊なりしを感謝す。礼拝出席五十名を越え、震災前に等し。又受洗者は最高記録を出せり。(編者註=受洗者数男十名、女二十三名、計三十三名)」。と書き送つている。この背後には渥美先生の厚き祈りが覚えらるベきである。
四月、これまで最寄りの会であつたものが新しく組会として組織され、各地区内の連絡の強化、伝道の前進をはかることになつた。この夏、日曜学校は十日間の夏期学校の外に、毎月曜日材木座海岸で水泳練習を行う。九月十二日葉山にて晩年をすごされ、その地の伝道をも援けられた吉岡弘毅先生(元高知、大阪北、京都室町等教会牧師)が八十六才をもつて逝去された。
一月一日、小坪伝道の初穂として、最初の洗礼式を行う。この夏満洲より療養の為鎌倉に来り、小坪サナトリウムにて静養中の松橋一十治兄(注16)が夫人(現長老松橋千代姉)と令嬢二人を残して逝去された。
九月、渥美清枝姉が、当教会の補助伝道者として就任され共立女学校の聖書の教師をも兼ねながら働かれる事になつた。九月二十三日、教友会は片山哲氏をまねいて、お話しをお聞きした。なおこの秋より、渥美教師の司会する求道者会を毎火曜日の夜開く事になり、常に十名程の出席で、今後の伝道に大きな力となった。十月十五日の日曜学校振起日には、村岡花子先生(webmaster註:「赤毛のアン」の翻訳者として知られる)がおいでになつた。
二月四日湘南地方日基日曜学校教師懇談会が当教会に於て開かれる。五月、ペンテコステ特別伝道を期して、日曜学校高等科の十数名の男女生徒は、自ら立つて毎月一回高等科礼拝を持つに到つたが、その群の内から、中台晃子、伊奈保男、沢東吾さん等は日曜学校の教師補助として働かれることとなつた。七月には、先月献堂したばかりの秋谷海岸の「レーシー記念会館」(YWCAの憩の家)に於て日曜学校の教師会が開かれた。この夏、日曜学校本校の夏期学校(一週間、生徒四十五名出席)の他に、八月十三日より小坪分校が海浜で一週間の夏期学校を開いた。毎日五、六十名の子供と十数名の大人の人々と、砂浜の上で、乱暴なひやかしが背後に起つたり、時折り石や木片の飛んで来る事もある内で続けられた。この頃、小坪分校のなやみは、集会する場所のないことであつたが、明治学院教授斎藤勝次郎先生の別荘が開放されたので無事集会は続けられて行った。九月二十日には、「鎌倉教報」の復刊二十号が出された。九月二十四日、県下日基連合青年会が当教会で開かれ、日本神学校々長、村田四郎氏の講演があつた。十月、湘南各派連合親睦会が小田原同胞教会(現日本基督教団小田原十字町教会)にて開かれた。
「祈祷会に出席して」という一文を十二月二十日の「鎌倉教報」より引用してみよう。
「十二月の初めの祈祷会の時、当教会員車乗錫氏が無事朝鮮より帰鎌されたので、歓迎の意味の祈会でした。その節同氏の感話の中に(中略)釜山の教会では毎朝六時には教会で早天祈祷会があり、毎日三百人以上の集会があり、特に長老達は一年中一人も欠席する事なく、祈祷の座に列するとの話がありました。彼是思い合せて我等の教会の祈祷会にも、そうした盛んな集会が出来ないことはあるまい、毎週さびしすぎる集会を恵みに満てる活気ある祈祷会とすることは、私共教会員の責任であると神の前に懺悔する次第です。来年から祈祷会には、必ず出席して兄弟姉妹共に力を合せて祈ることを神の前に約束したい、幸に同感の方あらば感謝の至りです。」
尚この頃祈祷会は二十名前後である。日曜学校高等科男生を中心とした人々十名は、堀内清光兄を委員長とし、松尾牧師、野畑長老を顧問として、レバノン青年会を組織した。
この春より三ケ月、共立女子神学校の黒木あい子姉(現東京女子学院教授)が伝道の実習に来られた。姉による「親睦会」の報告に聞いてみよう。
「臨時総会後会員及び日曜学校生徒一同バスで材木座の飯島ケ崎に向う。新緑の森の中で眼下にはるか稲村ケ崎江の島の姿を眺めつつ讃美感謝の祈りを以て食事の筵を開く、自参のお弁当の自慢話、珍しい中学生さんのお茶の接待、毛虫のお客に上げる悲鳴昼食が終ると三々五々山に海に語る人、黙する人、祈る人又にぎやかに走り廻る人等様々なり。珍客結城老人の考え物に耳をそばだて磐井、大塚さんの取集めし野の花に感歎し時の移るのも忘れて過せり。最後に材木座の海岸で宝探しをして、各々さがしあてた宝を胸にだき、賑やかに又楽しく散会せり。出席は大人三十二名、子供十九名なりき。」
この日(五月十二日)建築の為の臨時総会に於て「来る昭和十三年五月は創立二十週年に当るのでこの日までに土地約二百坪購入すること」が決められた。
この年のペンテコステは年初より祈りつつ待ち望まれていたが、六月二日準備の礼拝を持ち、その後一週間連続の準備祈祷会を開く。二千枚のビラの一枚も失われることのないよう会員の手によつて家毎に配られ、ポスターも又町々辻々に張られた。そして充分の祈りと全き準備との中に六月九日は迎えられた。礼拝後婦人講演会、夕の一般講演会が益富政助氏によつてなされ、求道の決心者が新しく加えられた。集る者七十名。尚益富氏は翌日鎌倉駅に於て駅員の為の伝道、徳永教授(逆境の恩寵の著者の令息)の教えられている師範学校に於ける伝道もなされた。六月三十日、教友会は鈴木文治氏より欧州視察談をうかがう。日曜学校は教師及高等科生の祈りのうちに八月五日より十日間夏期学校を迎えた。平均出席三十名。夏期学校を終えても大いなる感謝と決意の中に高等科生徒達は鎌倉の山や海岸或は召されし友の墓前などで夕陽祈祷会を持ち続けた。当時の日曜学校が祈りに満されている有様は次の一文からも知られる。
「十一月の中旬頃から日曜学校の先生達は何度か集つては相談し、日曜日の朝は待っていましたとばかりに、「もろびとこぞりて むかえまつれ」の歌声が高く響くようになりました。小さい人達の赤い頬は一段と緊張を加えて参りました。ぐんぐんと上達する歌の練習、一生懸命に趣味をこらす衣装係、日は近し!誰人もの胸が言いしれない思いに躍るのでした。(中略)全力を尽してなさなければならないことは先ず心の準備です。大人の心に子供の心に馬槽のイエスを見出し卑しい人間の血と肉が尊きものを以てよそおわれる経験であります。こんな準備があつてこそ、私達は天使の羽一枚を作るにも、火の気のない部屋に贈り物を包む時でさえ、涙してクリスマスの意義を知ることが出来ると思います。十二月十八日の祈祷会は、何度か重ねられた準備祈祷会の最後の夜でした。会する者十名余りといえども、今こそ一人々々ただ切に祈り続けました。幼子、老人、病む方々、地方にはなれている人々、受洗の日を待ち続ける兄弟達の為にすべての霊の中に聖誕を迎へる感謝と恩寵がみたされる様にと。(後略)」(鎌倉教報三十二号より)
一月、海外勉学中の処昨夏帰期して富士見町教会にて伝道師として働かれていた松尾武氏(当教会牧師令弟)はすでに数年の歴史を持つ当教会出張伝道地の大岡伝道所主任伝道師として就任され、三月八日、大岡伝道所開始感謝会が開かれた。この月渥美教師は当教会を辞任、松尾武師と結婚され、大岡に移られた。渥美先生を当教会に送られた神の御恵みに対し教会員一同の感謝は大であつた。その後、夫君が神戸神学校の教授となられるに及び、昭和十四年その地から教会に送られた歌
「われかつて燃ゆる祈りに充されつ歩みし山河今もしのばる」「赤き屋根みどりの中に点々と病める人々われをまちにし」
三月、総会の意志により教会に奉仕団が組織された。四月になると男子青年会有志が集まり、男子青年会振興につき協議し、若きもの同志の信仰の練磨を第一とし、神の力を仰ぎつつ教会の大なる力たらんとの決意を新にした。五月臨時総会に於て、「土地購入は百五十坪、価格約六千円とし、現在献金二千八百六十四円三十二銭に対する不足は、予約の促進によつてそれを充実せしめることを希望す」と決議された。
尚この春より材木座の森寛子(森有礼氏未亡人)(webmaster註:五百円札の岩倉具視の五女、中渋谷教会を興した森明牧師の母、森有正の祖母)姉宅で、家庭集会が開かれ、十一月より日曜学校材木座分校も松田タカ子、光永貞夫の諸兄姉之を扶けて、同姉宅で行われるようになつた。爾来三ケ年昭和十三年十月東京に移られるまで、子供達の伝道に又多くの求道の姉妹方の為に、姉は厚き祈りをもつてつかえられた。
「森刀自には神が人の心をねたむ程に慕い給うその如く人の心を追求め、信仰を与えずんば止まない熱心があつた。手紙を書く雑誌を送る、訪問する、祈る、人に頼む、何としても信仰を呼びさまさずにはおかぬという様な態度である。特に求道の人に対して然うである。少年達に対しても然うである。材木座山の根の子供達にして、森後室の祈りに覚えられていない者は極めて少数であります。(中略)と同時に非常に自分の信仰、生活を反省し、その内容の充実を心掛けること一方ならぬものがあつた。何よりも主イエスと御自分との関係、葡萄の木とその枝との関係それが本当にシツクリ安心しきることが出来るような、一寸の間隙もない、偕にいる心境にならねばならぬとてそれを気にして居られました。(後略)」。(「故森寛子後室を偲ぶ」「かまくら」八十二号より)
第四回夏期学校は、八月五日より一週間、好天の下に開かれ、毎朝の礼拝は全部松尾牧師にしていただき、毎年第二時間目を学習としていたのを、今年より聖書学課と修養に専心努力をはらうこととなり、パウロ、オウガスチン、サンダーシング、リビングストン等、主として偉人聖人の伝記を中心に学んだ。出席者は平均二十四名であつた。
この夏から、毎月第一聖日の夜の伝道集会は青年会が主催し青年達が交互に証詞をなし、集会の計画にあづかる事になった。十月二十五日、メソヂスト教会との合同で、御成小学校講堂に於て賀川豊彦氏の「欧米に於ける精神運動」と題する講演会が開かれ、集るもの九百名、生涯忘る可からざる深き感激を与えられた。この集会の為には、山口校長、清川町長の尽力も大であつた。当時湘南地方(東は鎌倉、西は小田原を限界とする)には二十数個の教会があり、信徒数は総計千名を超えていたが、十一月二十三日第四十五回湘南地方キリスト信徒祈祷懇親会が当教会で開かれた。尚この年春より婦人会の後援によりお手伝いの方達を主にした求道者会が月二回開かれている。
昭和九年に自給自活となつて当教会の手を離れた葉山講義所は、十二月十三日、葉山伝道教会となつた。
この年我が国は中国との全面戦争に入つた。翌十三年三月には国家総動員法が成立し、ファツシズムの抬頭と擬似宗教化した天皇制の下にキリスト教は非常な苦況に立たされて来る。昭和の初期まで日本の社会に対してかなり批判的な力を持つていたキリスト教会も中日戦勃発に会うと、「今次事変に際し我等は政府声明の趣旨を体し、協力一致奉公の誠を致さんことを期す」との「非常時局に関する宣言」を発表し(昭和十二年七月)九月には「支那事変に関する声明」の中で「我等はこの際祈りを一つにし進んで国民精神総動員の挙に参加し、我等の精神作興運動を強化して聊か報国尽忠の誠を致さんことを期す」ということになる。今後教会は消極的には時局の進展に伴つてこれと協力し忠誠を誓うという態度を打ち出し、積極的には外国に日本理解の運動を起し、占領地の伝道を行い、慰問袋を作ることになる。この年十月の日本基督教会五十一回大会では、非常時特別伝道を行うことが決議され、国民道義の確立と、非常時躍進が期せられる。十四年三月には、昭和の初頭来再三問題になつた宗教団体法が遂に成立し、十五年四月一日よりこの法案は施行された。かくて、戦時体制下の一環としての宗教統制は強化された。(以上は「近代日本とキリスト教―キリスト教学徒兄弟団発行―」を参照)
二月十一日、横浜市山手共立女子神学校にて日本基督教会中会第五十回記念として、県下連合の修養会あり、当教会よりも二十名の出席があつた。三月二十五日機関誌「かまくら」第一号が出る。五月二日、在日中のヘレン・ケラー女史の歓迎講演会が御成小学校で開催された。大雨の内にも千人以上の聴集に大講堂は満員となり、「愛と教育の勝利」と題する講演にきき入つた。八月には、指路教会に於て、北支事変の為に大祈祷会が開かれた。
この頃になると、当教会も、鎌倉在住の出征軍人遺族の慰問を考える様になり、その為の特別献金二十余円を以て第一回の慰問が行なわれた。又「遺家族におくる手紙」、「時局に際し教会員の心得」等が出された。十月には教会に顧問委員会が組織されている。八月二十九日、共に病床にあつた小林藤右衛門氏(注18)とその従妹小林房子さんが病床受洗、三日後に房子さんは逝去、行年十七才。九月十二日、川村宏矣氏はその令息輝典さんと共に受洗、二十一日留学の為米国経由渡欧された。女子青年会も横須賀海軍病院の見舞、教会に縁故ある出征兵士に慰問袋を送るなど時局と共に新しき勢を以て活動しつつある。
十一月、湘南地方日基日曜学校教師修養会が、熊野清子、村上治両先生を講師として開かれ、熊野清子先生は、日曜学校は教会に求道心の盛んな青少年を送り出す事が眼目であることを強調され、その為には教師自らが、先づよき基督者であり、愛と祈りとをもつて児童に接するべきで、教師の信仰と性格が純な子供等にどんな影響を与えることか、などお話し下さつた。
この年奥野昌綱先生の令孫で、歌人の川村勝子姉(注19)が転入した。「かまくら」より、姉の歌「浪の音に星の光の洗はれてよろこびの夜は近づきにけり」「病む身にも聖き杯分かたんと師の君は此処に訪づれましぬ」。
一月六日、野川群鳳氏逝去、一月十六日には大岡伝道教会建設式があり、青木寿代姉を始め十七名が当教会より大岡伝道教会へ転出した。二月二十七日、非常時特別伝道集会が賀川豊彦先生によつてなされ、決心カードに記入された方は三十余名であつた。五月二十二日、臨時総会に於て、土地購入会堂建築はさらに五カ年延期して、鎌倉教会建設二十五年を記念して実行すべく可決された。この時の会堂献金総額は四千三十七円十一銭であつた。夏期学校は五日間づつ二回行なわれた。九月、建長寺塔頭正統院境内に二百坪の当教会の墓地が設定された。日曜学校は九月になると、当教会の遺家族慰問委員会の後援で、慰問袋百個を計画して送ることになる。森寛子姉の転居と共に、この春静岡日本基督教会より転入した小泉松代姉(元長老。九州熊本バンドの一人岡田松生氏令女)宅に材木座の集会は移り、日曜学校材木座分校は本校と合併する事になる。この頃になると夕の伝道集会が灯火管制の為に中止されることもあり、当教会員の内からも、多くの兄弟達が戦地に送られて行つた。「かまくら」には毎号「戦線より」のたよりがのせられる様になる。
教界内に各派合同の動きが現れ始め、翌年八月には各派合同の懇談会、協議会が度々行なわれ、十五年十月十七日、青山学院で開かれた、皇紀二千六百年奉祝全国基督教大会に於て、三十数派は夫々全権委員を出して合同準備委員会を組織。十六年四月、大綱が決定、六月二十四、二十五日、富士見町教会で創立総会を開き、日本基督教団の成立となる。
十四年七月には、政府当局との交渉団体として、神奈川県下基督教々会聯合が組織された。八月、数年間補助伝道に働かれた永松小哲姉は今春共立女子神学校を卒業され、池袋日本基督教会に赴任される事となつた。この夏、日曜学校は夏期学校を開かず、専ら秋への準備に力をたくわえ、九月十七日振起日には、東京より森綾子先生(現関屋令夫人)をお迎えした。
日曜学校の師範科は毎月一回第一日曜日早朝師範科礼拝を行なって来た。また青年会は男、女各別に毎月集会を持つて来た。然し集会の内容その他の点で十分とはいわれなかつたところ、今度打つて一丸とする青少年礼拝を開催、松尾牧師の指導の下に青少年男女は一つの歩みをとる事になり、その第一回は九月二十四日聖日礼拝後行なわれ松尾牧師の「小さき群」への奨励があり集う者十四名の少数ではあつたが祈りの中に第一歩を踏み出した。今後毎月第四日曜礼拝後に開催、信仰と生活の問題を中心に指導していただくことになつた。」(「かまくら」三十三号より)
とある。この年日曜学校、小坪分校は中止された。十二月三日、メソヂスト教会にて当市戦歿勇士追悼記念会を教会連合にて開催した。十二月十日、鈴木文治氏(注20)が当教会に入会。
「感謝の一年」と題して次の如き文が見られる。
「昭和十四年は我が教会に取つて実に感謝の一年であつた。教勢から見て著るしい進歩は目立たなくとも、内面の充実と信仰の向上は慥かに認められる。第一恩寵に感ずるのは病床受洗なされた数人の方々が起ち上られたことだ、誠に感謝に堪えない。不幸哀しいお別れを致した方も有りましたが、高木姉妹の如き、野畑母堂の如き輝しい信仰を以て召されたことを想う時是亦感謝である。受洗の数に於ては例年と大差ないが、日曜学校より養われ来つた青年男女の信仰告白のあつたことを喜ばしく思う。又有力な信者の転入もあつて心強く感ずる。(中略)会堂建築の即成は予て熱望しながらも資金の欠乏に悩んでいた所、小林藤右衛門氏より卒先して金壱千円献金の予約申込があり続いて金須姉及吉岡千代姉より各参百円の即納献金があつて益々事業の前途に光明と確信を与えられましたことを有難く存ずる次等であります。(後略)」(「かまくら」三十六号より)
前文の内に、「日曜学校より養はれ来つた青年男女の信仰告白のあつた事を喜ばしく思う」とある。
教会設立の初期は別として、第十年より終戦前後の教会設立第三十年に至る約二十年間に於ける日曜学校の教勢は教会自体のそれと同様に、特に顕著な進展を見たわけではないが当時の日曜学校生徒であつて当時植付けられた信仰の芽生えが次第に成長して今日雪の下教会の中堅であり、更に将来の我が教会を担う兄姉、或いは外に出て良き奉仕をして居られる兄姉の多くあることは感謝に堪えないことである。それらの兄姉の内には、松尾繁(松尾牧師令息、現姓吉岡、日本基督改革派仙台教会牧師)、田口陽太郎(現長老)、小泉元生、小泉洋子、田口寧、田口陽子、川村輝典(教団世田ケ谷弦巻伝道所主任伝道師)、沢東吾(教団横浜大岡教会主任伝道師)その他がある。
その間、日曜学校の教師として忘れ得ざる人々は、稲沢文子(故人)、吉武つる代、山崎(現村中)松代、渥美清枝(現松尾武牧師夫人)、牧野敏成、猪股貞夫(現姓光永)、堀内清光、南保子(現竹山道雄夫人)、松田たか(現姓橋本)、野畑啓二郎(現長老)、その他の兄姉である。
クリスマスの前夜
「十二月二十四日のクリスマス礼拝は、平伏して拝する東方の博士たちにつき教えられ、夜は祈祷会の後、病床にクリスマスを迎えて居られる数名の友を訪ねることになつた。松尾先生、伊奈松田の二姉、大石、吉田、沢の三兄であつた。月光に讃美歌を暗誦しつつ「ほいくえん道」の高橋孚家を訪ねた。
静かに、垣根越に………のひびき、そして上手ではないが心をこめて歌う「きよしこのよる」「もろびとこぞりて」、「メリークリスマス」と松尾先生の挨拶。ここには年若き姉妹が病んで居られる、けれども一家こぞつて信仰の家庭である。お母様が「有難うございました」と門まで出て来ておつしやる。喜んでいただけてこちらも嬉しい。それから塔の辻の森田とし子姉の所へ、病室に近いと思われる裏に廻って前の如く歌つた。森田姉も喜んで下さつた。ここから材木座水道路の斎藤一郎兄の所に向う。歩き乍ら色々のことを語り会つた。もう門には鍵がかかっていた。病室までは少し遠いが外から歌つた。聞えたのであろう玄関に電燈はともされ心せく人影が見える。門を開いて迎えられた。もう一度窓辺近く歌つた。「おだいじに」「有難うございました」挨拶をかわして門を出た。斎藤兄の枕許には聖書と讃美歌がおいてあつた。歩をのばして逗子に向う。途中思い掛けない事があつた。斎藤家を出て間もなく私等よりずつと美しい歌声がする。
“Holy night silent night" 思わず耳をかたむけた。思い思いの感慨が発せられた。「私等も歌つてみようか」。通り越した足をかえして垣根際に立つた。レコードの終るのをまつて「きよしこの夜星は光り」と歌つた。見知らぬ家である。思い掛けなかつたであろう、門をあけて出て来られた。「有報うございました、どちらのお方でいらつしやいましようか」「私等は鎌倉教会の者です御成小学校前の」「私は鶴見教会の者でございます」「レコードが聞えましたので私等も歌つたのでした。ではごめんなさい、さようなら」「有難うございました」どちらも思い掛けないことであつた。
「信者はクリスマスの夜を黙つては過せないのだねえ」と松尾先生は感慨深げにおつしやつた。皆こもごも語つた。そしてトンネルを二つぬけて久木の伊奈姉宅についた立川市の井上さんがここに静養して居られる、裏から入つて歌つた。「有難うございました、遠い所を」と奥から聞える。庭に向つてもう一度歌つた。数名の患者さんのために。そしてここに居られる大野姉妹のおもてなしでおいしい紅茶をいただき解散した。でも皆んな駅まで一緒だつた。一同受くる喜びと与ふる喜びを同時に感じた。(後略)」
ずつと以前から今日まで続いている、当教会の美しい伝統である。
松尾牧師は共立女子神学校長を兼ねられる事となり、春から梅崎正二郎教師が補助伝道者として牧師を援けられた。五月、牧師は東京中会議長に就任。この頃牧師は横浜より、雪ノ下四百二十四番地(現在の牧師宅)に転居された。松尾牧師の横浜よりの転居は、信徒の多年尭望したところであり、之により当教会の発展に見るべきものがあるにいたつた。梅崎教師は十一月辞任され、下野教会の牧師として赴任され、その後、川村勝子姉が教会の事務を補助された。
十二月、組会の編成が変り、七つの組会が結成され、幹事は週番の指名、組会の世話、組内の家庭訪問等をなすことになり、補助伝道者なく、多用な牧師の牧会を援ける体制が出来て来ている。児島三郎長老が総幹事となられた。定期総会(一月二十八日)に於ては、会堂移築敷地買収費として一万一千円。募集方法は会員一名一坪献納主義(編者註=当時坪四十五円)とする、個人の状況により其負担額を協定する。募集期間は本年五月末日とし事情ある場合は一ケ年の月賦分納とする等が決められた。六月、当教会を援けられ、晩年逗子披露山に住われ教会とも縁故深い井深梶之助先生が逝去された。八月、当教会で礼拝を守り、戦後まで葉山地方の信仰生活に大きな力となつていた大森百合子姉の令息、大森義太郎氏(元東大教授)の死は、この時代の暗さを一層痛感せしめた。十月、清水侯忠氏夫妻は住み馴れた鎌倉より東京に移住された。十一月十日、皇紀二千六百年奉祝礼拝。以下に花の日の模様を「かまくら」四十一号より聞いてみよう。こうした花の日の礼拝と病者の慰問を毎年続けていることは、私共のよろこびである。
六月第二の日曜は花の日、子供の日として、世界的一行事となつている。その由来等については又の機として鎌倉教会での花の日のことを御報告いたしましよう。六月十六日(一週間繰下げて)花の日の礼拝を日曜学校の生徒と一緒に守りました。講壇に飾られた花はそれぞれ心をこめて捧げられたものであり中にはSSの生徒で今年のイースターに教会でいただいた花の種から育てたものを捧げてくれたものもあつた。礼拝は奏楽に始まり、日曜学校の生徒だけの讃美歌もあり、松尾牧師の「イエスの手」と言う幼稚科の生徒も耳傾けて聴いた説教に、やさしいイエスの手、力強いイエスの手、十字架の釘跡を示し給ふイエスの手に対する「わが主よ、我神よ」との告白。我等の愛の業について教えられた。SSの生徒にとつて一年に一度の礼拝の印象は、信仰の芽ばえにきつとよきものであつたと思ふ。そしてこの日の午後は病床の友を訪ねた。共立神学校の加藤先生は生徒一人と稲村ケ崎の川村姉、七里ケ浜病院鵠沼までも数名の兄姉を訪ねて下さつた。又 神学生曽、斉木姉は養生院と額田病院、材木座の斎藤一郎兄と鶴見教会の中島氏を、川村幸子姉は生徒数名と材木座のSSの級友小坪、サナトリウム、逗子方面を、梅崎先生は生徒と極楽寺、長谷方面、鎌倉病院を。磐井姉、松田タカ子姉は生徒と扇谷方面を高橋姉は生徒数名と雪ノ下、小町、二階堂方面を、沢兄は同じく大町由比ケ浜方面を訪ね、各所に感謝せられて帰りました。子供は最初、自ら花を持つことに嬉しさを感じ、最初の家にはどの子も花を手離すことを躊躇する。けれども二軒目からは、訪家に喜ばれる嬉しさに自分の持つ花束を早く差上げたがる。そして最後に大きく溜息をついて、もう訪ねる家のないことと、訪ねきった嬉しさに顔をほころばせて私たちを見上げる。神は必ずこの幼き者たちの心を祝し給ふでしよう。」
十二月、我が国は太平洋戦争に突入した。新年祈会以来、「全会員挙つての伝道」が目標とされている。四月、合同の為の大会が開かれ、六月、日本基督教団が成立した。九月には、東海教区神奈川支教区が創立され、当教会は「日本基督教団鎌倉雪ノ下教会」と呼ぶ様になつた。
この年三月十六日の臨時総会に於て、教会員小林藤右衛門氏の紹介になる、その親族松田登三郎氏の別邸雪ノ下三百四十五番地(現在教会所在地)の敷地百七十五坪と地上建物三棟五十六坪を二万七千円をもつて購入する件が決定され、四月十二日、登記を完了した。実に昭和の初期より十三年間祈りに祈られ、難行に難行を続けて一時は絶望の状態に置かれていた計画がここに成就したわけである。之が成就には、皇紀二千六百年記念事業として前年の総会に現われる必要もあつた。顧みれば永い間の全教会員の熱き祈り、建築委員方の一方ならぬ労苦、多くの犠牲を払つて重荷を負われた会員一人一人の決意、終始会員を導いて調和団結の精神を保ち万一の過ち無からしめた松尾牧師の優れたる牧会の徳、一として感謝でないものはなかつた。新会堂の模様を児島三郎長老から聞いてみよう。
三月九日、教会敷地の候補地と確定した雪の下二の鳥居の現場下見に行く、教会から代表として松尾先生、大塚、寺島(哲)、松橋、小泉(松枝)の各長老、小林執事と私とが同道する。紹介者の小林兄は地主松田氏と先着して居られた。新会堂に擬せられた洋館を先づ拝見した。其の構造の予想外の荘麗に驚く。斯る結構なる建物は成る丈け原状を破壊せずして利用の方法を講ずべきであるとの意見もあつて、増築の考案を廻らした結果現在の建物に対し矩形に約十二坪の坐席と玄関とを附することに意見一致をみたのである。日本間の数奇をこらした八畳一室は其儘残して婦人会などの用途に供することとなつた。三本の柱が坐席の中央に立てるは聊か目障りと言えぱそうとも思われるけれど、切角耐震耐火の建築を害うに忍びず保存する事にしたい。之れぞ三位一体の柱とや謂わん。会堂として日本趣味豊かな点は今に鎌倉名物の一となるであろう。」(「かまくら」五十号より)
第三会堂内部(写真説明)
八月十八日より三日間、葉山の吉岡姉宅に於て当教会最初の青年会夏期修養会が開催された。
海軍将校丸安金兎、伊藤関次郎(牧師夫人の厳父)の両氏はこの年逝去された。
一月四日 新会堂に於て第一回の礼拝。一月十八日、新規則による第一回の総会。建築委員会は解消され、負債償却の為建築特別会計委員がもうけられた。二月十一日午後二時より献堂式、東京より鈴木浩二、佐波亙、柏井光蔵、松山昌三郎の諸先生方、鈴木富士弥市長等約百名来会し、式後食事を共にす。献堂記念特別伝道が佐波亙牧師(二月二十二日)、賀川豊彦先生(三月一日)によつて続いて行なわれた。
然し一方戦局は次第に深刻の度を増し、十七年六月のミツドウエー海戦、翌年二月のガダルカナル撤退以来敗色はようやく濃くなつて来た。日本基督教団は「決戦態勢下、基督教実践要綱」を発表し、戦時報国会(十八年)が結成される。この頃、基督教会に対する国家の弾圧はますます強化され、牧師数十名が投獄される事件も起きた。夏、鎌倉市内の教会は連合して賀川豊彦氏を招き伝道集会を開く計画中のところ国体観が異るという当市某団体の故障申出により、中止せざるを得なくなつた。又刊行物はその都度文部省宗教局へ送本する様にとの通達を受ける。この頃教会の礼拝には私服の刑事が常に出席し、松尾牧師も、国民儀礼を欠いている、戦時報国会に忠実でない等の理由で警察当局に呼出される事が度々あり、ある時は、材木座に一人淋しくしている一老英婦人を見舞つたと云うかどで注意を受ける様な事もあつた。併し日米交換船で帰国した田口修治氏(元長老)の帰国講演会(八月三十日)は当局を驚かせたが、爽風の感があつた。
婦人会は女子青年会と共催で夏期修養会を片瀬の乃木女学院(現湘南白百合)に於て開き、小塩力牧師を講師とし、聖書講義をきく。集る者二十余名であつた。十月五日に川村勝子姉(三十八才)、十二月十八日には小林藤右衛門兄(三十四才)が逝去された。
一月十七日、小林藤右衛門兄記念会あり、その席上にて遺族より五千円の献金があつた。
二月、長老会に於て警戒警報、空襲警報時の礼拝、祈祷会の処置に就いて決定されるにいたつた。
五月九日の臨時総会に於て、左の議案を附議し、満場一致を以て之を可決した。
一、昭和十八年度歳入歳出追加予算案、歳入の部、金六百円、(月次献金)歳出の部、金六百円、(謝金)。理由、「我が雪ノ下教会は設立後二十五年を経過し既に成年期に達したが未だ専任牧師を置くに至らず松尾先生が教会主管者兼神学校々長(編者註=この年三月、松尾牧師は日本にある女子神学校の合同と共に、横浜共立女子神学校長を辞任されたが、なお合同神学校に春以来出講されていた)として牧会に尽されている。その理由は教会が先生に対する謝金は僅かに月額壱百円にて他の独立教会が其の牧師に対し弐百五拾円を支払うに比し甚しき少額なれば兼任も亦己むなき事情であつた。然るに時局愈々重大となり国民精神運動が益々緊迫を覚ゆる時教会主管者たるもの他の職業を兼務の傍ら牧会に任ずるは布教上大なる欠陥を生じ所謂職域奉公の主旨に悖り信徒修養の為にも至らざる所多きを痛感するのであります。仍て長老会に於て数次協議を重ねたる結果全会一致を得て松尾先生に対し神学校と此際絶縁して牧会に専念して下さる様懇望し謝金は未だ不十分ながら之を百五拾円に増額し戦時手当弐拾円と合せて百七拾円を差上げ得る次第を述べたる所、先生は長老会一致の希望とあらば其の要求に承諾を与うるに決して吝かなるものでない、只従来の関係上神学校側より毎週一、二日出講を要求せられあつて受持科目も決定せる故全然絶縁することは自分には差支ないが神学校では困るだろう、との御意向でありましたので折衝の上一週一日丈け向後一箇年間を限り先生の神学校出講を是認して先生の承諾を得たのであります。就いては信徒各自は月次献金二割の御増額を此の際御同意下さるようお願いする次第であります、何卒御審議の上原案に御賛成を希望致します。」
我が国に於て、教会財政の貧弱なることは一般的であり、基督信徒たるものの深く省慮すべき点であるが、当教会に於てもその例に洩れず、今日尚、教会財政は常に豊でなく、又全国教会の統計上より見ても、その会員数及礼拝出席者数等の教勢に比して献金状熊が低調であるとは、会計長老のみならず、当教会員全員の認めなければならない事実であろう。
六月二十五日。留学中ライプチヒ、ペテロ教会にて受洗、帰国後鎌倉にて療養中の「病床受洗」の著者、哲学徒中村明氏が当教会に転入、八月二十二日、死去、遺言により九月五日当教会にて葬儀、行年三十六才。八月十八日、婦人会主催の練成会が、葉山の吉岡姉宅にて、松尾武牧師、森有正氏等を講師として開かれ、三十幾名の出席者があつた。
三月二十五日機関紙「かまくら」は八十五号を以て廃刊。「かまくら」八十五号にのせられた「信徒其他に急告」。
「今般戦時態勢強化に関する非常立法十五ケ条に依り全国キリスト教雑誌は全部廃刊となり教団本部発行のもの一つだけ残すという事で、「かまくら」誌も神奈川県の指令で三月号限り廃刊することに致します。但し報告の如きものは別の名で発行してもよいが意思発表は禁止するということでした。(松尾)
「雪の下に姿はけせど“かまくら”の播かれし種はいつかみのらむ。(児島)三郎」。当教会よりも山田豊吉、伊奈保男、永野泰治、石渡稔等の諸兄出征中であつたが、今また吉岡(繁)佐藤、桑久保の兄弟達が学徒出陣した。聖日朝礼拝出席者は三十名位である。戦時中最後のクリスマス、野辺地天馬先生を迎えて日曜学校と合同の礼拝がささげられ、その後食事を共にして、クリスマス親睦会が開かれた。その時に出来た句「今日だけはサイレンなるなクリスマス」(伊奈正兄)「めでたさや敵も味方もクリスマス」(野畑啓二郎長老)。
六月二十一日、午後二時、鎌倉市役所会議室に於て、他の多数と共に当教会にも強制疎開の命令が下る。六月二十四日臨時総会が開かれ、礼拝は小町四十一番地教団鎌倉小町教会(現聖公会鎌倉ミカエル教会)と連合礼拝とする事が決められ、七月一日、第三会堂に於ける最後の礼拝をささげ、聖餐式にあづかる、会衆二十六名。
七月二十日、建てられて日未だ浅い会堂は、信徒の見ている前で取壊されてしまつた。
七月八日、小町教会に於て第一回の連合礼拝。爾後、ここで礼拝している間中隔聖日に、松尾牧師は礼拝説教をされることになる。日曜学校にとつてもこの時は苦難にみちた時期であつた。
八月十五日、正午、大平洋戦争終結のラジオ放送をきく。
戦争に明け暮れした実に永い年月を終えて、日本の全般にわたつて大きな革命が行われた。敗戦によつて心のより所を失つた同胞は、虚無的な生活におち、物的にも極度に困窮する困難な時代となつた。然しその間にあつても、国家の教会に対する圧迫は全く取除かれ、困難の中にも教会の宣教にとつて明るい時代がやつて来た。教会は活気に満ち、益々世の灯台としての使命を果すことになつた。戦線に出ていた兄弟達も逐次帰郷し、教勢は月毎に発展して行つたが、永野泰治兄(注21)の如く、再び教会に還ることなく、戦場より天に召された兄弟のあつたことも忘れてはならない。戦争末期以来当地方に疎開して来た人人の中には、今後の教会に大きな力となる信徒のあつたことも記すベきであろう。秋、敗戦時までほんの数人の生徒と共に礼拝を守つて来た日曜学校が、客員久保田あや子姉(昭和二十五年美竹教会より転入)及吉岡繁、沢東吾、バルト・ルビー(現、コーバー・ルビー宣教師)等の青年諸兄姉によつて再建され、生徒も日増しに加わつて来た。
戦争末期、長年の祈りと努力とによつて与えられた第三会堂を失つてより、会堂の建築は当分不可能と考えられた。然し前途に神の導きを祈り求めつつあつたこの時、終戦と共に横須賀及び厚木等に進駐して来た進駐軍附従軍牧師ストレート、ストーン、エンロー、ロージャース師等の言語に絶した配慮と援助により、教会堂再建の為に、旧海軍鎮守府所属の建物数棟が当教会に放出されることになつた。
三月三十一日、定期総会(出席者二十一名)を経て五月五日、臨時総会を開き、満場一致(五十四名)を以て会堂建築を決議し、建築委員会が組識された。新会堂の総工費二十二万(その後三十万に増額)のうち、純粋の建築費約十八万は進駐軍所属教会員からの献金、及び旧会堂疎開取壊しの手当等により調達され、説教壇、椅子其の他の内部装置に必要とする約五万円が会員の献金によつて捧げられることとなつた。当時は予金封鎖の下にあつたが、封鎖支払の道も開かれ、又日曜学校生徒百五名の献金八千七百八円五十銭もその中に加えられた。大塚尚、寺島哲、本多義郎の諸兄の奉仕に負う処が多かつた。十月二十日定礎式が行われ、新会堂講壇の真下に聖書と会員名簿を入れた壷が深く埋められた。新会堂は岡見武彦氏(大森百合子姉の女婿)の設計になる八十九坪平屋建で、英国の田舎の教会堂の型が取入れられた。そしてまだ天井もなく壁もととのわない現在の会堂で最初の礼拝が守られたのは、この年の暮、主の降誕節であつた。この年日曜学校は戦後第一回の夏期学校を佐介のバルト姉宅で開き、生徒八十名の盛な集りであつた。秋より、小泉元生兄、バルト・ミヤ姉等も教師として奉仕されることとなつた。
希望と確信に満ちた新年礼拝の後、初週祈祷会は十教名の熱心な祈りによつて続けられた。出席者の大半は青年であつたがこの祈祷会の中に青年会再建の胎動があつた。沢東吾、佐治考典(その後神戸灘教会へ転出)大場信吉、小山幸子、藤原亮等の諸兄姉が中心となつて、二月、青年会は再建された。今度の青年会は未婚男女青年の集りであり、会長には松尾牧師がなられ、委員が青年の中から選ばれた。同じ春、青年会に属さない家庭を持つた会員及求道者の集りである友愛会が川村、成田等の諸兄の尽力によつて誕生し、今後毎月、会員の家庭或いは教会堂に於て、聖書を学び、交りを深め、求道者には教会に近づく機会となり、教会によき奉仕をする様になる。
五月二十五日、ペンテコステ、第四会堂(現会堂)の献堂式が行なわれた。この日の前後一週間、新会堂で始めて夕の集会として連続祈祷会がなされ、又会堂は青年達の献身的な奉仕によつて清掃されてこの日が迎えられた。教団代表小崎道雄牧師、横須賀進駐米海軍代表リツカー少佐、鎌倉市長等の来賓も出席され、出席者は堂に溢れた。ついで六月には献堂記念特別伝道が柏井光蔵、浅野順一、栗原久雄、桑田秀延の諸先生によつて行なわれ、日曜学校の生徒の為には、高崎毅師、岩田光弘氏等が伝道された。
夏になると戦後第一回の青年会修養会が開かれる。男子は八月一日より三日間、秋谷の青地さん宅で、松尾牧師の御指導の下、吉岡千代姉に生活の御世話をいただいて、六名の者が集つた(沢東吾、吉岡繋、小泉元生、藤掛豊盛、江口定邦、棟居正)なお、この会には日曜学校よりの二名(内藤篤、田口寧)も参加した。女子は八月十九日同じ場所で修養会を持つた。一方日曜学校に眼を転ずれば、木村知己、内藤協、田口陽太郎、岸本桃子、藤掛豊盛の諸兄姉がこの年教師陣に加つた。
夏期学校は八月十一日より五日間、教会に於て開かれ、生徒平均出席百十三名、大森松代長老(現山本松代姉)の御指導の下に中学科のコースを持ち、秋からは毎月一回中学科礼拝を行う様になる。この年、日曜学校の平均出席は二百十三名となつた。クリスマス、青年会誌「ゲツセマネ」の第一号が発行される。この年一年で会員数は六十名増加し、(受洗四十、入会十七、告白三)一年間の平均は朝礼拝九十三、夕礼拝二十四、祈会十八となつた。
かくの如く当教会史上かつてなかつた飛躍をなした年であつたが、十月、オルガンに又日曜学校に、豊かな天分と清い信仰をもつて奉仕された、バルト・ミヤ姉(注22)が病をえて急逝するという悲痛な出来事が起つた。ミヤ姉の病床は会員一同の祈りと青年達の美しい友情による奉仕とにとりかこまれたが、姉は最後まで病苦に勝ち、主のよき証人として天に召された。戦後の上すべりしがちな、「キリスト教ブームの時代」と言われた時期に、バルト・ミヤ姉の死による証しが、青年を初め当教会員一同の信仰の深化に果した役割は大であつた。この頃の青年の間から、数年後には多くの伝道者を出したことも記憶さるべきである。クリスマスにはその母千代姉(現長老)も受洗された。
この春より青年会員の木村知己兄(現、行人坂教会牧師)及び内藤協兄(現、盛岡青山町教会主任伝道師)が、神学生となつて、当教会の伝道に一つの力が加えられたが、当教会の日曜学校出身の吉岡繁兄が終戦直後成立した日本キリスト改革派教会の神学校に入学の為、神戸に去られた。青年達はこの春から神学研究会を持ち、毎木曜日の夜教会に集つて、松尾牧師より神学の概論をうかがうようになり、同時に読書会も月一度各自の家を廻つて続けられるようになつた。これ等は毎月の青年会例会に於ける聖書研究と共に、今後の当教会青年会の一つの特色となつた。夏期修養会は、高柳伊三郎牧師、吉岡繁兄等を講師として、昨年と同じ場所で開かれた。尚今後の三浦半島に於ける伝道に大きな力となる衣笠病院が生れ、当教会員黒沢良臣兄がその院長となられ、その後当教会員木村良夫兄(元長老)が院長となられた。尚葉山の吉岡姉が中心となつて開いていた日曜学校を、当教会日曜学校の分校として助けることになり、吉岡姉が葉山を去られるまで(一九五四年)続けられた。
この春、当教会日曜学校の出身で、青年会及び日曜学校のよき指導者であつた沢東吾兄が、牧会の任につくべく、横浜大岡教会の主任伝道師として赴任されることになる。なお、妙子夫人も当教会出身である。四月から青年達は、第四聖日の午後二人づつ組になつて訪問伝道につかわされることになり、教会に来られない病者や休んでいる人達を、おとずれた。衣笠病院に医療伝道者として来て居られたスイス人ブルンシュワイラー師のドイツ語聖書研究会が、当教会に於て週日の夜行われた。五月から第一聖日の礼拝後、木村、黒沢両博士によつて健康相談所が教会に設けられた。五月二十一日皇太子の英語教師、ヴアイニング夫人の講演会がYWCAの主催で当教会堂で開かれた。
青年会の夏期修養会は三日間にわたり、横須賀の猿島に於て、富士見町教会島村亀鶴牧師及客員松南健彦氏をお招きして「望みについて」の主題の下に開かれた。この会は最初の男女合同による修養会で、日曜学校中等科生徒も多数これに参加した。この会場は横須賀キリスト教協力会の諸教会が連合で使用したのであるが、その為進駐軍牧師の御好意により、食糧、宿泊用大天幕等がそなえられた。その時の句「夏海の底にとどろく祈なり」「ふち赤き聖書持ちより夏の海」哉々(島村牧師)。秋より木曜日の午後の祈会が始められ、志道者会と共に新しい伝道の門戸が開かれた。この年、竹森満佐一(五月)浅野順一(一〇月)の両先生による夫々連続四回の講演会が持たれている。
この年、当教会は最初の礼拝より満三十三年、伝道教会設立よりは満三十二年、松尾牧師着任よりは満二十九年を迎えるが、教会では今年を三十年記念の年と定めて、記念行事を行うこととなつた。五月二十一日、三十年記念行事の第一回の打合せ会が開かれ、六月二十一日、臨時総会に於て予算二万円とする記念行事が決定した。十月二十九日、三十年記念礼拝が捧げられ、その後で本間誠、山本喜蔵、松尾清枝の諸先生方、清水富貴子、朝永米子、児島春子の先輩方を来賓として迎えた記念感謝会が開かれた。そして「雪ノ下教会三十年略史及会信徒名簿」(藤原亮兄の筆になる、歴史十二頁、名簿十七頁)、が出版され、小豆島より取寄せたオリブの若木が記念樹として教会の庭に植えられた。この時よりクリスマスにかけて、三十年記念として、山本喜蔵牧師、佐波亙牧師、デマーグ宣教師、福田正俊教授、山本忠興博士等によつて特別伝道が行われた。
夏の行事としては、青年会が宮内俊三先生を講師として二十五名の出席者で県下大山、真理谷姉宅にて修養会を開き、日曜学校はイエス伝を主題として約百名の夏期学校を開いた外、中等科は横須賀の野比に於ける横須賀基督教協力会主催になる地区連合日曜学校修養会にも参加した。クリスマスの朝、青年会の主催で早天祈祷会が開かれ集る者十八名、その後もクリスマスにはひきつづいて行なわれている。この頃岸本桃子、市田美枝子姉等がよく訪問伝道していた額田病院に青年達二十数名が夕にはクリスマスキャロルを歌いに行つた。
福田正俊教授による「教会歴史」四回の連続講演が春行われた。
婦人会は終戦時まで継続して、その後友愛会と共になつていたが、この頃独立して家庭婦人のみの集りを持つ様になり、次第に発展して戦前の如く盛んになり集会者数に於ても最も多いものとなる。
教勢は、朝礼拝百十三名、夕礼拝二十六名、祈会十九名、受洗者は三十三名、日曜学校は平均出席二百三十七名である。尚この春わが教会もそれに参加している横須賀基督教協力会の主催するバザーが御成小学校図書館にて開かれ、その結果十一月十二日協力会の名に於て会館(現横須賀小川町教会会堂)の献堂式が行われた。
昨年来、教団内に会派を認めよとの動きが表面に出て来ていたが、この春六十教会は、教団を離脱して「日本基督教会」を設立した。三浦半島では、当教会を生んだ横須賀教会がそれに参加していたことは、大きな痛みであつた。この年以来わが教会は、教団に残留せる旧日本基督教会の諸教会と共に、教団を育成し、信仰告白を持つ一つの教会たるべく祈りと決意を一層深くする。一九五四年(昭和二十九年)第八回教団総会に於て「信仰告白」及「生活綱領」は制定された。
昨年来、日曜学校の生徒大会に於て、最近特に狭隘を感じている校舎の増築が希望として提出され、又その為の献金が捧げられていたが、二月二十五日の定期総会に於て、この希望は取上げられ、二ケ年計画、五十万の予算で増築の決議がなされた。この為には日曜学校の生徒も献金に努力し、一般教会員の献金の外に、コーバー氏の米国母教会よりの援助によつてバザー等を開催し、その増築準備が進められた。六月になると、この春補教師となられた当教会青年会出身の藤原亮師が補助伝道者となられることが長老会に於て決定された。藤原伝道師は、翌年春、小田原十字町教会の主任伝道者として赴任されるまで、松尾牧師及び今春東湘南地区の宣教師として着任されたドラモンド博士を援けられた。。
日曜学校は.、夏期学校の外に高等科生の修養会が葉山シオン学園に於て開かれた。青年会は、新春松尾牧師より「ベルンハルトについて」の特別に準備されたお話をうかがい、この年を迎えたが、六月三日小崎道雄先生を中心に、「教会合同について」「キリスト者の平和と今日の平和について」等をうかがい又語り合つた。この頃、朝鮮戦争は熾烈であり、対日講和条約及び日米安全保証条約が調印されたのもこの年である。夏の修養会は教会に於て行われ、当教会とも縁故の深い石島三郎先生より二日間連続の聖書研究をうかがつた。
衣笠病院と並んで戦後創立され、三浦半島地区の伝道の為によき働きをなしつつある横須賀学院に、時代は前後するが当教会員鈴木静子、寺島久子(現姓栂野)田口陽太郎、水戸部育子(現姓橋本)棟居正、山田巴末、大庭裕、栂野久雄、田中和恵、高橋芙美子(現姓大庭)等の諸兄姉が、教師としての召を感じてその任につかれたことも、記憶さるべきであろう。尚この春、転入した西田琴姉(西田幾太郎博士未亡人、現長老)及その後転入した橋本恭子姉を指導者とする湘南YWCAが当教会に於て聖書研究及び英語研究を始め、教会の伝道に協力することとなる。
春、木村知己兄は神学校を卒業、昨年来伝道を援けて居られた東京高輪教会に、補助伝道者として赴任され、間もなく当教会出身の福田道子姉もその家庭の人となつた。藤原亮先生も十字町教会へ去られた。
昨年以来、計画されて来た日曜学校校舎としての小会堂増築の件は、八月の臨時総会を経て、晩秋には完成され、十一月三十日、献堂記念礼拝が捧げられた。十二月七日、会堂増築感謝会及日曜学校感謝集会を開くに至つた。このかげには、ドラモンド博士による援助もあつた。尚八月十日の臨時総会に於て新宗教法人設立の件が決議され、翌二十八年十月九日設立登記を完了した。夏の集りは、「強き信仰」の主題の下にこの六月建設された横須賀小川町教会の宮内俊三牧師を講師として、青年会の修養会が三日間にわたり坂の下の鈴木本一兄宅にて行われ、日曜学校は夏期学校の他に、奥湯ケ原に於て高校生修養会を開いた。
この年度の総会に於ける日曜学校の報告によれば、平均出席百七十九名「空気が落着いて来て、内容的にも整備されつつある」とある。クリスマスには、戦火を受けた韓国キリスト者慰問の為、教会員一同は衣類の発送に努力した。
この頃から、数名の若き姉妹により特に病床の人や求道者のために訪問伝道が始められ、毎週一日をその為に献げられる事になる。この働きは、指導の川村(幸)長老自身が、受洗後間もなく昭和十年頃から、牧師の御指導によつて始めて来たものが、戦後、この様な発展をとげたものである。
夫人の御病気の為に一時帰米しておられたドラモンド宣教師も昨秋帰国され、この頃になると鎌倉に宣教師館も出来て三浦半島の伝道に大きな力が加えられた。葉山一色、秋谷、金沢八景、浦賀、船越、追浜等に、ドラモンド先生による開拓の伝道は開始され、それぞれに専任の伝道者も与えられて来る。一月には、先にドラモンド、藤原の両先生が開拓した武山教会の献堂式、及び仁田牧師の就任式が行われた。戦争前三浦半島には五個(鎌倉、雪ノ下、葉山、横須賀、中里)の教会があつたのみであつたが、一九五七年には、日本基督教団に属する教会のみで十八個を数えるに至つた。それ等の若い諸教会の成長をわが教会も松尾牧師も祈りを以て見守り又援けることになる。尚ドラモンド宣教師と諸教会との美しい協力は、この地方の特色と言えよう。又、諸教会相互の協力も、時と共に強化されて来た。
三月十五日、横須賀EMクラブに於て、三浦半島各派全教会の協力でスタンレー、ジョーンズ博士の伝道会が開かれ、又教職の修養会が持たれ、その後もそれは幾度も繰り返されている。
青年会は、この春から毎週礼拝の説教を筆記して、病者や他住の方方に「おたより」として発送することになり、又、毎月第四聖日の夕礼拝には、青年会員による証詞会を持つ様になる。この二つは爾来青年会の大きな奉仕として現在に至つている。夏期修養会は「キリスト者の倫理」を主題として取上げ、茅ヶ崎平和学園で行われた。
日曜学校の夏期学校は「私達の生活」を主題とした。十月には日曜学校高等科機関誌「オリブ」の第一号が発刊された。
十月四日には、賀川豊彦先生を迎えて大町教会に於て聖日の連合朝礼拝があり、三百三十名の集会であつた。
四月、神学校を卒業された内藤協兄は、盛岡青山町に於ける開拓伝道の為に、主任者として赴任され、間もなく当教会員市田美枝子姉と結婚された。
六月、これまでドラモンド博士と共に、三浦半島の開拓伝道に従事していた、当教会出身の藤掛豊盛師を補助伝道者として招聘することが長老会に於て、翌年三月定期総会に於て決定された。
青年会夏期修養会は昨年と同じ場所で「教会」の主題の下に行なわれ、日曜学校中高等科生、大岡教会高校生の参加もあり、四十名の集会となつた。
九月には、当地方に教会高校青年会(KKS)とその連盟が生れ、当教会の高校生も之に参加。十一月三日、東湘南地区青年会連合会が誕生、第一回の集会が田浦教会に於て「キリスト教と平和問題」の主題の下に東京神学大学教授井上良雄先生を講師として開かれた。この会は、爾後毎年春秋二回(天皇誕生日と文化の日)例会を開く事になり、地区内諸教会の交りを深める事になる。又青年会連合会は翌年夏葉山教会の敷地拡張の為に第一回ワーク・キヤンプを開く。次いで三十一年、金沢八景教会会堂建築の為に整地作業ワーク・キヤンプを開き、同時に路傍伝道、地区内教会の教職方による伝道会等を開催する。かくして、青年の運動は当地区の伝道強化の為に一つの力となつた。
この年の教勢は、朝礼拝百二十六名、夕礼拝十九名、祈祷会十三名、受洗者三十九名となつている。
元旦、衣笠病院教会に於ける第一回東湘南地区(三浦半島地区)教会連合新年礼拝に於ける決議により、三月二十一日、東湘南地区教会教職信徒修養会が横須賀のルーテル・センターを会場として開かれた。この時、教職と信徒と宣教師よりなる十一名の地区伝道委員会が組織され、松尾牧師はその委員長となる。八月には茅ヶ崎に於て、東湘南地区教会連合修養会となり、教団の宣教百年記念総合伝道委員長島村亀鶴先生を中心に、お話しをうかがい、又当地区に於ける宣教百年記念伝道について協議された。
五月五日、日曜学校主催で「教会に於ける教育について」教師を中心に修養会が秋谷レーシー館に開かれた。
五月二十二日、藤掛豊盛師の伝道師就任式が宮内俊三牧師の司式によつて行なわれた。
六月十二日の花の日礼拝には、戦後始めて日曜学校中高等科の生徒約五十名が十時よりの礼拝に参加した。
夏の日曜学校は教会に於ける小学科の夏期学校の他に中高等科修養会を茅ヶ崎平和学園に於て開いた。
青年会は山北より山奥に入つた中川温泉に於て主題を「教会の交り」とする修養会を開いたが、この頃から問題となつて来た当教会創立四十年記念事業の事を思い、それを迎える教会の体制が全きものとなるために、教会全体の修養会を持つ事を希望することになり、教会に帰って、全青年会員の一致せる希望として長老会に提出された。その結果九月二十二―二十三日の両日、当教会に於て始めての「雪ノ下教会修養協議会」が箱根中強羅、横浜市の経営する恵風会館に於て開かれた。教会の各層より六十五名が出席、宮内俊三、ドラモンド、藤原亮の諸先生方をも迎えて、修養の時を持ち、又四十週年記念を迎える教会のあり方につき、分団協議、総合協議等がなされた。その後、十月には教会に於て、日曜の礼拝後、伝道、集会、交り、教育等の諸分団に分れて協議会が行なわれ、四十週年を迎える内外の準備は次第に整い祈りは一つにまとめられて来た。この秋、藤掛伝道師は当教会員寺島静子姉と結婚。
この年の特別伝道は二瓶要蔵(八月)ラクーア伝道団のストリックラー(八月)白井慶吉(十一月)の先生方によるものであつたが、白井先生の伝道の時の模様を旧日基会機関誌「信交」第二〇号より引用してみよう。
「本誌の編集主任白井慶吉氏(千代田教会牧師)は十一月十三日の日曜、鎌倉雪の下教会の秋季特別集会を応援された。帰つてのお話によると教会がまだ強制疎開にあわなかつた時代にも応援されたことがあるが、その時分にくらべると、新しい会堂は駅に近く(徒歩二、三分)地の利を得ており、建築も立派で礼拝堂の外に広い日本間が二つもあり、その一つには見事に表装された故井深梶之助先生筆の大幅が掛つていた。何よりもうれしかつたのは、集会の模様や会員諸兄姉の活動態勢から教会の著しい発達を知り得ることであつた。十三日の朝礼拝は百数十名の出席があり 性別年令別に見て各層の人々を網羅し、華やかで活気があり、讃美歌なども念入れてえらばれているようである。松尾造酒蔵牧師の熱心な行届いた牧会ぶりが想察される。午後青年達の集会で短かいはなしをしたが、新鮮な切実な問題をとらえて真剣に論議しておられた。(中略)夜は六七十名の出席であつたろうか、会後旧知の方々に名乗り出られて非常にうれしかつたと。」
十一月、昨秋改訂された新讃美歌を礼拝で使い始めた。
十二月、晩年稲沢慶子姉の住つて居られた稲村ケ崎の「静養館」が、増改築されて、三浦半島諸教会の祈りの援助の下に、有料、キリスト教主義の「老人ホーム鎌倉静養館」となつて出発した。当教会の信徒も入館したが、全国各地よりここに入館された方々の中からもその後当教会の礼拝にそろつて出席される方々が出来て来る。
この年、第三回目の会堂と共に消滅した教会の書庫を再興することになり、次第に整備され始めた。又、日曜学校生徒及青年会員による春期の大掃除が二日間に亘つて行なわれ、その後もひきつづいてよき伝統となつた。クリスマス礼拝の出席者は二百七十名をこえ、文字通り堂に満ちあふれた。併し一方日曜学校生徒平均出席が百三十二名と減少した事も特徴的である。
昨秋の修養会の実として、戦後とだえていた地区別の「最寄り会」がこの春から再開された。
三月十一日、定期総会が開かれたが、長老選出の為に前もって長老会の他に数人の人々を加えた長老選挙準備委員会が設けられ、充分の祈りと準備の時をもつて、長老選挙が行なわれた事は、この総会の特色となり、今後の良き模範となつた。この年長老は十二名となる。尚昨年来、祈りの内に準備されて来た創立四十年記念事業はこの総会に於て大綱が決定され、長老の他に十二名を加えた四十年記念事業委員会が設立され、四月十五日、第一回の委員会を開いて、具体的計画及び募金に乗出した。その後十月二十八日の臨時総会に於て、予算は五十万円増額され、百五十万円と決定した。
一月、堀江たき老姉(注23)と明治学院教授嶺岸忠之助兄(注24)が逝去、三月十六日、現職の田口修治長老(注25)が出張先で急逝。続いて当地の社会党員としてつくされた元長老落合義貞兄も召される事になり、この大切な時期に教会は多くの兄姉をうしなつた。
三月、東京神学大学を卒業された当教会日曜学校出身の川村輝典兄は、東京世田ケ谷に新設の弦巻伝道所主任伝道師として開拓伝道の為に出発した。
四月になると、昨秋来教会に急に増えて来た新家庭を主にした集り、青年友愛会が集会を始める。五月四、五日には、戦後十年の日曜学校の歩みを反省し前途を祈り合う為に日曜学校教師修養会が伊豆多賀に於て開かれた。この月牧師は東京教区伝道部長となられた。六月には、永年夏には当教会に於て礼拝をされて来た洗足教会長老長谷川秀治氏(東大教授、前伝染病研究所長)をお招きしてキリスト教会を中心にした最近のヨーロツパ及びソ連の諸事情をスライドを見ながらうかがつた。七月、教会員田口寧、藤掛真の両兄は留学の為渡米され、九月には川村長老数月渡仏の為送別会を開く。
夏は、加藤邦雄牧師によりハイデルベルグ信仰問答についての三回連続の講演会があつた。日曜学校は中等科(小田原十字町教会の箱根宮城野伝道所)高等科(中川温泉)小学科(教会堂)の各集会を持ち、レーシー館に於て「聖書にもとずいた信仰生治の確立」の主題の下に藤原亮牧師を講師として青年会修養会が開かれ、二十三名の出席があった。
十月二十四日、米国長老教会婦人部の視察団が来日、当教会に於て諸教会代表の婦人方と共に聖書研究会を開き、当教会よりも多くの婦人方が出席した。
秋には、鳥居忠五郎氏による新讃美歌練習があつた。
十月二十七日、教会員全体の祈りと努力に支えられて、四十年記念事業の為のバザーが開かれ、よき成果をえた。
三月の定期総会を経て六月三十日、臨時総会が開かれ四十年記念事業は最後的に決定するが、その間、五月十九日、第二回雪ノ下教会修養協議会を礼拝後、秋谷のレーシー館で開く。教会四十年の歴史を顧みるお話をうかがい、牧師より、伝道の方針、教会のあり方等をお聞きし、夕餐を共にして諸計画につき熟議した。出席者は大人六十五名。
ここに四十年記念事業の大要を記せば、先ず内教会員の信仰の確立強化と外伝道の強力な展開があげられるが、その為に一昨年夏以来の修養協議会及連続聖書講演会、本春よりの連続的な特別伝道会がある。特に十月の記念礼拝の前後には、日曜学校をも含めた、特別伝道が計画されている。次に建築以来十年、雨漏りの出た会堂屋根の修復と、狭隘を感じ出した会堂及玄関の増築であり小会堂の整備がそれに含まれる。第三には当教会四〇年史の編纂と名簿の作成である。以上のすべてが十月二十七日の記念礼拝及び式典に集中され、当教会出身の多くの伝道者や信仰の先輩を迎えて、讃美と感謝が神にささげられ、喜びが互に分たれることになつた。十月二十日には日曜学校の記念礼拝及式典が行われる。
この記念事業の為に、夫々の部門に分れた実行委員が回を重ねて集り準備がなされたが、基金面に於てなお難行中のところ昨春より今夏まで帰米して居られたドラモンド宣教師の非常な御努力と、駐留軍所属教会牧師の御好意によつて米国諸教会よりの浄財を加えられたのは大なる感謝であつた。
イースターから、口語訳聖書が礼拝に用いられ始めた。
今秋、四十年を迎えるに際して、我ら一同の歩みには、なお多くの懺悔すべきところあり、新に神の赦しを受け、キリストの教会として「しみも、しわも、そのたぐいのものがいつさいなく、清くて傷のない」ものたるべく、祈りを深められねばならない。
併し、顧り見ると、様々な苦難の時代を経て今日にいたつた当教会の歴史は、同時に神の恩寵の歴史であり、特に一人の牧者に約四十年間養なわれて来た事は、当教会員の深く感謝するところである。当教会の諸々の特色はすでに述べられて来たが、この事は最も大きな特色と云えよう。又へブル書にある如く、我等は多くのすでに天に召された信仰の証人を持つ。
附記、尚故人にして忘れ難い人々、横井清子、佐相夫妻、神谷夫妻、徳間親子三人、山下太郎母子、河野静、打田桂堂、中桐久子、藤村等々、それこそ雲の如く多くありますが、ここに割愛します。おゆるしを乞う。
日本基督教団鎌倉雪ノ下教会牧師、わが松尾造酒蔵先生は来る十月一日をもつて満六十七歳七カ月に達し、数年前多少の疾患ありしといへど、現在壮健にして数百千の教会員より慈父と仰がれ、更に教界、教育界、社会事業に携はりてその在るところ重要の存在たり。茲に健者の小伝を登載するは、わが教会設立の四十周年を迎ふるに当り、主の恵みを感謝すると共に、先生多年の苦労を想ひて師恩を新たにし、向後更に寿齢を重ねられ、永くわれらと共にありて溢るる恩寵を亨受されんことを希ふもの切なるによる。
長崎県鳥原地方は名だたる切支丹史上の土地なれど、農家出身の父君松尾梅十、島原藩士の家に生れし母君たか子(松原家)の系統には、何れも信仰の跡さぐるべきものなきが如し。先生は明治二十三年(西歴一八九〇年)三月一日の誕生にして、恰も同日は旧歴の正月十一日とて鏡開きの佳節に当るを以て、氏神の神主なる人により造酒蔵と命名されたりといふ。牧師にして酒はと、偶々ほほえましき話題となることあれど目出たきいはれとや言わむ。
郷里の島原中学を卒へて上京するまでの、松尾少年につきて語り草らしきもの数あるべけれど、後年の先生の学究振より推して優秀なる学生たりしこと疑ひなし。特に理化学に興味を有し自ら化学の実験により石鹸を試作したりしといふことは、その時代の西辺の中学生として相当科学的といふべく、後に神の召命のことなくばその方面に立身せしことも考へらる。さもあらばあれ青年松尾は上京したり。実に明治四十年春のことなり。ここに神の導きの端緒を見る。そもそも先生の信仰的系譜は叔父松原英一(母堂実弟)に始まる。又松原はその妻の篤信により信仰に導かれたる人にして、当時陸軍主計大尉の要職にあり、日露戦役に出征するに当り妻の勧めにて受洗、帰還後、召を受けて教職者となり晩年は東京角筈教会の牧師として、輝かしき信仰の生涯を了る。
松尾家にて最初にこの松原牧師の感化を蒙りしは先生の実兄登茂喜にて、先に上京し、受洗後渡米し彼地にてその生業をたつ。登茂喜東京より弟造酒蔵に書を寄せて受洗のことを語り入信を勧めたりといふ。この兄に次で叔父松原を頼つて上京したる先生は、翌四十一年富士見町教会に於て植村正久牧師より受洗、更に翌四十二年に明治学院神学部入学に至る。当初自らの資性を量りて教育家たらんと志せし先生は、上京後二ケ年を経過する間に於て信仰に入り更に伝道者たるの決意を確立す。この推移は自然にして献身の一典型なり。かくて沃土に蒔かれし信仰の種子はその好ましき成長と豊かなる実りとを期待せしむ。
明治学院神学部に於ける五年三ケ月の学究生活(明治四十二年四月より大正三年六月に至る)は、凡そ現代の神学校とは風景を異にすと言へど、耕さるべき伝道の広大なる国土に臨んで、意気燃ゆる若人の群れ猶見るが如し。神学生時代の松尾先生につきては嘗て、当時を知れる他教会の老信者より聴きたることあり、非凡なる勉強振りにて将来の大成を想はしめたりと。この攻学精神は学院卒業年の大正三年七月、シエーファー宣教師に附きて盛岡を中心に東北地方伝道、続いて北海道小樽教会伝道を経て大正五年渡米留学となり、オーバーン神学校に入学、四ケ年の課程を了りて(バチエラー・オブ・デイヴイニテイの学位取得(更に渡英、スコツトランドなるエジンバラ大学神学部及ニユー・カレツヂ神学校一ケ年の研究に進む。(専攻部門は有神論及基督教弁証論)。内地及米英に於ての研鑽併せて実に拾年三ケ月を閲す。わが国の学問の盛んなることは美風とさるれど、キリストの道を弘めんと志す者が、先ず学生として拾年余の長きに亘り斯学研究に精魂を注ぐこと、この道のいかに尊く重大なるかの証左とも言ふべし。
学徒松尾の恩師たる人は先づ植村正久牧師、井深梶之助(当時の明治学院長)なれど、その後学問の道に深き感化を与へたるは在米時のダレス教授(現、米国務長官ダレスの父)又在英時のパターソン及びマツキントツシユ両教授なり。神学生松尾は彼地に在りて初めて、伝統永き生粋のキリスト教に接したるが如し。日毎に世界的の碩学と膝を交へ、その深遠なる神学と信仰とを口づから受けたる、祈りと学びの五年間、恐らく生涯中最も恵み多き思ひ出の歳月なりしならむ。留学時に体得したる信仰の道こそ今日にまで続くそれなり。
既に良き地に蒔かれたる召命の種子は、今や裕かなる養ひを受けて健やかに成長す。遠く故国に在りて彼を待てりしはいづれの地ぞ神はこの時すでにその所を備え置き給へり。教会の設立とその発展には牧師信徒の一致したる努力を必要とすること勿論なれど、それらを超えて支配し給ふ神の恵みこそ要件なれ。わが教会に降し給へる豊かなる神の恩寵を感謝す。大正十年八月、長期の海外留学を了へて帰朝したる松尾先生は、その年九月わが雪ノ下教会(当時は日本キリスト鎌倉教会)に来任す(大正十一年東京中会にて教師按手礼を受け、同五月鎌倉教会牧師就任式挙行)。現在より遡れば実に満三十七ケ年前のことなり。松尾牧師当時を述懐して、自分は生涯をこの教会に献げんとて任赴し来れりと。教職者の赴任地を替ふるはそれぞれ事情のあることなれど教界の常事といふべく、その事由の何れにせよ平穏なる教会生活を送る信徒にとりては、惑ひとも迷ひともなること多し。羊飼ひは家付きこそ良けれ。雪ノ下教会に籍を置く者このことに思ひ至りてこのめぐみを忘ずべからず。
牧師の苦難は教会と消長を共にす。わが教会四十年の歩みは殆んどそのまま松尾牧師の労苦を表現すと謂ふも可なり。栄光は主にあれ、されど教会にありて主の苦しみを負ふものの功も亦没すべからず。われら四十年の歴史を顧みて尊敬すべき諸先生、諸先輩のあるを知る、されどそれと共に、その前面に於て背後にありて我雪ノ下教会の喜びと哀しみとを代表する者、即ちわが松尾牧師なり。
我教会は過去に於て二大事に遭遇す。何れも国家的のものにて独自のものにあらざれど、大正十二年九月関東大震災と今次の世界戦争によるそれなり。前者は震火災によりて建築間もなき最初の会堂を焼失し、後者は多年間の苦心によりて得たる会堂を強制疎開によりて喪失す。前の場合は先生赴任後間もなきことにて少数会員との協力により復興せしなれど、今次大戦後のそれは神のゆたけき導きにより、殆んど松尾牧師努力の結晶にあづかるものといふを得べし。教会経営の苦心は何処にありや。長老会の運営はいづれの牧師も頗る苦慮する処にして、松尾牧師もその例に洩れず、長年に亘り事多けれど敢てそれに触れざるべし。また会堂の建築は勿論多大の苦労にちがひなけれど、真の在り方は牧師信徒一丸となりて信仰に邁進することを措いてあるべからず、松尾牧師の教会に対する貢献はここに焦点を求むべきなり。されど筆者はこの計量を為すを控へむ。われらいかに牧師に対し感謝の辞を献ぐるも尚不十分なり。真にこれを視たまふ者、その功を嘉し給ふ御方、その労を慰むるもの、もしあやまちのありたらんには之を赦したまふ者は、吾等の主なる他になきを思ふ。唯三十年余、この教会の末席に在りて、大小となく師の辛苦を知れる一長老として、松尾牧師のため主の聖前にその証人たることを明言するものなり。
牧師の苦心と称すべきもの多々あらんも、結局それは羊飼ひの羊に対するそれなり。個々の羊に対する日夜の心遣ひ、その健康、動向、心配の種ならぬはなし。特に檻を離れがちなるものに対し、手をつくしても遂に離れ去る者に対する傷心、誠に九十九匹の譬へこそ牧会の鑑ならむ。松尾先生は礼拝説教に周到なる準備を以て臨む。何れの教職者にも劣らざるべし。されど説教の苦心よりも更に更に辛苦を以て当りたるは羊飼ひの労苦なり。先生四十年を回顧して心に浮ぶは何か。今日完成したる会堂の偉容か名誉職たる諸事業か(フエリス女学院理事長その他多数)。否、飼ひたる羊の群れなり、然も健やかなるそれならで病める羊、傷める羊、更に群れを離れし小羊のこと。
松尾牧師の信者に接するに「無為にして化す」の風格あり(説かずして感化するの意)。これがある人々に誤解を与へしようのことありしも、そは受くる方の浅慮によるものにして、真理追求者たるべきわれら信徒の長き生涯を通して之を味へば、限りなき滋味をそこに汲むことに思ひ至るべし。先生は特に礼拝の厳粛性を重視す、依て教会に於ては厳父の如し。又牧師宅を訪れる者には始終温顔をたたえて迎ふること慈母の如し。又先生は平素寡言、特に自身につきて語ること少し。仍てこの小伝もわづかに得たる資料にもとづき、又筆者が多年の間に耳にせる、先生の片言隻句中の記憶に残るものにより草せしものなり。
四十年に近き教会に於ける牧師の苦心は、いかに詳細に述ぶるも尽くることなければ、茲に筆を擱くに当り言及すべきはきく子夫人のことなり。夫人は明治二十四年七月四日横浜に生る(父君伊藤関次郎は千葉県人、母堂タミ)横浜フエリス女学校神学部を卒へて、大正四年七月母方の親類にて当時海岸教会長老なりし西川安造氏の媒酌のもとに造酒蔵氏に嫁ぐ。松尾先生明治学院卒業の翌年にて海外留学間近のことなり。それより先生の長き外遊中は勿論、鎌倉教会就任後も、家庭を守り、又教会の手薄き待遇にも拘はらず、良く家計を維持し、二児の教育と自らの老父母を養ひ得たるは、牧師夫人自ら社会に出てタイピストとして得たる収入を以てしたればなり。このことなくんば家計のことはともかく、先生が牧師としての任務を全うすることに後顧の憂ひありしやも測られず。これを思へば我教会が牧師夫人のこの蔭なる献身に負ふことの多大なるを思ふ。記して深き感謝の意を表す。
先生の親族松原牧師に就きては初めに述べたり。更に実弟武氏は先生につづきて神の召に応じ、現在改革派浦和教会の牧師として令名あり。これさへ一族の誇りなるに、先生の次男吉岡繁牧師あり(明治初期の牧師故吉岡弘毅翁の家名を襲ぐ)。繁牧師はわが教会の出身にて東大文学部を卒業後献身、現在改革派仙台教会牧師として前途を嘱望さる。このことは松尾家と同じくわが教会の誇りなり。牧師の子牧師となることのいかにたやすからざることなるかは、日本に於けるキリスト教会の実状を知る者以外、一般国民の想像も及ばざる処なるべし。この一事、恐らく松尾牧師長き伝道の生涯を顧みて、主の前に誇ることを許さるべき。
鎌倉はその昔、久しく幕府の置かれて全日本を支配せし土地、名所旧蹟に富み、又海山の風光明眉なり。教会に程近き静寂のところに牧師宅ありて、先生夫妻は長男巌(武蔵高工電気科出身)夫妻、愛孫二男児の家族に囲まれ、和気満つる日々を送る。
西辺の一角に蒔かれし種子、清き流れのほとりに移し植えられ、時至りて今その為すところの栄えを観る。嘗ての日、内奥に神の御声を聴きて立ち上り召に応じたる若者、今尚銀髪の身をもつて聖前に仕ふ、その姿を見よ。
われらこの師と共にひざまづきて感謝の祈りを捧げんとす。
昭和三十二年九月 長老 野畑啓二郎
| 一九一七年(大正六年) | 一〇・一六 | 鎌倉に日本基督教会設立を協議 |
| 一〇・三一 | 最初の礼拝 | |
| 一九一八年(大正七年) | 五・一二 | 伝道教会設立式海岸教会牧師笹倉弥吉氏兼任 |
| 清水侯忠兄等委員に当選 | ||
| 一九一九年(大正八年) | イースター | 日曜学校との合同礼拝 |
| 五・一二 | 満一年記念伝道今井革牧師 | |
| 一九二〇年(大正九年) | 二・ | 婦人会誕生 |
| 八・ | 集会を小町三百四十五山口多津子姉宅に移す | |
| 高倉徳太郎先生を伝道者として招聘 | ||
| 一九二一年(大正一〇年) | 五・ | 高倉先生渡英の為辞任 |
| 本間誠先生来援 | ||
| 八・二八 | 臨時総会松尾造酒蔵先生を牧師として招聘決定 | |
| 九・一 | 松尾造酒蔵先生着任 | |
| 一九二二年(大正一一年) | 三・一九 | 教会堂建築のため臨時総会 |
| 八・二九 | 大町蔵屋敷七百八十八に新会堂を建築、献堂式 | |
| 日本基督鎌倉教会建設式 | ||
| 九・二 | 第一回小会、清水候忠夫妻、枡富安左衛門夫妻、秋山真男兄等長老就任 | |
| 九・二八 | 金森通倫師による特別伝道会、劇場にて | |
| 一〇・一〇 | 女子青年会発会式 | |
| 一一・二六 | 松尾先生教師任職、牧師就任式 | |
| 笹倉弥吉先生解任 | ||
| 一九二三年(大正一二年) | 二・ | 執事二名を選出 |
| 三・ | 兄弟会を青年会と改称 | |
| 逗子に伝道集会を開く | ||
| 五・一二 | 教会設立記念日、親睦会 | |
| 九・一 | 関東大震火災 | |
| 一〇・一四 | 臨時総会、二重天幕張り仮礼拝堂建設 | |
| 一九二四年(大正一三年) | 三・一四、一五 | 賀川豊彦師講演会 |
| 五・一〇 | 第二会堂建築竣工、献堂式挙行 | |
| 八・一-一四 | 日曜学校夏期学校 | |
| 一九二五年(大正一四年) | 四・ | 逗子(再開)、稲村ケ崎伝道礼拝 |
| 六・七 | 日曜学校生徒と共に花の日礼拝 | |
| 九・ | 逗子に日曜学校分校を開く | |
| 一九二六年(大正一五年) | 八・ | 女子青年会再建 |
| 九・ | 男子青年会再建 | |
| 一〇・ | 青年会誌「聖の暁」発行 | |
| 一二・二五 | 大正天皇崩御 | |
| 一九二七年(昭和二年) | 四・ | 日本基督教会東京中会を当教会にて開く |
| 一〇・ | 葉山に講義所開かる | |
| 一九二八年(昭和三年) | 四・一 | 臨時総会、十週年事業のため向う二ケ年間に二万円募金 |
| 五・一二 | 創立十年記念祝賀会 | |
| 一〇・二八 | 創立十年記念礼拝 | |
| 一一・ | キリスト教徒御大典記念奉祝大会 | |
| 一九二九年(昭和四年) | 鎌倉各地に「もより会」開く | |
| 一九三〇年(昭和五年) | 五・一九 | 神の国運動第一回集会、賀川豊彦師 |
| 八・一五 | 「鎌倉教報」第一号発行 | |
| 九・ | 図書部新設 | |
| 一〇・ | 神の国運動秋期特別伝道会 | |
| 一九三一年(昭和六年) | 二・ | 日曜学校小坪分校開かる |
| 五・二四 | 建築の為臨時総会、向う五ヶ年を期し二万五千円募金計画 | |
| 九・二四 | 県下日基教会連合青年大会 | |
| 九・ | 満洲事変勃発 | |
| 一二・一三 | 家長会生る | |
| 一九三二年(昭和七年) | 一・五 | 家長会、教友会と命名 |
| 四・ | 組会組織さる | |
| 四・二三 | 「鎌倉教報」第十九号 | |
| 一九三三年(昭和八年) | 四・ | 渥美清枝師、補助伝道者として就任 |
| 一九三四年(昭和九年) | 五・ | 日曜学校高等科礼拝生る |
| 七・ | 新設のレーシー館にて日曜学校教師会 | |
| 八・ | 小坪分校夏期学校 | |
| 九・二〇 | 「鎌倉教報」復刊第二十号 | |
| 一九三五年(昭和一〇年) | 五・一二 | 建築に関する臨時総会、来年までに土地二百坪購入の事 |
| 八・ | 日曜学校高等科生夕陽祈会 | |
| 一九三六年(昭和一一年) | 三・ | 渥美清枝伝道師辞任 |
| 三・ | 大岡伝道所開所感謝会 | |
| 七・一五 | 葉山伝道教会開所式 | |
| 一〇・二五 | 賀川伝道合同にて | |
| 一一・ | 日曜学校材木座分校、森寛子姉宅にて開かる | |
| 一二・一三 | 葉山伝道教会設立 | |
| 一九三七年(昭和一二年) | 二・一〇 | 「鎌倉教報」四十五号で終る |
| 三・二五 | 教会誌「かまくら」第一号発行 | |
| 五・二 | ヘレンケラー講演会、御成小学校に於て | |
| 七・ | 中日戦に入る | |
| 一〇・一〇 | 日基大会で非常時特別伝道決議 | |
| 一〇・ | 慰問委員会組織さる | |
| 一九三八年(昭和一三年) | 一・一六 | 横浜市大岡町伝道教会建設式松尾武氏牧師として就任 |
| 二・二七 | 非常時特別伝道賀川師 | |
| 五・二二 | 会堂建築のため臨時総会再び五ケ年延期 | |
| 九・ | 建長寺塔頭正統院境内に教会用墓地として若干坪設定 | |
| 一九三九年(昭和一四年) | 九・ | 日曜学校師範科と青年会一体となつて青年礼拝 |
| 日曜学校小坪分校中止 | ||
| 一二・三 | 三教会連合戦死者慰霊会 | |
| 一九四〇年(昭和一五年) | 三・一 | 組会の編成変 |
| 三・二二 | 松尾牧師共立女子神学校長に就任 | |
| 四・七 | 補助伝道者として梅崎正二郎師招聘 | |
| 四・ | 宗教団体法施行 | |
| 五・五 | 松尾牧師横浜市より鎌倉市雪ノ下四百二十四に移転 | |
| 一一・三 | 梅崎師辞任 | |
| 一一・一〇 | 二千六百年奉祝礼拝 | |
| 一九四一年(昭和一六年) | 三・一六 | 臨時総会、雪ノ下三百四十五番地、土地、建物を購入 |
| 六・ | 日本キリスト教団創立、松尾牧師東海教区副教区長に就任 | |
| 八・ | 第一回青年会夏期修養会 | |
| 九・七 | 東海教区神奈川支教区が出来、当教会の名称は「日本基督教団鎌倉雪ノ下教会」となる | |
| 一二・三〇 | 雪ノ下三百四十五の新会堂へ移転 | |
| 一九四二年(昭和一七年) | 二・二 | 第三会堂献堂式 |
| 二・三 | 献堂記念伝道 | |
| 八・一八 | 女子青年会婦人会共催の修養会乃木女学院にて | |
| 一九四三年(昭和一八年) | 三・ | 日本にある女子神学校の合同と共に松尾牧師横浜共立女子神学校長を辞任 |
| 八・ | 婦人会主催夏期練成会葉山にて | |
| 一九四四年(昭和一九年) | 三・二五 | 「かまくら」八十五号をもつて廃刊 |
| 学徒出陣 | ||
| 一九四五年(昭和二〇年) | 六・二一 | 教会強制疎開の命令下る |
| 六・二四 | 臨時総会、礼拝は小町四十一、日本キリスト教団小町教会と連合する | |
| 七・八 | 小町教会にて第一回連合礼拝 | |
| 七・三一 | 教会堂取りこわし完了 | |
| 八・一五 | 終戦 | |
| 一〇・ | 日曜学校再建 | |
| 一一・ | 会堂敷地に麦蒔をして麦畑となる | |
| 一九四六年(昭和二一年) | 五・五 | 臨時総会、会堂建築を決議 |
| 八・ | 戦後第一回日曜学校夏期学校、バルト姉宅 | |
| 一〇・二〇 | 第四回会堂新築定礎式 | |
| 一二・二五 | 新会堂にて最初の礼拝 | |
| 一九四七年(昭和二二年) | 二・ | 青年会再建、友愛会創立 |
| 五・二五 | 第四(現)会堂献堂式 | |
| 六・ | 献堂記念特別伝道 | |
| 八・ | 戦後第一回青年会夏期修葺会、秋谷にて | |
| 教会堂にて夏期聖書学校 | ||
| 一二・二一 | 青年会々誌「ゲツセマネ」第一号発行 | |
| 一九四八年(昭和二三年) | 日曜学校葉山分校生 | |
| 日本医療伝道衣笠病院創立、黒沢良臣博士院長、小崎道雄牧師理事長、松尾牧師も又理事就任 | ||
| 一九四九年(昭和二四年) | 四・ | 沢東吾兄大岡教会主任教師として赴任 |
| 木曜日の求道者会生る | ||
| 一九五〇年(昭和二五年) | 四・二七 | 御成図書館にて協力会主催バザー |
| 婦人会再建 | ||
| 六・一六 | 臨時総会、三十年記念の為 | |
| 一〇・二九 | 三十年記念礼拝及式典 | |
| 「三十年略史及名簿」を発行 | ||
| 一一・ | 三十年記念伝道 | |
| 一九五一年(昭和二六年) | 一・ | 「日本キリスト教会」生る |
| 二・一八 | 総会にて日曜学校校舎増築決議 | |
| 宣教師ドラモンド師、三浦半島開拓伝道に従事 | ||
| 六・ | 長老会にて藤原亮氏を、補助伝道者として招聘決定 | |
| 八・一三 | 日曜学校高等科修養会、葉山シオン学園にて | |
| 九・二四 | 賀川豊彦師特別伝道会、大町教会にて | |
| 一九五二年(昭和二七年) | 三・ | 藤原亮師辞任、小田原十字町教会主任伝道師となる |
| 木村知己兄神学校卒、高輪教会補助伝道師として就任 | ||
| 八・一〇 | 臨時総会、小会堂増築の件、新宗教法人設立の件決議 | |
| 八・ | 中旬、日曜学校高校生修養会、奥湯ケ原にて | |
| 九・二三 | 賀川豊彦師伝道 | |
| 一一・三〇 | 献堂記念礼拝 | |
| 一二・七 | 日曜学校献堂感謝の集会 | |
| 一九五三年(昭和二八年) | 一・ | 青年会「おたより」を発行 |
| 二・五 | スタンレー・ジヨーンズ伝道、横須賀E・Mクラブにて | |
| 一〇・九 | 宗教法人設立登記完了 | |
| 一〇・ | 日曜学校高校生機関誌「オリブ」生る | |
| 一九五四年(昭和二九年) | 一・一四-一五 | 三浦半島教会連合修養会、葉山レーシー館にて |
| 四・ | 内藤協兄神学校卒、盛岡青山町教会へ主任者として赴任 | |
| 七・一八 | 長老会にて藤掛豊盛師を補助伝道師として招聘を決定 | |
| 日曜学校葉山分校閉校 | ||
| 一一・三 | 東湘南地区青年会連合会生る | |
| 一九五五年(昭和三〇年) | 一・一 | 東湘南地区連合礼拝衣笠病院教会にて |
| 一・ | 総会にて藤掛豊盛師を担任教師として招聘に決定 | |
| 三・二一 | 三浦半島教会、教職信徒協議会、横須賀ルーテルセンターにて | |
| 五・ | 藤掛豊盛師伝道師就任式 | |
| 八・二三-二四 | 茅ケ崎にて宣教百年記念伝道の為当地区連合修養会。 | |
| 九・ | 教会の書庫再興 | |
| 九・二二-二三 | 四十年記念の為、雪ノ下教会全員修養会、箱根恵風会館にて | |
| 一一・一〇 | 新讃美歌を使い始む | |
| 一二・ | 稲村ガ崎老人ホーム開館松尾牧師理事長就任 | |
| 一九五六年(昭和三一年) | 三・一一 | 総会、創立四十週年記念事業に関する件四十週年記念事業委員会設置 |
| 三・一八 | 川村輝典兄、東京神学大学卒業、世田ケ谷にて開拓伝道開始 | |
| 四・一五 | 第一回四十週年記念事業委員会 | |
| 四・二九 | 青年友愛会の集会を開始 | |
| 五・四-五 | 日曜学校教師修養会、伊豆多賀にて | |
| 七、下旬 | 金沢八景教会のため地区青年会連合ワークキャンプ | |
| 一〇・二八 | 臨時総会、四十週年記念事業の予算を百五十万に増額 | |
| 一九五七年(昭和三二年) | 四・二一 | イースターより口語訳聖書使用始め |
| 五・一九 | 創立四十年記念事業準備のための修養協議会、レーシー館にて | |
| 六・三〇 | 臨時総会、四十年記念事業の為 | |
| 一〇・六 | 会堂増築感謝礼拝 | |
| 一〇・二〇 | 日曜学校四十年記念礼拝及式典挙行 | |
| 一〇・二七 | 創立四十年記念礼拝及式典挙行 | |
| 「鎌倉雪ノ下教会四十年史」を発行 |
旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。
主イエス、キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父、子、聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ。御子は我ら罪人の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖ひとなりたまへり。
神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ。この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ。
教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集ひなり。教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝へ、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む。
我らはかく信じ、代々の聖徒と共に、使徒信条を告白す。
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス、キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。我は聖霊を信ず、聖な公同の教会、聖徒の交り、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。
アーメン。
われわれは、神の恵みにより父と子と聖霊との名においてバプテスマをうけ主の体なる教会に入れられた者であるから、すべての不義と迷信とをしりぞけ、互に主にある兄弟姉妹の交わりを厚うし、常に神の栄光のあらわれるように祈り、つぎのことを相共につとめる。
一、教会の秩序を守り、その教えと訓練とに従い、聖日礼拝、祈祷会その他の集会を重んじ、聖餐にあずかり、伝道に励み、時と財と力とをささげて教会の維持発展につくすこと。
二、日日聖書に親しみ、常に祈り、敬虔、純潔、節制、勤労の生涯を全うすること。
三、家庭の礼拝を重んじ、家族の和合を尊び、子女を信仰に導き一家そろつて神につかえること。
四、互に人格を重んじ、隣人を愛し、社会の福祉のために労し、キリストの正義と愛とがあまねく世に行われるようにすること。
五、神の御旨に従つて、国家の道義を高め、国際正義の実現をはかり、世界平和の達成を期すること。
願わくは神、われわれを憐み、この志を遂げさせたまわんことを。
アーメン。
昨春、四十年記念委員会の発足と同時に歴史編纂及名簿編集に松尾牧師、藤掛伝道師、野畑啓二郎、田口陽太郎両長老の四名が責任をとることになりました。その後会合を重ね、松尾牧師は、記念されるベき故人に関する項を担当され、その原文のままがのせられています。野畑長老は、松尾牧師の小伝の責任をとられ、之も原文のままです。写真は主に田口長老の御努力によるものです、歴史の本文と年表は藤掛伝道師が一応書いたものを、松尾牧師が加筆訂正されました。
四十年間のそう長くない間にも、すでに重要な資料の欠けた時期も出来て居り、次回の事を考えると之を機会に皆様の御協力によつて、資料の収集保存に万全を期する様にしたいと思います。
本史の特長といえば、四十年間の大部分を御自身で経験された松尾牧師が眼を通されたところにあると思われます。又松尾牧師の小伝も、今年で二十八年間当教会の長老として、牧師に近くあつた野畑長老に書いていただいた事は最も人を得た事と感謝です。
この仕事を祈りをもつて支えられた、諸兄姉に感謝致します。
伝道師 藤掛 豊盛
一九五七年十月三十一日発行
編集兼発行者
鎌倉市雪ノ下四百二十四
松尾 造酒蔵
発行所
鎌倉市雪ノ下三百四十五
日本基督教団
鎌倉雪ノ下教会
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